第2話 敵は、俺たちの逃げ道を知っている
王国旗が、風に揺れていた。
遠い。誰が掲げているのかまでは見えない。けれど、見間違えるはずもないらしい。
俺の隣で、セレスティアがずっと旗を見ていた。
「……王国軍の生き残りだと思う?」
「分からないわ」
「知ってる部隊の旗?」
「王国旗はどの部隊でも使う。あれだけでは判断できない」
なら、まだ何も分からない。
味方かもしれない。敵かもしれない。そのどちらでもない可能性だってある。
「北へ行った斥候は、どこまで近づいた?」
「街道が見えるところまでです」
馬から降りた斥候が答える。まだ息が荒い。
「人数は?」
「確認できませんでした。旗の周囲に何人か。ただ、こちらに気づいた様子はありません」
「服装は?」
「王国兵に見えました」
「見えた?」
「……遠かったので」
「顔は?」
「見ていません」
「声は?」
「聞いていません」
俺は頷いた。
「じゃあ、分かったのは旗と服だけだ」
「はい」
それ以上は足さない。
分からないものを、分かったことにする方が怖い。
「伝令!」
別の声が飛んだ。川を見に行っていた斥候だった。
「南の川、渡河は可能です! ただし負傷者を連れて渡るには時間がかかります!」
「帝国兵は?」
「見ておりません!」
少し遅れて、帝国軍の後方を探っていた斥候も戻ってきた。
「後方は?」
「荷駄らしき列は確認しました。ただ、数までは」
「敵の進み方は?」
「変わりません。遅いままです」
これで、出した斥候は全員戻った。
情報は増えた。なのに、分からないことも増えた。
「レン」
セレスティアが俺を見る。
「どうするの?」
北には王国旗。後ろには帝国軍。
南の川は渡れるが、五十三人の負傷者がいる。西にはラグナ峡谷。東には森。
「……あの旗を確かめたい」
「少人数で近づくの?」
「ああ。全員は連れていかない」
セレスティアが旗へ目を戻した。
「危険です」
老兵が言った。
「だから聞く。あの旗まで、歩いて近づける?」
「街道沿いなら。ただし、姿は隠しにくい」
「街道を外れたら?」
「北西側の地形を使えます。足場は悪いですが、歩兵なら進めます」
「騎兵は?」
「動きにくいでしょう」
俺は地図を見た。
この土地を、自分が知っているつもりで決めてはいけない。
「じゃあ、そこを使う」
「何人で?」
「俺を含めて十人」
北へ行った斥候を一人。王国軍の顔をよく知る兵を三人。弓兵を二人。護衛を三人。
「俺も行く」
「駄目よ」
即答だった。
「なんで?」
「あなた、剣を使えないのでしょう?」
「使えない」
「だったら――」
「だから、兵を九人つけてもらう」
セレスティアが睨んでくる。
「自慢するところではないわ」
「分かってる」
剣を使えるふりをしても仕方がない。昨日、この世界に来るまで、俺は戦争とは無縁だった。
一日で剣士になれるほど、この世界は親切じゃない。
「それに」
俺は王国旗を見る。
「俺が見たい」
「何を?」
「あの旗を掲げてる奴の顔を」
◇
出発前、老兵が兵士たちへ短く命令を飛ばしていた。
歩けない十二人のうち九人を馬へ。残る三人には担架。
十一頭の馬のうち二頭は、斥候と伝令のために空けておく。北から戻った斥候も、馬を本隊に残して徒歩で同行する。
これから向かう北西側は足場が悪い。馬より徒歩の方が動きやすいという。
他の負傷者も、いつでも動けるよう準備を始めていた。
帝国軍が距離を詰めてくれば、ここに残る理由はない。
「俺たちが戻る前に敵が来たら?」
「その時は、こちらの判断で動きます」
老兵が答えた。
「どっちへ?」
「敵の位置を見て決めます」
「そうしてくれ」
敵がどこから来るかも分からない。今ここで逃げ道を一つに決めてしまえば、その道に縛られる。
「合流は?」
「王国軍の斥候が使う印を残します」
「俺にも分かる?」
「同行する者なら分かります」
それでいい。
「レン」
振り返ると、セレスティアが立っていた。
「死なないで」
「努力する」
「……普通、そこは『必ず戻る』と言うところでしょう」
「守れるか分からない約束はしない」
「本当に、あなたは……」
何か言いかけて、セレスティアはやめた。
「戻ってきなさい」
「ああ」
今度は、それだけ答えた。
◇
王国旗が近づいてくる。
いや、近づいているのは俺たちだ。
北西側の起伏を使いながら進む。先頭は斥候。俺は真ん中。最後尾には弓兵の一人がいた。
「止まってください」
斥候が手を上げた。
全員が伏せる。
「あそこです」
木々の隙間から、古い石造りの監視塔が見えた。街道の少し先に立っている。
その脇に、王国旗。
「人数は?」
「……八」
「武器は?」
「全員、持っています」
「馬が三頭」
別の兵士が呟く。
「荷車もあります」
俺は目を凝らした。
八人。
確かに王国兵の格好をしている。鎧も、剣も、旗も。少なくとも、見えるものだけなら帝国兵には見えない。
「知ってる奴は?」
小声で聞く。
一人の兵士が息を呑んだ。
「……グレイグ殿」
「誰?」
「近衛第三隊副長、グレイグ・ハルバートです」
近衛。
つまり、王家のすぐ近くにいた人間。
「間違いない?」
「はい。王都で何度も」
別の兵士も頷いた。
「私も知っています。本人です」
本物。
少なくとも、顔は。
「どうします?」
「四人残す」
弓兵二人と、護衛二人。少し離れた場所から見てもらう。
「何かあったら?」
「俺を助けようとするな」
「は?」
「逃げて殿下に知らせろ」
「しかし――」
「十人まとめて消えたら、何が起きたか誰にも分からなくなる」
兵士は不満そうだった。
それでも頷いた。
六人で街道へ出る。
最初にこちらへ気づいたのは、若い兵士だった。剣へ手を伸ばす。
「待て」
低い声。
中央にいた男が兵士を止めた。
四十歳前後。頬に古い傷がある。疲れているようだったが、立ち方が他の七人とは違っていた。
「グレイグ殿!」
俺の横にいた兵士が叫んだ。
男の目が動く。
「……生きていたか」
知り合いらしい。兵士の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
「グレイグ殿こそ! 王都から逃れられたのですか!」
「ああ」
短い返事だった。
昨日、国が滅びた。互いに死んだと思っていてもおかしくない。
こちらの兵士は、再会を喜んでいる。
グレイグの顔には、それが見えなかった。
「そちらは?」
グレイグが俺を見る。
「レンだ」
名乗った瞬間。
男の目が止まった。
ほんの一瞬。
「……レン?」
「ああ」
グレイグは俺の顔を見た。
髪。目。服。
何かを確かめるように。
「何か?」
「いや」
視線が外れる。
見逃さなかった。
「セレスティア殿下はご無事か」
今度は、こっちが黙る番だった。
「どうして俺たちに聞く?」
「何?」
「殿下が俺たちと一緒にいると思ってるのか?」
「王都から逃れた兵がいる。殿下が生きているという話も聞いた」
「どこで?」
「……それを話している時間はない」
答えになっていない。
「殿下をここへお連れしろ」
「理由は?」
「保護する」
「八人で?」
「この先に味方がいる」
俺の横で兵士が動いた。俺は手だけで止める。
「どれくらい?」
「今は言えない」
「誰が指揮してる?」
「それもだ」
「帝国軍じゃない?」
グレイグの眉がわずかに動いた。
「ふざけるな」
「じゃあ、なんで隠す?」
「お前に話す必要がない」
声には敵意があった。
けれど、それだけではない。何かを焦っているようにも見えた。
「一つだけ教えてくれ」
「何だ」
「その旗」
俺は王国旗を指した。
「帝国軍が近くにいるのに、どうして掲げてる?」
グレイグは答えない。
「見つかったら困るだろ」
「……」
「それとも」
少しだけ間を置く。
「見つかっても困らない理由がある?」
後ろの兵士が動いた。
一人。
グレイグではない。
右端にいた男だ。
俺を見た。
すぐに視線を逸らす。
覚えておく。
「レンと言ったな」
「ああ」
「余計な詮索はするな」
グレイグの声が低くなる。
「殿下を渡せ」
「断ったら?」
「全員死ぬ」
「誰に殺される?」
「帝国だ」
「なら、渡したら?」
「残った兵は助かる」
風が止まった気がした。
「……誰が約束した?」
グレイグが黙る。
「帝国の将軍?」
「違う」
「帝国の使者?」
「違う」
「じゃあ誰が、帝国軍に追われてる二百人以上の命を保証できる?」
答えない。
グレイグは王国の近衛副長だ。帝国軍を指揮できる立場じゃない。
それなのに。
殿下を渡せば、残りは助かると言った。
「誰かに言われたんだな」
「黙れ」
「殿下をここへ連れてこいって」
「黙れ!」
「その誰かは――」
剣が抜かれた。
グレイグではない。後ろの一人だった。
こちらの兵士も反応する。
「抜くな!」
俺は叫んだ。
味方の剣が止まる。
グレイグ側の男も、抜いた剣を構えたまま動かなかった。
ここで斬り合えば。
もう、戻れない。
「……帰る」
俺は言った。
「何?」
「話は聞いた。殿下には伝える」
「待て」
グレイグの声が追ってきた。
「殿下を連れてこい」
「本人が決める」
「違う」
今度は、はっきりと焦りが声に出た。
「お前が連れてこい」
「なんで俺が?」
「……」
また、沈黙。
俺はグレイグを見る。
「俺を知ってるのか?」
男の顔から、何かが消えた。
「さっき初めて会ったはずだ」
返事はない。
「なのに、俺が殿下を動かせると思ってる」
一歩、グレイグへ近づく。
「どうして?」
「止まれ」
「誰から俺の名前を聞いた?」
「止まれ、レン」
「さっき名乗った時、反応した」
もう一歩。
「……」
「俺の名前を知ってたな?」
グレイグの右手が震えた。
剣ではない。
指が。
怖がっている。
俺を?
それとも、別の何かを。
「グレイグ殿」
横にいる王国兵が声を絞り出した。
「いったい、何があったのですか」
長い沈黙。
やがて、グレイグが息を吐いた。
「……帰れ」
さっきまでとは違う声だった。
「え?」
「ここから離れろ」
俺を見る。
「今すぐだ」
「だったら殿下は――」
「聞くな!」
怒鳴り声が響いた。
後ろにいる七人まで驚いている。
グレイグ自身が、何かと戦っているようだった。
「もう遅い」
小さな声だった。
「何が?」
「お前が来た」
意味が分からない。
「俺が来ることを知ってたのか?」
グレイグが目を閉じた。
「知っていたわけじゃない」
そして。
「待てと言われた」
背中が冷えた。
「誰に?」
「言えない」
「何を待てって?」
「……王女を」
「それだけ?」
答えない。
「俺も?」
グレイグが目を開いた。
その顔を見て。
分かった気がした。
俺もだ。
「誰だ」
声が勝手に低くなる。
「誰が俺を知ってる?」
グレイグは答えなかった。
代わりに。
「名前だけでは、確信できなかった」
俺の呼吸が止まる。
「何の話だ?」
「だが」
グレイグが俺を見る。
今度は、迷いがなかった。
「間違いない」
知らないはずの男が。
知らないはずの世界で。
俺に向かって。
その名前を口にした。
「やっと会えたな」
そして。
「――久城、蓮」
世界から。
音が消えた。
その名前を。
この世界で知っている人間は。
俺しかいないはずだった。
――第二話 了




