第14話 小さな花。
門の内側では、すでに何人もの人が座り込んでいた。
歩けない者は北西領の兵に運ばれ、負傷者は順番に手当てを受けている。避難民たちは荷物を下ろし、水を受け取り、ようやく足を止めていた。
レンは、その光景をしばらく見ていた。
「……来たんだな」
隣にいたガルドが、レンを見る。
「何がだ」
「ここまで」
レンは少しだけ笑った。
「やっと、ここまで来た」
王都が落ちた。
敵に追われ、水を探し、道を選び、戦って、また歩いた。
休んでいる時でさえ、次にどこへ向かうかを考えていた。
「ああ」
ガルドが静かに答えた。
「長かったな」
「ですね」
「まだ終わったわけではないぞ」
「分かってます。でも、今日くらいは言ってもいいでしょう」
ガルドは人々へ目を戻した。
「そうだな」
少し離れたところでは、リオとオルドが荷車を寄せていた。
「そっちを支えてください!」
「支えとる!」
「もう少し、右です!」
「お前の右か、わしの右か!」
「同じ方を向いているでしょう!」
近くにいた兵が笑った。
オルドも笑いながら、荷台へ肩を添える。
レンはその声を聞いて、息を吐いた。
これまでも、笑うことはあった。
けれど、頭のどこかではいつも数えていた。残った水も、食料も、次の休憩まで歩ける距離も。
今は、ほかの人の手を借りられる。
そのことに、まだ身体が慣れていなかった。
「変な顔をしてるぞ」
荷車から離れたオルドが、そばへ来た。
「どんな顔です?」
「ぼーっとしとる」
「少しくらい、いいでしょう」
「いいとも。足まで止まるのは、あとにしてくれればな」
「レン!」
リオが呼んだ。
「こちらを手伝ってください!」
「今、行きます!」
レンが向かおうとした時、小さな声が聞こえた。
「おひめさま」
◇
セレスティアが振り返った。
昨日、川辺で出会った少女だった。
今日は泣いていない。
母親のそばを離れ、セレスティアの前まで歩いてくる。
「ここまで来たね」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
それから、少女の前へゆっくりしゃがむ。
「はい。来られました」
少女は胸元から、小さな花を取り出した。
少し萎れ、茎も曲がっていた。
それでも、大事そうに両手で持っている。
「あげる」
「私に?」
「うん」
「どうして?」
少女は少し考えた。
「おひめさまも」
顔を上げる。
「がんばったから」
セレスティアの目が、わずかに揺れた。
「……ありがとう」
両手で花を受け取る。
少女が笑う。
セレスティアも笑った。
「もう、にげなくていい?」
その笑みが、少しだけ止まった。
レンも、何も言えなかった。
セレスティアは手の中の花を見た。
「まだ、分かりません」
静かに答える。
「でも、今日は、ここにいて大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
「おひめさまも?」
セレスティアが目を瞬いた。
それから、頷く。
「はい。私もです」
少女は、嬉しそうに笑った。
「よかった」
それだけ言って、母親のもとへ走っていく。
途中で一度、振り返った。
セレスティアが手を振ると、少女も振り返し、人々の間へ戻っていった。
◇
「殿下」
レンがそばへ立つと、セレスティアが顔を上げた。
「よかったですね」
「はい」
彼女は花を見た。
「ずっと、大事に持っていてくれたのでしょうね」
曲がった茎を、指でそっと支える。
「笑ってました」
レンが言った。
「少女が?」
「殿下も」
セレスティアがレンを見る。
「……私も?」
「はい」
「見ていたんですか」
「たまたまです」
「さっきから、こちらを見ていましたよ」
リオの声がした。
レンは振り返った。
「リオさん」
「お手伝いをお願いしたまま、お待ちしておりました」
「……今、行きます」
オルドが声を上げて笑った。
ガルドは何も言わず、肩をすくめる。
セレスティアは小さく息を吐いた。
けれど、その口元には、まだ笑みが残っていた。
レンが荷車へ向かう時、彼女は受け取った花を胸元へ挿していた。
◇
昼を過ぎる頃には、一行の受け入れがようやく終わった。
武器は預けられ、馬と荷車も指定された場所へ移された。捕らえた二人は別々に置かれ、北西領の兵が見張りに加わった。
負傷者には手当てを受ける場所が、避難民には休める場所が用意された。
兵たちにも、今夜、身体を横たえられる場所がある。
レンも荷物を運び、水を配るのを手伝った。
何度か、いつものように残りを確かめかけた。そのたびに、北西領の兵が次の水や荷を運んできた。
夕方には、腕も足も重くなっていた。
けれど、次の道を選ぶ必要はなかった。
◇
日が落ちる頃、レンたちは寝床へ向かっていた。
建物の窓から、明かりが漏れている。
遠くで兵が交代を告げ、誰かがそれに応えた。
「レン」
横を歩くガルドが声を掛けた。
「なんです?」
「今夜くらいは、数えるのをやめろ」
レンは一瞬、意味が分からなかった。
「水も?」
「ああ」
「食料も?」
「ああ」
「矢も?」
「全部だ」
レンは少し考えた。
「……難しいですね」
「やれ」
「命令ですか」
「ああ」
「じゃあ、努力します」
「そこは、はいと言え」
「はい」
ガルドは満足したように頷いた。
レンも、少し笑った。
歩いているうちに、昼間のセレスティアの顔を思い出した。
小さな花を、両手で受け取った時の顔。
少女に、自分もここにいていいのかと聞かれた時の顔。
彼女も、ずっと歩いてきた。
王女と呼ばれ、頼られ、そのたびに答えを選びながら。
今夜は、彼女も休めるだろうか。
レンはそこで考えるのをやめ、息を吐いた。
自分も休めと言われたばかりだった。
◇
寝床には、敷物と毛布があった。
レンは腰を下ろした。
靴を脱ぎ、布を巻いた踵を確かめる。荷物を手の届くところへ置き、毛布を引き寄せた。
横になると、身体が思っていたより重いことに気づいた。
外から、見張りの足音が聞こえる。
誰かが話し、別の誰かが小さく笑った。
レンは目を閉じた。
やっと、ここまで来た。
声にすれば、ひどく短い言葉だった。
けれど、そのために歩いた道を、足も、肩も、覚えていた。
夜は深く、風は冷たい。
それでも、今夜は。
その風を、壁が遮ってくれる。
次に目を開ける時も、ここにいていい。
そう思えたことが、嬉しかった。
レンは毛布の中で、ゆっくり息を吐いた。
長かった夜の向こうで。
朝はもう、静かにこちらを向いていた。
――第十四話 了




