第4話 二つの道
監視塔を離れ、本隊へ戻る。
負傷したグレイグを乗せた馬のそばには、兵士がついていた。もう一頭には、脚を射られた男。手綱は見張りの兵が引いている。
武器を預けた六人も、黙ってついてきていた。
速度は上がらない。
帝国軍から、百騎以上が離れた。
向かった先は北。
自分たちを狙っているのかは分からない。それでも、ここに留まって確かめる余裕はなかった。
「見えました!」
先頭の兵士が声を上げる。
街道の先に、人影が動いていた。
本隊だ。
◇
「レン!」
セレスティアが駆けてきた。
「無事だったのですね」
「ああ」
彼女の視線が、馬に乗せられた男へ移る。
「……グレイグ?」
「刺された。でも生きてる」
「誰に?」
「あっちの男です。昨日、隊に加わったらしい」
縛られた男を見て、セレスティアの表情が硬くなった。
レンは懐の金属筒に触れる。
四日前に死んだ近衛総長。
三日前の日付が記された命令書。
そこに書かれていた、久城蓮という名前。
話したいことは、いくつもあった。
だが、先に伝えなければならない。
「帝国軍から騎兵が離れました。確認できたのは百以上」
「……こちらへ?」
「北へ向かった。それ以上は分かりません」
セレスティアが老兵を振り返った。
「出発の準備は?」
「できております」
「グレイグの手当てをお願いします。捕らえた者にも、見張りをつけたまま治療を」
「承知しました」
同行した兵士たちが、監視塔で起きたことを報告し始める。預かった武器が運ばれ、戻ってきた者たちへ指示が出された。
老兵は報告を聞きながら、レンへ一度だけ目を向けた。
聞きたいことはある。
そういう目だった。
「詳しい話は、移動してからで」
レンが言うと、老兵も頷いた。
「まずは、ここを離れましょう」
地図が地面へ広げられた。
◇
「北へ逃げるなら、どの道ですか」
レンがしゃがむ。
老兵が地図へ指を置いた。セレスティアも、そのそばへ膝をつく。
「ベルン街道です。道幅があり、荷車も通しやすい」
「一番早い?」
「北へ抜けるなら」
「帝国軍も、この道は知ってる?」
「街道ですからな。知らぬとは考えにくいでしょう」
レンは北へ伸びる線を見た。
敵本隊から離れた騎兵も、北へ向かった。
「他には?」
「旧西道があります」
老兵の指が、西へ動く。
「ただ、今の我々には向きません」
「通れない?」
「通れます。ですが、狭い。ぬかるみも多く、荷車の進みは落ちる」
「馬は?」
「走りにくいでしょうな」
「俺たちも遅くなるけど、騎兵も速度を出しにくい?」
「場所によります。追われれば、楽な道ではありません」
「……ですよね」
レンは二つの道を見比べた。
早く進めるベルン街道。
進みにくい旧西道。
負傷者を運ぶなら、選びたいのは前者だった。
だが、その先には北へ向かった騎兵がいるかもしれない。
「旧西道は、どこまで続くんです?」
「途中で分かれます。西へ進む道と、北西へ折れる道です」
「分かれ道までは、荷車も通せる?」
「普段なら」
「今も通れるか、先を見てもらえますか」
老兵がレンを見た。
「旧西道を選ぶおつもりか」
「北へ進むのを、いったんやめたいです」
レンはベルン街道を指した。
「騎兵が何をしに行ったのか分からない。俺たちが早く北へ逃げようとすれば、向こうも使いやすい道へ入ることになる」
指を西へずらす。
「こっちが安全だとは言えません。でも、北へ出た騎兵からは進む向きをずらせる。狭い道なら、追ってこられても馬の速さを使いにくい場所があるかもしれない」
「その代わり、こちらの負担は増えます」
老兵が言った。
レンは頷いた。
「はい。だから、ずっと先まで決めるんじゃなくて、まず分かれ道まで。そこからどちらへ行くかは、先を見てもらってから考えたいです」
セレスティアが地図の外へ目を向けた。
手当てを受けるグレイグ。担架で横になっている兵士。荷を背負ったまま、出発を待つ者たち。
「旧西道では、予定していた距離までは進めないでしょう」
彼女が言った。
「負傷者を運ぶ者も、今より疲れます」
「はい」
「途中で進めなくなれば、戻るにも時間がかかる」
「……それもあります」
セレスティアは、しばらく地図を見ていた。
やがて、北へ伸びる道から指を離す。
「私も、今は北へ進むべきではないと思います」
立ち上がり、兵士たちへ向き直った。
「旧西道へ向かいます。負傷者を優先してください。水と食料を確認し、出発します!」
「はっ!」
老兵も立ち上がる。
「斥候を二騎。ベルン街道と、旧西道の先へ。深入りはするな。確認したら戻れ」
命令が飛び、人が動く。
地図が畳まれる。荷物が運ばれる。負傷者が起こされ、馬が引かれていった。
レンは、その光景を見ていた。
自分が案を出した。
セレスティアが決めた。
これから全員が、その道を歩く。
道を間違えれば。
間違えたと言うだけでは、済まない。
「……重いな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
旧西道に入って、それほど経たないうちだった。
「止めろ!」
前方から声が飛ぶ。
荷車の片輪が、深いぬかるみにはまっていた。
「押せ!」
「せーの!」
四人がかりで押す。
動かない。
荷台では、負傷者が苦しそうに呻いていた。車輪が空回りするたび、荷車が傾く。
「待ってください」
レンも近づく。
「先に、この人を降ろせませんか」
兵士たちが手を止めた。
負傷者を支え、布を敷いた場所へ移す。積まれた荷も、順に下ろしていった。
「何が載ってる?」
「食料、水、治療用の荷。それと予備の武具や天幕です」
「下ろせるものは、一度全部下ろそう」
箱が運び出される。水袋が外され、束ねた天幕が地面へ置かれた。
軽くなった荷車を、もう一度押す。
レンも後ろへ回った。
「せーの!」
「押せ!」
車輪が泥を跳ね上げる。
足が滑った。踏ん張り直し、肩を押しつける。
「もう一度!」
鈍い音とともに、車輪が溝を抜けた。
「出た!」
兵士たちが息を吐く。
レンも荷台から手を離した。指の間まで泥が入り込んでいる。
「積み直します!」
「待って」
レンは、地面に並んだ荷物を見た。
「このまま全部積んだら、また同じことになるよね」
「……おそらく」
「何なら減らせる?」
兵士が荷物へ目を落とす。
「予備の武具をいくらか」
「使える武器は?」
「残すべきです」
「食料」
「必要です」
「水」
「当然です」
「薬とか布も?」
「捨てられません」
レンは頭を掻いた。
「……必要なものしかないじゃん」
兵士が困ったように黙る。
その横から、老兵が天幕の束を指した。
「負傷者を覆う分を残して、余りを減らしましょう」
「今夜、雨が降ったら?」
「困ります。ですが、荷車が動かなくなれば、それ以上に困る」
レンは天幕を見た。
なければ困る。
持っていても、進めなくなる。
「他には?」
「予備の鎧。修理が要る盾。それから、重い調理器具も減らせます」
「食事の用意は?」
「残す道具で間に合わせます」
老兵は地面の荷を一つずつ確かめていた。
不要だから置いていくのではない。
まだ使える。
あれば助かる。
それでも、全部は持てない。
「食料と水、治療用品は残す」
レンは言った。
「武器と道具は、使う人に選んでもらおう。今すぐ必要なものから」
「承知しました」
余分な天幕。
予備の鎧。
傷んだ盾。
重い調理器具。
手放す物が、道端へ寄せられていく。
レンは、それを見ていた。
誰かを置いていかずに済むように。
その代わりに、運べる物を減らしている。
「これ、帝国兵が見つけたら」
レンが言いかけると、老兵は頷いた。
「我々が通ったと分かるでしょうな。ですが、荷だけ隠しても、この人数と車輪の跡は消せません」
老兵が旧西道の先を見る。
「急ぎましょう。ここで使った時間は、戻りません」
車輪と軸を確かめてから、負傷者が荷台へ戻される。
少し軽くなった荷車が、再び動き出した。
◇
旧西道は、思っていた以上に酷かった。
ぬかるみを避けようとすれば草へ足を取られる。荷車が傾くたびに、そばの兵士たちが手を添えた。
負傷者を支える者も、荷物を持つ者も、少しずつ口数が減っていく。
「一度、休ませてください」
兵士が言った。
「どれくらい?」
「四半刻ほど」
「分かった」
老兵が前後へ声をかけ、一行が止まった。
レンも道端へ座る。
足が痛い。喉も渇いていた。
手の泥は乾き始めている。指を曲げると、皮膚が引っ張られた。
「後悔していますか?」
セレスティアが隣に立っていた。
「してる」
「……早いですね」
「道、想像以上に酷いから」
セレスティアが小さく笑った。
「笑いました?」
「少し」
「こっちは結構へこんでるんだけど」
「私も疲れました」
そう言って、彼女も腰を下ろした。
鎧が小さく鳴る。
泥に汚れているのは、自分だけではなかった。
「でも」
セレスティアが道の先を見る。
「戻るとは言わないのですね」
レンは少し黙った。
「戻れば楽になるって分かってたら、言ってたかもしれません」
「分からない?」
「はい」
彼女はそれ以上、聞かなかった。
少し離れた場所では、兵士が荷車の車輪を調べている。別の者が、負傷者へ水を飲ませていた。
レンは膝に手をつき、ゆっくり息を吐いた。
「もう少し休んだら、行こう」
「はい」
それだけだった。
◇
「斥候が戻りました!」
休憩を終えようとした時だった。
馬が一騎、こちらへ駆けてくる。
乗っていた兵士は、到着するなり飛び降りた。
「ベルン街道で、帝国騎兵を確認しました!」
老兵が近づく。
「何騎だ」
「三十ほどです」
「百騎じゃない?」
レンが聞いた。
「私が確認できたのは三十ほどです。それ以上は分かりません」
「何をしてた?」
「街道脇の林に、馬を入れていました。兵も道から見えにくい位置にいます」
「休んでる?」
「その可能性もあります。ただ、見張りがいました。それに……」
「何?」
「街道の両側に、分かれていました」
老兵の顔が変わった。
「場所は」
「ここです」
地図が開かれる。
斥候が指を置いた。
「……ここか」
老兵が低く言う。
「何かあるの?」
「街道が狭くなります。両側に斜面が迫り、荷車を横へ逃がせない」
レンも地図を見る。
「先頭を止められたら?」
「後ろが詰まるでしょう」
「道を外れるのは?」
「歩ける兵だけなら、斜面へ上がれるかもしれません。ですが、荷車と歩けぬ者は残される」
レンは黙った。
先頭が止まる。
後ろには荷車。
負傷者。
狭い道。
戦える者が動こうとしても、その間には守らなければならない人間がいる。
「俺たちを待ってるの?」
レンが斥候を見る。
「そこまでは分かりません」
「待ち伏せかどうかは?」
「断言はできません。ただ、通常の休息には見えませんでした」
レンは地図へ目を戻した。
当たった。
そう思いかけて、やめた。
誰を狙っているのかは分からない。
本隊を離れた百騎以上の一部なのかも、確かめられていない。
それでも。
そこへ荷車ごと入っていく自分たちの姿は、はっきり想像できた。
「ベルン街道を選んでいれば……」
老兵は、その先を言わなかった。
レンは道端へ座る負傷者たちを見た。
こちらでは誰も、報告に気づいていない。
一人の兵士が、隣の男へ水袋を渡していた。
「レン」
セレスティアが呼ぶ。
顔を上げると、彼女はレンを見ていた。
何も言わなかった。
レンも、何も言えなかった。
ただ一度、頷いた。
◇
もう一騎の斥候が戻ったのは、それから間もなくだった。
「分かれ道までは通れます。北西へ折れた先で、川も確認しました」
地図の周りに、再び人が寄る。
「水は?」
「流れています。近くに大きな兵の集団は見当たりませんでした」
「荷車は通せる?」
斥候は少し考えた。
「川の近くまでは。ただ、その先までは確かめていません」
「分かった。ありがとう」
レンは地図の分岐へ指を置いた。
西へ続く旧西道。
北西へ折れ、川へ向かう道。
「西の道は?」
老兵が答える。
「荷車を進めるなら、そちらの方がましです」
「北西は?」
「水を取れます。ただし、川の先はさらに道が悪くなる。荷車を連れて進める保証はありません」
水。
負傷者。
荷車。
進める道。
また、選ばなければならない。
レンは斥候へ顔を向けた。
「川へ向かう途中で、一行を止められる場所はありますか」
「あります。分かれ道の先が、少し広くなっています」
老兵が地図へ指を添える。
「ここでしょうな」
「まず、分かれ道まで進めますか」
「ええ。そこへ着くまでに、川へ向かうか、西へ進むかを決めましょう」
レンは頷いた。
目の前にいる者たちが、知っていることを持ち寄っている。
道を知る者。
今、見てきた者。
荷車を動かす者。
負傷者を運ぶ者。
レン一人では、この地図の線一本さえ選べなかった。
「出発するぞ」
老兵の声で、兵士たちが立ち上がる。
荷が背負い直される。馬が引かれる。荷車を押す者が、そばへ戻っていく。
レンも立ち上がった。
足の裏が痛んだ。
それでも、歩ける。
地図が畳まれる。
細い線だった道が、目の前に続いている。
レンは、その先へ足を踏み出した。
背後で、車輪が軋む。
少し歩いてから、振り返った。
荷車は動いていた。
兵士たちも、ついてきていた。
その顔を、一つずつ確かめる。
まだ、正しい道を選べたとは言えない。
けれど。
次の場所まで。
この人たちと、歩かなければならない。
レンは前へ向き直った。
地図の上では、細い一本の線だった。
その道を。
今は。
命が、歩いていた。
――第四話 了




