第15話 居場所
朝、レンは静けさの中で目を覚ました。
見慣れない天井を眺めてから、ここが北西領なのだと思い出す。
昨夜は、途中で一度も目を覚まさなかった。
「……寝たな」
「ようやく起きたか」
声の方を見ると、ガルドはすでに身支度を終えていた。
「おはようございます。何時です?」
「朝だ」
「それは見れば分かります」
「なら聞くな」
レンは身体を起こした。
肩も、腰も、足も痛む。けれど、すぐに立て、走れと急かす声はなかった。
「飯に行くぞ」
「俺たちにも、出るんですか」
「出る。ただし、動ける者は手伝えとな」
ガルドが扉へ向かう。
「詳しいことは、行けば分かる」
◇
外へ出ると、昨夜は見えなかった町の姿があった。
石造りの建物と木組みの家が並び、煙突から細い煙が上がっている。井戸では人々が水を汲み、道の端では男が荷車を直していた。
槍を持って門へ向かう兵と、戻ってくる兵がすれ違う。
町は目を覚ましていた。
警戒だけは、夜の間も眠らなかったらしい。
「レン!」
リオが手を振った。
隣では、オルドが木箱を下ろしている。
「こちらも手伝っていただけますか」
「朝一番で?」
「動ける奴は手伝え、だとさ」
オルドが箱を叩いた。
「市場の作業場へ運ぶ。そこの兵の指示を聞いてくれ」
北西領の兵が、運び込む先を示した。
身元の確認は、まだ続いている。外から来た者たちの仕事も、今は兵の目が届く場所に限られていた。
「その前に、飯を食わせてやれ」
ガルドが言う。
「力が入らんだろう」
「なら、戻ったら頼むぞ」
オルドに言われ、レンは頷いた。
「逃げませんよ」
「逃げても、市場で捕まる」
「狭いな、行動範囲……」
リオが少し笑った。
◇
炊き出しは、市場の広場で行われていた。
店や露店の台は多いが、開いている場所は少ない。木戸を閉ざした店もあれば、荷を置く台だけが残っているところもあった。
並んでいるのは、芋や豆、麦、塩漬けの肉。
「商人も、あまり来ないんですね」
「今はな」
ガルドが答えた。
その広場の中央には、大鍋が並んでいた。
白い湯気が上がり、町の住民に混じって、昨日入った避難民たちも手を動かしている。
まだ、互いの様子を窺う目はあった。
知らない者が二百人以上、一度に入ってきたのだ。受け入れる側にも、不安はあるだろう。
「そこの兄ちゃん!」
突然、声が飛んだ。
「俺ですか?」
「ほかに、ぼさっと突っ立ってる兄ちゃんがいるかい!」
大鍋の前に、一人の女が立っていた。
袖をまくり、片手に大きな木杓子を持っている。
「腹は?」
「減ってます」
「じゃあ並ぶ!」
「はい」
反射的に答えると、ガルドが小さく笑った。
「逆らわん方がよさそうだな」
「助ける気、ないですよね」
「俺も腹が減っとる」
列には王国兵も、北西領の兵も、避難民も、町の住民もいた。
同じ鍋から、順に椀を受け取っていく。
「ほら」
女が差し出した椀には、麦と豆、芋、それに少しだけ肉が入っていた。
「ありがとうございます」
「礼は食ってから言いな」
受け取るレンを、女が見た。
「王女様と一緒に来た若いのだろ」
「もう知ってるんですか」
「あれだけ目立ってりゃね。兵隊かい?」
「違います」
「じゃあ、何なんだい」
レンは少し考えた。
「……説明すると、長いんです」
「じゃあ今度にしな」
女は、椀へ芋をもう一つ入れた。
「え。でも、余裕があるわけじゃ――」
「ないよ」
あっさり言われた。
「昨日、二百人以上増えたんだ。そりゃ、楽じゃないさ」
レンは椀へ目を落とした。
「……すみません」
「なんであんたが謝るんだい」
女は次の椀へ煮込みをよそう。
「正直に言えば、昨日は嫌だったよ」
レンが顔を上げた。
「何が混じってるか分からない連中が、一気に来たんだ。食わせるだけでも大変なのに、手当ても寝床も要る。面倒だって思うさ」
近くにいた避難民の女が、少し顔を伏せた。
「でもね」
木杓子が、広場の端を示す。
王国兵と北西領の兵が、大きな木箱を運んでいた。
「朝になったら、あんたらの兵隊は荷物を運んでる。こっちの鍋を洗ってくれる人もいる。馬を扱える奴は厩舎へ行ったし、荷車を直せる爺さんまでいた」
女はレンへ目を戻した。
「食わせる口は増えた。でも、手も増えた」
伏せていた女の顔が、少し上がった。
「それなら、悪いことばっかりじゃない」
レンは温かい椀を持ち直した。
「……現実的ですね」
「綺麗事だけで腹が膨れるかい」
「無理ですね」
「だろ?」
女は、追加した芋を木杓子の先で示した。
「それを食ったら、あんたにも箱を運んでもらうよ」
「働く分、ですか」
「そういうことだ」
レンは少し笑った。
「名前、聞いてもいいですか」
「マルタ。市場の端で食堂をやってる」
「今は?」
「見りゃ分かるだろ」
大鍋を示す。
「炊き出し屋だよ」
「レンです」
「そうかい。レンね」
マルタは次の相手へ向き直った。
「ほら、飯が冷めるよ」
◇
広場の端に腰を下ろし、レンは椀に口をつけた。
温かかった。
薄い塩気と、柔らかく煮えた豆。芋を崩すと、湯気が顔へ上がってきた。
急いで飲み込まなくてもいい。
次の一口を、少し冷ましてから食べられる。
それが妙に、嬉しかった。
最後まで食べ、椀を返す。
「ごちそうさまでした」
「じゃあ、頼むよ」
「はい」
今度は、素直に答えた。
◇
木箱は、見た目より重かった。
北西領の兵と二人で持ち上げ、言われた場所へ運ぶ。
隣でも、王国兵が同じように箱を抱えていた。
「そっちだ!」
「こっちじゃないのか?」
「逆だ、逆!」
「最初に言え!」
箱を下ろしたところで、北西領の兵が聞いた。
「お前ら、王都の兵だろ」
「ああ」
王国兵は一度、空になった両手を見た。
「……だった、が正しいかもな」
北西領の兵は、すぐには答えなかった。
それから次の箱へ手を掛ける。
「重いから、そっち持て」
「急に雑だな」
「運んでくれるなら、誰でもいい」
「じゃあ最初からそう言え」
二人で箱を持ち上げた。
少し離れた場所では、避難民の女たちが食器を洗っている。
荷車のそばに座った老人は、車輪を覗き込んでいた。
「軸も見た方がよいな」
「直せるのか?」
「昔、荷運びをしてた」
「なら、頼む」
「腹が減る仕事だぞ」
「炊き出しの担当に言っとく」
「なら、急ごう」
そばにいた者が笑った。
レンも笑いながら、箱の縁を握り直した。
◇
ひと区切りついたところで、セレスティアが広場へ来た。
「おはようございます」
「おはようございます、殿下」
胸元には、昨日の小さな花が挿してあった。
少し萎れている。それでも、捨てずに残していた。
「お仕事を頼まれたのですね」
「はい。芋を一つ、多くもらったので」
「芋?」
「その分は働けって」
セレスティアが笑った。
レンは、箱を運ぶ兵たちを見る。
「一昨日、レイモンド様に、入れて何の得があるって聞かれましたよね」
「はい」
「あの時、情報だって答えました。働ける人もいるとは言いましたけど……実際に見ると、違いますね」
鍋を洗う人も、荷車を直す人もいる。
何ができるか、レンが知らなかっただけだった。
セレスティアも、広場へ目を向けた。
「皆、できることを見つけているのですね」
「はい」
彼女はしばらく、その様子を見ていた。
口元には、小さな笑みがあった。
◇
「おひめさま!」
声を掛けてきたのは、花をくれた少女だった。
隣には、見知らぬ女の子がいる。二人とも、小さな桶を抱えていた。
「何をしているのですか」
セレスティアがしゃがむ。
「おみず!」
隣の少女が、胸を張った。
「この子、井戸の場所を知らないから。私が教えてるの」
「そうなのですね。あなたのお名前は?」
「ミア!」
元気な返事だった。
レンが聞く。
「今日、会ったばかり?」
「うん!」
「もう友達?」
「うん!」
ミアは不思議そうにレンを見た。
「友達になるのに、そんなに時間いる?」
「……いらないかも」
「でしょ!」
ミアが隣の少女へ顔を向ける。
「行こ!」
「うん!」
二人が駆け出した。
「走るんじゃないよ!」
遠くからマルタの声が飛ぶ。
「はーい!」
返事のあと、ようやく足が緩んだ。
マルタは首を振り、鍋へ向き直る。
近くで、誰かが笑った。
セレスティアも、その背中を見ながら笑っていた。
昨日、もう逃げなくていいのかと聞いていた少女が、今日はこの町の子と並んで歩いている。
レンは二人が角を曲がるまで、見送った。
◇
市場の端から、金属を打つ音が聞こえた。
道具を運ぶ兵に付いていくと、鍛冶場の前にリオがいた。
入口には北西領の兵が二人立っている。
「何をしてるんですか」
「預けた剣の状態を聞いていました」
中には、王国兵から預かった武器の一部が並べられていた。持ち主と武器を照合しながら、一振りずつ確かめているらしい。
大柄な男が、作業台の剣を持ち上げた。
「これだな」
「ああ」
リオが頷く。
男は刃を傾け、柄へ手をやった。
「刃こぼれもあるが、こっちの緩みがまずい」
「直るか?」
「直す」
短い返事だった。
「ただ、直っても渡すのは俺じゃない。返すかどうかは、領主様が決める」
「分かっている」
「預かってる間に、使える状態にはしておく」
リオは剣を見た。
「……助かる」
男は剣を作業台へ置いた。
「ドランだ」
「リオ・フェルン」
「覚えた」
ドランが炉の方へ向き直る。
リオはもう一度、自分の剣へ目を向けた。
「頼む」
「ああ」
槌の音が、また響き始めた。
武器は、まだ返されない。
けれど、預かったまま放っておかれているわけでもなかった。
◇
昼が近づいていた。
市場の品物は少ない。閉じた店も多く、兵たちは警戒を解いていない。
それでも、鍋から湯気が上がる。
鍛冶場の槌が鳴る。
誰かが荷を運び、別の誰かが、その名前を呼ぶ。
「レン!」
マルタの声だった。
振り返ると、市場の端を指していた。
「あっちも、手を貸しておくれ!」
「分かりました!」
レンは返事をした。
飯を渡された。
仕事を頼まれた。
名前を聞かれ、名前を教えてもらった。
それだけのことだった。
けれど、昨日まで知らなかった町で、自分を呼ぶ声がする。
レンは袖をまくり、荷箱の方へ歩いた。
ここは、まだ故郷ではない。
それでも今日は、逃げるためではなく。
ここで暮らす人たちと、同じ一日を過ごすために。
その箱を、持ち上げた。
――第十五話 了




