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王国最後の軍師 ―敗残兵から始める異世界覇道戦記―  作者: 千蘭


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第3話 死者から届いた命令


「――久城、蓮」


 その名前を聞いた瞬間。


 レンの思考が止まった。


 久城蓮。


 この世界に来てから、一度も口にしていない。


 セレスティアにも。


 老兵にも。


 誰にも。


「……今、なんて言った」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。


 グレイグは答えない。ただ、レンを見ている。


 何かを確かめ終えた人間の目だった。


「誰から聞いた」

「……」

「俺の名前を、誰から聞いた」


 レンは一歩だけ前へ出た。


 背後にいる五人が動く。少し離れた場所には、残してきた四人。弓兵二人もそこにいる。


「レン、下がってください」


 後ろから小さな声がした。


「大丈夫」


 大丈夫なわけがない。


 剣もまともに使えない。目の前には武装した八人。そのうち一人は、ついさっき剣まで抜いた。


 それでも、足が止まらなかった。


 ここで帰れば。


 自分の名前を知る男を、ここに残していくことになる。


「グレイグ」


 初めて名前で呼ぶ。


「俺のことを、どこまで知ってる?」

「……ほとんど何も知らん」

「じゃあ、久城蓮は?」

「名前だけだ」

「誰に聞いた?」

「言えない」

「どうして」

「言えば――」


 そこで、グレイグの視線が動いた。


 ほんの一瞬。


 右。


 レンも見る。


 王国旗について聞いた時、一度だけレンを見て、すぐに視線を逸らした男。右端に立っていた兵士だった。


 今もいる。


 何もせず、ただ立っている。


 けれど。


 グレイグは、その男を見た。


 レンは視線を戻した。


 気づいたことを、相手に知らせる必要はない。


「一つずつ聞く」

「……」

「王女を待てと言われたんだな」

「ああ」

「俺については?」

「現れたら、確認しろと」

「何を?」

「名前を」


 背中に冷たいものが走った。


「いつだ」

「何?」

「その命令を受けたのは、いつだ」


 グレイグの口が閉じる。


「いつだ、グレイグ」


 長い沈黙。


 やがて。


「三日前だ」


 レンは何も言えなかった。


 三日前。


 王国が滅びたのは昨日。


 そしてレンがこの世界に来たのも――昨日だ。


「もう一度言ってくれ」

「三日前だ」

「間違いない?」

「間違えるものか」


 グレイグの声に苛立ちが混じった。


「俺は昨日ここに来た」

「……何?」

「三日前、この世界に俺はいなかった」


 今度は、グレイグが黙った。


 レンは男の顔を見た。


 驚いたのか。意味が分からなかったのか。それすら判断できない。


 ただ、自分の手が冷たくなっていくのは分かった。


「命令した奴は、俺が来ることを知ってた?」

「知らん」

「でも、俺の名前は書いてあった」

「……そうだ」

「どういうことだよ」

「俺に聞くな」


 グレイグの声が、わずかに揺れた。


「俺だって知りたい」


 小さな声だった。


「なぜ、あの命令にお前の名前があったのか」


 風が吹く。


 頭上で王国旗が鳴った。


「命令書は?」

「……ある」

「見せてくれ」


 グレイグは動かなかった。


「見せられない?」

「違う」


 また、視線が右へ動いた。


 グレイグは、あの男を気にしている。


 理由は分からない。


 レンは、今度はそちらを見なかった。


「誰から届いた」

「……」

「名義だけでもいい」

「言っても信じない」

「それは聞いてから決める」


 グレイグがレンを見る。


 しばらくして、諦めたように息を吐いた。


「近衛総長だ」

「近衛総長?」


「あり得ません!」


 レンの後ろにいた王国兵が声を上げた。


 振り返ると、兵士の顔が青ざめている。


「どうして?」

「近衛総長は……亡くなっています」

「いつ?」

「王都が落ちる前です。南門の戦いで――」

「四日前だ」


 グレイグが遮った。


 全員が黙る。


「四日前?」

「ああ」

「でも命令を受けたのは?」

「三日前だ」


 一日。


 死んだ後だ。


「……誰かが名前を使っただけじゃないのか」


 レンが言う。


 死者が命令した。


 そんな話を、最初から信じる必要はない。


「俺もそう思った」

「印は?」

「本物だった」

「盗める」

「筆跡も」

「真似できる」

「そうだな」


 グレイグが笑った。


 その笑いには、何の余裕もなかった。


「だから俺も捨てようとした」

「じゃあ、なんで従った」

「最後に書かれていた」

「何が?」

「認証句だ」


 男の顔から笑みが消える。


「近衛の限られた者しか知らん。命令が本物かを確かめるための言葉だ」

「何人知ってる?」

「全員は知らない」

「なら、総長以外に書ける人間もいる」

「いるかもしれん」

「だったら、死者から届いたとは限らない」

「そうだ」


 グレイグは即答した。


「俺もそう思いたい」


 レンは黙った。


 疑う理由はある。


 従ってしまう理由も、あったのかもしれない。


「命令には何て?」

「王女が現れたら、保護しろと」

「俺は?」

「異邦人が現れた場合も、同じだと」

「名前も書いてあった?」

「ああ。レンと」

「久城蓮も?」

「書いてあった」

「読めたのか?」

「読めない文字もあった」


 レンの心臓が跳ねた。


「読めない?」

「見たことのない文字だ。その横に、発音だけ王国文字で記されていた」

「それを読んで、俺に?」

「そうだ」


 グレイグが日本語を読めるわけではないらしい。


 誰かが。


 この世界の文字で。


 久城蓮という名前の読み方を教えた。


「……見せてくれ」


 レンはもう一度言った。


 グレイグの手が動く。


 ゆっくり。


 剣ではない。


 腰に下げていた小さな革袋へ。


 その瞬間。


 右端の男が動いた。


「グレイグ!」


 レンが叫ぶ。


 遅い。


 男の手に短剣があった。


 グレイグが振り向く。


 刃が脇腹へ入った。


「ぐっ――!」


 血が飛ぶ。


「右だ!」


 レンが叫んだ。


 男はグレイグの身体を押し退け、革袋へ手を伸ばす。


 その手が届くより先に。


 風を切る音。


 矢。


 男の太腿に突き刺さった。


「がっ!」


 男が崩れ落ちる。


 離れた場所に残していた弓兵だ。


 四人を残しておいた。


 その判断が、ここで生きた。


「殺すな!」


 レンが叫ぶ。


「そいつを生かせ!」


 残る六人の兵士が剣を構えた。こちらの兵士も反応する。


 誰が誰へ刃を向けるのか。


 一瞬、分からなくなった。


「待て!」


 レンは両方に向かって叫ぶ。


「今、刺したのはそいつだけだ! 他は動くな!」


 剣先が止まる。


 グレイグだけが、膝をついた。


「グレイグ!」


 レンが駆け寄る。


 横から兵士が一人しゃがみ込み、傷口を押さえた。


「布を!」

「はい!」


 血が多い。


 レンは手を伸ばしかけ、止めた。


 どうすればいいのか、分からなかった。


 傷を押さえる兵士の手だけが、迷わず動いている。


「……馬鹿が」


 グレイグが呻いた。


「喋るな」

「そいつ……」

「捕まえる」

「違う……」


 グレイグの手が、レンの腕を掴んだ。


「そいつは……俺の部下じゃない」

「何?」


 レンが右を見る。


 矢を受けた男は、すでに兵士二人に押さえつけられていた。短剣が遠くへ蹴り飛ばされる。


「いつからいる」

「昨日……合流した」

「王国兵じゃない?」

「分からん……鎧も……合言葉も……知っていた」

「顔は知らなかった?」

「ああ……」


 グレイグが苦しそうに息を吐いた。


「王都が……あの有様だ……散った兵が……戻ってきても……おかしくない……」


 レンは男を見る。


 王国軍の鎧。


 王国軍の言葉。


 王国軍の合言葉。


 それでも。


 王国兵とは限らない。


 遠くから旗を見た時の、自分の言葉が頭をよぎる。


 味方の顔をしている。


「他の六人は?」

「俺の……部下だ……」


 六人を見る。


 全員、顔色を失っていた。剣を握ったまま、倒れたグレイグを見ている。


 今の反応まで演技には見えない。


 だが、信用するかどうかを決めるのは後だ。


「剣を置いてくれ」


 レンは六人へ言った。


「グレイグを運びたい。あんたたちまで疑いながらじゃ、動けない」


 男たちは互いの顔を見た。


 一人が、剣を地面へ置く。


 続いて、残る者たちも。


 レンは傷を押さえている兵士へ目を戻した。


「運べる?」

「出血を押さえてからです」

「分かった。頼む」


 グレイグの手が、まだレンの腕を掴んでいた。


「袋を……」


 レンが頷く。


 兵士に革袋を外してもらうと、中には細い金属の筒があった。


「これ?」

「……ああ」

「命令書か」

「そうだ……」


 レンは筒を受け取った。


「グレイグ」

「……」

「死ぬなよ」

「命令……するな……」

「じゃあ頼む。まだ聞きたいことがある」

「多すぎる……だろうな……」


 かすかに、グレイグが笑った。


「俺もだ……」


 目を閉じる。


「おい」

「気を失っただけです!」


 傷を押さえていた兵士が叫ぶ。


「まだ息があります!」


 レンは、ようやく呼吸を思い出した。


 吸った空気が、喉に引っかかった。


     ◇


 グレイグの手当てをしている間に、捕らえた男を縛った。


 脚の傷にも布が巻かれる。


 男は抵抗しなかった。


 名を聞いても、所属を聞いても答えない。誰の命令か聞いても、口を開かなかった。


 ただ一度。


 レンが金属の筒へ触れた時だけ、男の目が動いた。


 この中身を、気にしている。


「開けますか?」


 兵士が聞く。


「開ける」


 筒には、切られた封の跡が残っていた。


 兵士の一人が、その印を覗き込む。


「近衛総長の私印です」

「間違いない?」

「少なくとも、見た目は」


 その答えでいい。


 本物だと決めつける必要はない。


 蓋を外す。


 中から、巻かれた紙が出てきた。


 白い。


 薄い。


 レンが見慣れている紙に近かった。


「この紙、珍しい?」


 兵士へ見せる。


 男は指で触れてから、眉を寄せた。


「……見たことがありません」

「俺もです」


 別の兵士も答える。


 この世界に存在しない、とは言えない。


 少なくとも、この兵士たちには珍しい。


 レンは紙を広げた。


 上端に、日付らしい数字が並んでいる。


「これ、今日から何日前になる?」

「三日前です」


 グレイグが命令を受けたと言った日と、同じだった。


 受け取った日についての証言と、書面に記された日付。


 少なくとも、その二つは一致している。


 レンは本文へ目を移した。


 この世界へ来てから、不思議と理解できるようになった文字だった。


『近衛第三隊副長グレイグ・ハルバートへ。

 北街道、旧監視塔にて待機。

 王国旗を掲げよ。

 王女セレスティアが現れた場合、保護せよ。

 同行する王国兵との交戦は可能な限り避けよ』


 レンは眉を寄せた。


「……残った兵を助けるとは、書いてない」


 グレイグは言った。


 殿下を渡せば、残った兵は助かる、と。


 だが、ここにあるのは王女の保護と、交戦を避ける指示だけだ。


 帝国軍に追われている兵を助ける。


 そんな約束は、どこにもない。


 なぜ、あいつはそう言った。


 別の命令があるのか。


 誰かから直接聞いたのか。


 それとも。


 レンたちを従わせるために、嘘をついたのか。


 今は分からない。


 グレイグが目を覚ましたら、聞かなければならない。


 レンは先を読む。


『異邦人が現れた場合も同様。

 殺害を禁ずる。

 名はレン』


 指が止まる。


 三日前。


 まだ自分がこの世界にいなかった時に。


 レンという名前が書かれている。


 さらに下。


『本人の確認には、以下の名を用いよ』


 その横に、王国文字で発音が記されていた。


 グレイグが読んだのは、これだ。


 そして、その下。


 三文字。


 久城蓮。


「……」


 読める。


 間違えるはずがない。


 自分の名前だ。


「レン殿?」


 兵士が覗き込む。


「この三つの文字は、何と書かれているのですか」


 やっぱり。


 読めない。


「俺の名前」

「え?」

「久城蓮。俺の、本当の名前だ」


 兵士が紙を見る。


 それから、レンを見る。


「この文字を読めるのですか」

「ああ」

「では、この命令を書いた者も……」

「分からない」


 レンはすぐに止めた。


「形だけ写した可能性もある。書いた本人が読めるとは限らない」

「しかし――」

「少なくとも、誰かがこの命令に俺の名前を入れた。それは確かだ」


 それだけ。


 なのに、十分すぎるほど気味が悪い。


 紙の最後には、近衛総長の名と、短い一文が記されていた。


 兵士の一人が息を呑む。


「……本物です」

「何が?」

「この認証句です。近衛の命令書に使われるものです」

「だから、この命令も本物?」

「いえ……」


 兵士は言葉に詰まった。


 レンが続ける。


「その言葉を知ってる誰かが書いた可能性もある」

「……はい」


 死者が命令した。


 そんな結論に飛びつく必要はない。


 近衛総長の名を使った者。


 認証句を記した者。


 レンの名前を、この命令に入れた者。


 同じ人間なのか。


 何人もの手を経て、ここへ届いたのか。


 それさえ、まだ分からない。


「分からないことが増えたな……」


 レンは呟いた。


 少し前まで、考えていたのは逃げ道だった。


 どこへ行けば死なずに済むか。


 誰を信用して、誰を避けるか。


 そのために旗を確かめに来た。


 なのに今は。


 この世界へ来る前の自分まで、紙の上にある。


「……戻ろう」


 レンは言った。


 帝国軍は今も近づいている。


 グレイグも、ここで休ませておける状態ではない。


 捕らえた男へ見張りをつけ、六人から預かった武器をまとめさせる。グレイグたちの馬を二頭使い、負傷した二人を運ぶ準備も進めた。


 歩く兵士が、それぞれのそばにつく。


 今は、全員を本隊へ連れて戻る。


 話を聞くのは、その後だ。


 王国旗を下ろさせる。


 レンも紙を巻き直そうとした。


 その時。


 端にある、小さな印が目に入った。


「……待って」


 手が止まる。


 黒い円。


 その中心を、一本の線が貫いている。


 文字ではない。


 紋章。


 いや。


 どこかで見た。


「どうしました?」

「少し、静かにして」


 記憶を探る。


 昨日。


 この世界へ来る前。


 もっと前じゃない。


 直前だ。


 何をしていた。


 どこにいた。


 何を見ていた。


 思い出せない。


 いや。


 思い出したくなかっただけなのかもしれない。


 暗い部屋。


 手の中のスマートフォン。


 画面。


 知らない通知。


 開いた覚えはない。


 それなのに。


 最後に見た画面だけが、妙にはっきり残っている。


 黒い円。


 その中心を貫く一本の線。


「……嘘だろ」


 同じだ。


 レンは紙を裏返す。


 何もない。


 もう一度、表を見る。


 同じ印。


 偶然。


 似た印なんて、いくらでもある。


 まだ決めつけるな。


 そう思った、その瞬間。


 記憶の中で、スマートフォンの画面にあった文字が蘇った。


 たった一行。


『あなたなら、滅びる国を救えますか?』


 呼吸が止まった。


 滅びる国。


 昨日、本当に滅びた。


 そして。


 自分がこの世界へ来る前の日付が記された命令書に。


 自分の名前がある。


「レン殿?」


 返事ができない。


 もし、あの画面と、この命令書が、同じ誰かに繋がっているなら。


 自分は偶然ここへ来たんじゃない。


 そう考えた瞬間、レンは自分でその考えを止めた。


 まだ証拠はない。


 印が同じ。


 名前がある。


 命令書には三日前の日付がある。


 それだけだ。


 日付そのものが偽られている可能性だってある。


 それだけなのに。


 手の震えだけは。


 止まらなかった。


「……レン殿!」


 今度は別の声だった。


 街道の向こうから、馬の蹄が響く。


 一騎。


 王国兵だ。


 全速力でこちらへ向かってくる。


 レンの頭が切り替わった。


 残してきた本隊からの伝令だった。


 馬が止まるより早く、兵士が叫ぶ。


「帝国軍に動きがあります!」


 レンは顔を上げた。


「何があった」

「騎兵です!」


 伝令が馬から飛び降りる。


「敵本隊から騎兵が離れました!」

「数は?」

「確認できたのは百以上! まだ増えています!」

「方向は?」

「北です!」


 レンは黙った。


 北。


 今いる場所も、北。


「俺たちを見つけた?」

「分かりません!」

「敵本隊は?」

「進んではいます。ただ、速度は遅いままです。最初に考えていたより、こちらとの距離は詰まっていません」


 最初に聞いた二時間という数字は、その時点での見立てだった。


 実際の進軍は、想定より遅い。


 だが、騎兵だけが先に来れば話は変わる。


「こちらの本隊は?」

「移動準備を終えています! 敵が距離を詰めれば、レン殿の帰還を待たずに動くと!」

「分かった」


 レンは振り返った。


 負傷したグレイグ。


 捕らえた男。


 武器を預けた六人。


 下ろされた王国旗。


 そして、手の中には。


 三日前の日付が記された、自分の名前。


 謎を考えている時間はない。


 帝国軍は待ってくれない。


 レンは紙を巻き直し、金属の筒へ戻した。蓋を閉め、懐へ押し込む。


「全員、戻る」


 兵士たちが動き始める。


 馬が引かれ、負傷者のそばへ人がつく。


 レンも歩き出した。


 だが、一度だけ振り返る。


 誰もいなくなる監視塔。


 四日前に死んだ近衛総長。


 その名で出された命令。


 日付は三日前。


 そこには、久城蓮と書かれていた。


 生きている誰かが、死者の名を使ったのか。


 日付そのものが嘘なのか。


 まだ分からない。


 ただ。


 もし、その日付が本物なら。


 誰かが。


 レン自身より先に。


 久城蓮がこの世界へ来ることを知っていたことになる。


 レンは懐の筒へ手を押し当てた。


 怖かった。


 けれど、今は止まれない。


 後ろには帝国軍。


 懐には、死者の名で届いた命令。


 そして。


 そのどちらにも。


 まだ答えはなかった。


――第三話 了



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