第7話 『裁きの時間 ~企む者どもの終着点~』
※ざまぁ回です。
――仕事、と彼女は言った。
見張りを除き、迎えに赴いた私はそれを見た。ヘレナ嬢が蟄居を命じられた室内。そのがらんとした様相を。そのときは考えもしなかった。しかし今になって疑問に思う。彼女のしようとしていた仕事とは、いったいなんであったのか。
それはきっと、手慰みの内職などではなかった。針と糸。それらを用いて布地を合わせる、それは彼女のイメージではない。印象から導くなら、影なる存在を使役する用向きと考えるのが妥当だ。しかしそれは誰の、なんのためであったか。自らが姉と慕う、エステラ嬢の身を救うためであるとするなら、理にも叶っていた。
「…………」
私は眼を見開き、信じ難い光景を見詰めている。脳裏で導いたはずの答えが音を立てて崩れてゆく。
理解できたことは、私たちはエステラ嬢の身を守ろうとして、より大きなもののために動いていたということだ。
「そんな、何故あなたが……?」
今、はっきりとその声に怯えが載る。暗がりの向こう側から現れ、今まさにジャニス殿下の前へと姿を見せた壮年男性の正体。それこそ――この広き王土を治めるハーツ王その人だった。
「よい」
反射的に膝を折りかけた私とエステラ嬢を、陛下の一声がその場に留めた。ヘレナ嬢は一礼して道を明け渡す。王の歩みは自らを、自身の息子の真正面へと導いた。
「……久しいな、我が息子よ」
「ち、父上、どうしてこのような場所に?」
「久闊を叙する挨拶の場だ。第一声がそれでいいのか?」
「お久しゅうございます、陛下……」
いつから、そして、どこからなのか――頭を垂れるジャニス殿下の懸念は、王の耳に関することで満杯となる。
「アーカー家の娘よ……そなたも楽にしてよい。頭を上げよ」
この場にあって、ひとり地べたに跪いていた令嬢にそう声がかかる。恐れおののきながら立ち上がると、唇をきつく嚙んで、微かにその身を震わせている。
「父う……」
「動くな」
声を発そうとしたジャニス殿下を、陛下のお言葉が遮る。立場上も、そして親族の身の上としても逆らえないジャニス殿下は、素直に口を噤んだ。
王たる者の瞳。それはなにを写し、見通すのか。遥か天上におられる御方の考えなど私如きに見透かせるはずもない。しかしそれは、この場に集う誰にとってもそうかもしれない。
私たちは口を噤み、揃って陛下の次のお言葉を待った。
「随分と剣呑な場だな。ここには我がハーツ王国の未来が集うというのに……もっとも、それは私のせいでもある。ウィリアム・ゴールデンを帰そう」
王が片手を上げられると、彼方で葉鳴りのような音がする。王国随一の精鋭にして王直属の七騎士に席を戴く最強の弓手は、主君に命じられるまま、その姿を闇の向こう側へと消し去った。
「これで危険は除かれた。息子よ、お前自身が危険でないとすればな」
「……どこから、でしょうか」
陛下一流の皮肉を躱し、ジャニス殿下は恐怖とともに切り出す。
「ジャニス、お前が説明を求めるのか」
「恐れながら、その通りです」
震える瞳は、陛下のことを直視できない。今まさに、自身の身の上が危険に晒されている。それはこれまでの比ではない。
「直属を呼び戻す労を支払わせる気はないな?」
「と、当然です!! 父上、ここであったことは、その……!!」
俯きつつも、上目遣いで探りを入れる。陛下自身も意図するところはご承知であっただろう。興味ない素振りをされつつも、油断は見せられない。
「ヘレナ」
唐突に名を呼ばれたにもかかわらず、臆することなく前へ出た。豪胆たる準男爵令嬢の度胸は、この国の頂点を眼の前にしても微塵も揺らがぬらしい。
「……なんでしょうか、陛下」
「私は咽喉を乾かしとうない。代わりに、お前の口からジャニスに伝えてやってはくれんか」
一介の準男爵令嬢に回されるには、とんだ大役だ。しかし当のヘレナ嬢はここでも動じず、なんと陛下に向けて薄笑みを湛えて見せた。
「構わないのですか? 私は口が悪いですよ?」
「我が息子にはちょうど良かろう。不敬などと固いことは言わん。お前流の話法で説明してやってくれ」
「ご用命、しかと承知仕りました」
カーテシーではなく、左手を胸に添え、右手を背に回すバトラー流の礼でもって、ヘレナ嬢はこれに応えた。礼を顕わす一連の動きに連動させて、再びジャニス殿下へと相対する。
「ヘレナ……これも貴様の差し金か……!!」
「さあ? なんのことでしょうかね」
今にも歯噛みしそうなジャニス殿下の凄みを、鼻息ひとつで吹き飛ばす。
もはや誰の眼にも明らかだ。当初とは、形勢が完全に逆転している。
「七騎士を動かせるのは父上だけだ。王太子たる私すら命じる権限は持っていない……貴様の言わんとしていたのは、つまりそういうことか……!!」
光が強ければ強いほど、影は色濃く地に残る。ジャニス殿下の見たヘレナ嬢という影は、そのもの実体などではなかった。地に黒く伸びたそれを生み出す光の持ち主こそが、この事件の真の立役者だったのだ。
「狭苦しい鳥籠に私を捕えて、あなたは高を括っていた。エステラお姉様を守る者はもう誰もいないと……でも違ったんです。影はより大きなものにも擬態する。囚われていたのは私ではなく、あなたの方だったんですよ」
抗弁の権利はない。絶対的な、王という存在に封殺されている。勝利の笑みを湛えるヘレナ嬢を、今にも斬り殺しそうな憎悪の眼で凝視しながら、ジャニス殿下にはなにもできることはなかった。話の続きを乞うこと以外に、なにも。
「……私は泳がされていたというのか、あらぬ嫌疑をかけられて」
「あらぬ? そのように振る舞っておいでだったでしょう?」
煽り立てるヘレナ嬢の口。さらに血走るジャニス殿下の瞳。
「答えてみせろ……いつだ!! 貴様が勅命を負ったのは!!」
「今さら真実を知ったところで意味なんてないと思いますが」
「いいから答えろ!!」
「一年と三カ月前。これで満足ですか」
愕然と眼を見開く。ジャニス殿下は知ってしまった。己が心の内に隠しておきおきたいすべての事実が、既に王の耳へと入ってしまっていることに。
「ち、父上……これは違うのです!!」
話者であるヘレナ嬢から視線を切り、役を委ねた陛下へと語りかける。その瞳には、態度には媚びがあった。相手の慈悲と情けに訴えかけようとする、窮地に陥った悪党の打算やへつらいにも似た……。
「疑問があるならヘレナに聞け」
「これは疑問では……ですが父上、私の訴えを聞いていただきたいのです!!」
「ほう、興味深いな。この期に及んでどのような言い訳が飛び出すやら」
王は息子へと向き直り、首を左右に巡らせた。
「お前の隣にいるべき女性は、エステラであったはず。それが今、見てみるがいい。その座を占めるは家格の釣り合わぬアーカー家の一人娘だ。貴賤の付き合いと目くじらを立てるつもりはない。しかしお前は筋を通していない。私になんの許可も得ず、古くからの婚約者の顔に泥を塗り立てた。無論それは、こたびの縁組を整えた、私の顔にも泥を塗る行為だ」
剣などとうに鞘に納めている。その拳はきつく握られ、じっと叱責に耐えている。殊勝な態度に見えなくもない。だがこれしきの説教で、ジャニス殿下の腐り切った性根まで変わるなどということが果たしてあるのだろうか。
一歩、二歩、王は息子へと歩を進められた。そして――。
「だが、お前の気持ちはわかった。ジャニス、我が息子よ」
「父上……?」
「認めようではないか。お前と、ポーリー・アーカーとの婚約を」
寝耳に水の一声に、私は自分の耳を疑った。周囲の反応がその心象を覆す。実父の顔色を窺うジャニス殿下の瞳に一抹の希望の光が宿ったかと思うと、それはやや後方の隣に控えるポーリー嬢もまた同様だった。
「か、構わないのですか、本当に……!?」
「無論だ。お前が手を汚してまで叶えたかった望みなのだろう」
「あぁ、殿下……!!」
胸の前で両手を合わせ、ポーリー嬢が潤んだ瞳でジャニス殿下を見る。このときばかりはジャニス殿下も、未来の妻たる女性へと喜色満面の笑みを送った。
「父上!! まさか祝福してくださるとは、本当になんとお礼を申したらいいものか……!!」
睦み合う親子の姿に見えた。ぱっと弾けるジャニス殿下の笑顔には、この場ではついぞ見られなかった少年のような無邪気さがある。父親も同じく穏やかな笑みを息子に見せ、その最後をこう締め括った。
「礼など構わぬ……それに安いものだ。これでお前が王位継承権を手放してくれるのならな」
私は見た。ジャニス殿下の心からの笑みが固まるのを。
その瞳に困惑と、驚愕と、絶望にも似た色合いが浮かび上がるのを。
「王位継承権の、放棄……な、なにをおっしゃっているのです。かようなこと、私とポーリー嬢との婚約と、なんの関係もないではありませんか……!?」
ほんの一瞬だけ、視線で探りを入れた。一連の騒ぎへの罰として、父親が悪趣味な冗談を言ったのだと。
しかしこれは冗談などではなかった。王は親しみの持てる笑みを納めて、じっと困惑する息子を見続けている。
「まさか!! 本気なのですか!? しかしこれは、私の権利のはず……!!」
「お前に権利などない」
言葉の剣による袈裟斬りだった。無防備にそれを受けたジャニス殿下の足がよろめく。たたらを踏んで、前のめりになって叫んだ。
「いいえこれは私の権利です!! このハーツ王国の、第一王子としての、私の……!!」
「お前でなければならぬ道理はない」
「弟のことを言っているのですか!? しかしこれは、あまりにも手ひどい暴挙だ……!!」
ショックを受ける様相は演技染みていた。反論しつつも、身振り手振りで実父の情へと訴えかけようとする。しかし王もまた、息子の意図など見透かすかのように、表情筋の一部すら動かしはしない。
「そう狼狽えるなジャニス。まるで玩具を取り上げられた子どもだ」
「それが血を分けた息子に言うことですか!! ……ああ、こんな非道、周囲が納得するはずがない!!」
「するさ……絶対にな」
王たる者の断言には威厳が載る。いまだその理由すら定かでないのに、これ以上ない説得力を持って私たちの耳朶を揺らす。
「ジャニス、簡単な質問だ。王たる者がもっとも大事にすべきものはなにか」
「今は、そのようなことを論じている場合では……!!」
「答えよ、と私は言ったのだ」
有無を言わさぬ圧に、さしものジャニス殿下も閉口する。
この場にあって唯一目上である人物へと、吟味の末にこう語った。
「……権威でしょうか。王たる者の権利は、何人たりと侵してはならない。周囲に畏怖の念を与え、進んで平伏させることのできる権威こそ、王たる者がもっとも重要視せねばならぬ資質であるはずです」
自身よりやや背の低い陛下の顔を、猫背になって下方から窺う。正解を引き当てたかどうか。それが今後の自身の運命を左右でもするかのように。
王は無造作に首を振り、ぽつりと一言こぼされた。
「貴族学院でなにを学んできた、この愚か者が」
「……間違いだと言うのですか!? では、正答は」
「責任だ」
自身の考えとは真反対の解答だったのだろう。ジャニス殿下は口ごもり、窮しきった表情をその顔に浮かべた。
「王たる者など代表に過ぎん。国土を治め、そこに住まう民草の生命と生活を預かる、極めて大きな責任を担った代表者だ。ゆえにその座に就く人間は、己の責任に殉じる覚悟と能力を持つ者に限られる。王とは、権力を振りかざす者ではなく、権力に使われる者なのだ」
ジャニス殿下と、隣のポーリー嬢を交互に眼に入れられ、こう締め括られた。
「お前は権力を濫用した。よもや心当たりがないとは言わせんぞ」
「…………」
ばつ悪く押し黙る。今、ジャニス殿下の隣にいる女性こそ、彼の欲望の具現化だ。ヘレナ嬢が指摘した宝石に留まらず、煌びやかなそのドレス、絢爛豪華たる装飾品の一切に至るまで、ジャニス殿下自身の嗜好が反映されたものに相違ない。
「疑心を抱いた理由はわかったな。息子よ、ゆえに私は見定めねばならなかった。お前に真なる王の器があるのかを」
その結果など、ジャニス殿下とてとうに心得ている。それでも縋り付きたくなる魅力があった。王のご高説に真実の一端はあれど、理想論に傾注し過ぎている。王たる称号が、この国の頂点であることに変わりはない。だから――。
「……幼少のみぎりから私を担いできた者たちもいます。強権行使で私から王位継承権を剥奪すれば、国が割れる事態すらあるでしょう」
これもまた事実。ことこの瞬間に至るまで、ジャニス殿下の王位継承権は盤石だった。上級貴族の中には、ジャニス殿下の王位継承を当て込んで先行投資してきた者たちだっている。王のスタンドプレーを快くは思わないだろう。
「ふむ、付け焼刃の脅しにしては上出来だな」
「考え直していただけますでしょうか……」
「一考しよう。だが、その前に歴史の講義だ」
怪訝そうに眉根を寄せるジャニス殿下から視線を外し、王はエステラ嬢の様子をちらと窺われた。小さく頷きを発し、相手からも同じく頷きが返ってきたことを確認したのち、話の続きに着手される。
「我がハーツ王国はその成立過程において、女神信仰と切っても切れぬ関係にあった。お前も知ってのことと思うが、かつて王権とは、女神の神託により授与されるものであったのだ」
この場に集う誰もが知る事実だ。ハーツ王国建国記。木の幹ほどに分厚い歴史書の第一巻冒頭に、その重要なる記述は書かれている。無論のこと、貴族学院で学ぶ者たちにとって、知っていて当然の知識だった。
「王権神授説、ですか」
「昔からお前は物覚えが悪かった。少しは成長したようだな」
「…………」
子ども扱いされ、侮られた不快感よりも、対話者の角を立てなかった安堵の方が勝る。これ以上蛇の尾を踏まぬよう、ジャニス殿下は注意深く傾聴の姿勢を取った。
「神話の時代を除けば、女神は人の世に姿を現してはいない。ハーツ王国の建国以後も同様だ。ゆえにその神託を、人の世に伝える代弁者の存在が必要となってくる。厳しい選別の末、女神教会はその役に相応しい人材を発掘するに至った。これが、俗に言うところの聖女というわけだ」
古来、聖女は新たなる王の戴冠の儀に必ず居合わせた。
その頭上に、ハーツ王の証となる草冠を被せんがために……。
「昔の話です。そのような古色蒼然とした宗教儀式、今はもう執り行われておりません」
「だから無視して構わぬと」
「私の王位継承権には関係のない事柄でしょう!! 父上、そのようなことより、この私の……!!」
発言途中で声が止んだ。ジャニス殿下の表情も石のように固まり、その瞳だけが微細に左右に震えている。王はその理由を察した。だから、続く言葉は私の予想の範疇を出るものではなかった。
「ようやく気づいたか。まさに今、その話をしていたのだと」
「……まさ、か……!?」
震える瞳が次に映すもの。それは実父の姿ではなく、己自身の婚約者の姿。公爵令嬢エステラ・プリムムは静かに笑みを湛えている。ふだんと変わるところのない穏やかで優しげなその微笑みは、真実に到達した今だからこそ、却ってジャニス殿下の恐怖を煽り立てるものだった。
「今しがた女神教会から通達があった。今朝付けで、エステラが百年ぶりの聖女に指名されたとな」
眼を伏せ、折り目正しいカーテシーを行う。王国随一の公爵令嬢にして聖女となった女性は、この場に集った面々へと新たなる挨拶を終えた。
「さて、講義の続きだジャニス。お前はこの出来事をどう見る。かつて女神教会の権利であった王権授与が、敬虔な女神信徒とはいえ俗界の公爵令嬢に譲渡されたという、この現実を」
顔色を蒼白にして押し黙る。答えがわからぬからではない。それに行きついた時間があまりにも遅かったからだ。試験とは時間内に用意された設問を解かねばならぬもの。条件を踏襲するなら、ジャニス殿下はとうに落第生だった。
終わった試験には答え合わせが待つだけだ。だから王もまた、息子の答えなど待ちはしなかった。
「設問を解くには、女神教会側の意図を理解せねばならない。過去の歴史も参照してな。古来、我がハーツ王国と女神教会との間には、幾度も問題が持ち上がってきた。その多くが王位継承に関するものだ。俗界が支持する王と、聖界が支持する王。それらが符号することはまずあり得ない。言葉で相手を納得させられなければ、いくさの気運が高まる。我がハーツ王国と女神教会は、一触即発の事態を幾度も回避してきたのだよ」
人は基本的に、甘い顔をする者の味方だ。俗界と聖界、双方に同じ顔を見せることはできない。
女神信徒に聖王と持ち上げられている王が、貴族や平民からは暗君と呼ばれ蔑まれることだってある。表面上は手を取り合って見えても、内に火薬を内包する間柄なのだ。
「儀式、とお前は言ったな。成程たしかに、それは形式的なものに過ぎないだろう。聖女の手による新王の戴冠。それは、聖女の座が長らく空位になっていたことで行われなかった。しかし今、その前提が変わった。教会関係者ではなく、お前の婚約者であるエステラ・プリムムが百年ぶりの聖女として指名され、次期王妃と役割を兼ねることになったからだ……不肖の息子よ、ここまで言えば、お前にも状況の真なる姿が見えてきただろう」
王の易しい説明は、この私すらも真実に導いた。こたびの聖女指名。それは聖界と俗界の、より緊密な結びつきを目指してのことだ。
女神教会が保持していた王権授与の権利を、俗界に属する次期王妃の手へと譲渡する一連の動きは、聖界側からの、恒久平和を実現するための歩み寄りの姿勢そのものだったのだ。
広げた掌を顔の前に翳して、ジャニス殿下がよろめく。ショックだったのだろう。生来の自信家である彼の自尊心のよすが。それは自身の生まれと、いずれは国の長たる未来にこそあったのだから。
「まさか……取るというのですか!? あなたの血を分けた息子である私より、そこにいるエステラ・プリムムのことを……!!」
その激昂に手応えはない。王は動じない。必要とあれば、時に非情な裁可すら下す。それもまた、王たる者に必須の資質であったのだから。
「仮にそうだとして、お前はどうする? 我が足に縋りつき、泣き叫んで同情でも引くか? それとも助力を乞うか? 次代の王とお前を担いできた者たちに。もっとも、女神教会を敵に回すだけの価値が今のお前に残っていればの話だがな」
「……それは……!!」
眼を大きく見開くジャニス殿下へと、容赦ない追撃が飛ぶ。
「それとも、はっきりと口にしてやった方が良いのか。今やエステラの所持する王妃継承権が、お前の持つ王位継承権を上回ったと」
「…………!!」
直視したくない現実。それが今、王の口から言葉となって飛び出た。今度こそジャニス殿下は言葉という言葉を失った。その宣告は、ジャニス殿下から釈明の権利すらも取り上げたに等しい。だが――。
「エステラ!!」
口泡を飛ばし、必死の形相で叫ぶ。王の斜め後方に控える、本来の婚約者へと向かって。
「わ……私が悪かった!! そなたの存在を無下にしてきたこと、それは一時の気の迷いであった!! 今こそ私は目覚めて知った!! この身が真に愛すべき女性とはいったい誰であったかを!! それはこの女ポーリー・アーカーなどではなく、他ならぬそなたであったと!!」
恥も外聞も投げ捨てた男。その様変わりは誰の眼にも余った。ヘレナ嬢が露骨に不快感を示す。まるで路傍の汚物のようにジャニス殿下を見て、きつく眉を顰めている。
「正視に耐えない、とんだ醜態ですね……」
まったくの同感だが、当のエステラ嬢はどうだ。幼少からの婚約者が初めて見せる反省の態度に、胸打たれるものが絶対にないと言い切れるか。
「ジャニス殿下!! 私を見捨てるおつもりなのですか!!」
「ええい寄るなこの淫売!! 私はお前の色香に誑かされていただけだ!!」
「そ、そんな……!? 愛してるって、麗しの薔薇だって、あれほどおっしゃってくださったではありませんか!!」
「かような事実無根、出任せを語るな!!」
「は、離れたりなどしませんよ!! どうかこの私めを、お傍に……!!」
「私に触れるな、この魔女が!!」
……さながら、メロドラマの一幕のようだった。
間近で演じられる愁嘆場とは、かくも滑稽に映るものなのか。取りすがるポーリー嬢、追い払うジャニス殿下。磁石の同極同士のような動きもやがては小康状態を迎える。ジャニス殿下が腕に縋り付いたポーリー嬢を力ずくで振り払うと、尻餅を突いた彼女の瞳が潤み、泥に塗れた両手で顔を覆ってさめざめと泣き始めた。
「……終わらせた方が良いみたいですね」
「手間をかける」
陛下へお声がけを済ませ、前に歩み出るエステラ嬢の姿を眼にして、ジャニス殿下の顔が喜色に綻んだ。
「エステラ!! どうかこれまでのことは、水に……!!」
「ジャニス殿下」
足を止め、その名を呼びかける。ジャニス殿下は頬を引きつらせた不自然な笑顔のまま、自身の両腕を大きく広げた。
「どうした? こちらへ来てくれ。私は潔く過ちを認めたぞ。そして理解したのだ。我が愛すべき女性はそなたであったと。ハーツ王国第一王子たるこの私の、唯一にして真実の愛をそなたへ捧げよう……さあ、早く!!」
半ば正気を失したその姿。無論のこと、エステラ嬢に従う気配はない。
その場から一歩も動くことなく、顔を上げて婚約者の姿を直視するのみ。
そして――。
「務めを果たしましょうか。わたくしの、聖女の身として初めての」
「エステラ……その通りだ……我が王国の恒久平和実現のためには、そなたと私との結婚こそ必要不可欠……!!」
情操の箍が狂い、感極まった声が咽喉から漏れる。常軌を逸した男の姿。並の女性であれば恐怖で逃げ出したかもしれない。しかし聖女エステラ・プリムムの剛性は、そのような人物を前にしてもいささかも揺らぐことはなかった。
瞼を閉じて俯き、静やかに首を振ってみせた。
「自明の事柄を今さら語るつもりはありません。ですがジャニス殿下、覚えておいででしょうか」
「……なにをだ?」
「敬虔な女神信徒とは嘘を吐けぬもの。百年ぶりの聖女であるこのわたくしも、その類例に漏れるものではないということを」
首を巡らせ陛下の様子を窺うと、力強い頷きが返ってくる。
「構わぬ。募りに募ったその思い。愚息にぶつけることを許可しよう」
エステラ嬢が目配せを終える。そして私はそれを見た。つい先刻、百年ぶりの聖女に指名された令嬢の顔に浮かんだものを。
「……ジャニス殿下」
「なんだ? なんでも申してみよ」
受容の姿勢を見せるジャニス殿下へと、エステラ嬢がにっこりと満面の笑みを送る。それはまるで天上から舞い降りた天使のような、生きとし生ける者たちすべてを憐れ慈しむ笑み。
あらゆる咎人たちの罪を洗い流し、慈悲深き許しを与え給うかのようなその表情のまま、彼女は――。
「あなたのことなんて、だいっきらいです」
ジャニス殿下が眼を剥く。完全に虚を突かれていた。だが無理もない。いつものエステラ嬢の、虫も殺さぬ笑顔のままに口にされた悪罵。抜け落ちた表情がそれを物語っていた。だが、そこに虚無が入り込む猶予すらなかった。何故なら、あまりにも素敵過ぎるエステラ嬢の笑顔に、彼自身の視線もまた吸い寄せられていたのだから。
「な、なにを……言っている……?」
予感だけがあった。自身がこの場で彼女に行使しようとしたものを、今まさに彼女から向けられている予感が……。
いずれは王たる者だと自称した男が退く。ただ一介の貴族令嬢相手に。しかし退いた分、貴族令嬢もまた距離を詰める。野生の獣が獲物をじりじりと壁際に追い込むような、それを愉しむかのような、着実な足取りで。
「……どんな気持ちがしたと思います?」
解答など求めていない質問。ジャニス殿下もまた承知している。だから言葉の代わりに流れるのは汗だった。額から滝のように伝い落ちる汗を放置したまま、呼気とともに生唾を飲み込む。
「幼少のみぎりからの許婚を放って、あなたが別の女性に走ったと聞いたとき。わたくしがどれほど傷つき、心を痛めていたか。本当は、最初から全部知っていたんですよ? 情報ならヘレナ経由でいくらだって手に入りましたから。あなたがいつ、どこでポーリーさんを口説き落とし、そういう間柄になったのか。そのタイミングすらずっと以前から把握していたんです。ただ、口に出して言わなかっただけで」
掌を口に運び、うふふっ、と清楚にして可憐なる笑い声を挟み――。
「その気持ちは、一度だってわたくしの中から消えたりはしませんでした。ただ、ずっと、ずーっと溜め込んでたんです。わたくしのお腹の中が黒いものでいっぱいになるくらいにずっと。そして待ち望んでいました。いつかそれを吐き出す機会が訪れることを。だから……今この瞬間は、偶然の成り行きでそうなったわけじゃない。わたくしが心の底から願い、熱望してきた機会だったんです」
天使の笑顔はそのままだ。しかしジャニス殿下には察するものがあった。
胸裏で急速に膨れる不安、恐怖、焦燥。だから次の言葉は早口となった。
頭で考えるより先に、反射的に口先から外に出たものだった。
「た、頼む……許してくれ!! そのようなことを言わずに……!!」
「あらあら? どうしてそんなお顔をされるんでしょう? わたくし、ただの貴族令嬢に過ぎませんよ」
くすくす、と今度は忍び笑い。ジャニス殿下の顔色が青を通り越して白くなる。それは自身の吐いた唾だった。この場で散々貶め、こき下ろしてきた相手から、今まさに意趣返しを受けたのだ。
「本当のことしか口にできないって、本当につらいことなんですよ? あなたの前でうっかり嘘や失言を言ってしまわないよう、ずっと距離を保ってきましたから。けれど本当は知っていた。あなたとポーリーさんの仲の進展も、わたくしを放ってどんな逸楽に耽っていたかも、全部……そうですね。少し指摘してあげましょうか。ジャニス殿下、あなたはどうも、ポーリーさんの肉体の一部を執拗に愛でていらっしゃったとか。わたくしには一言もおっしゃらなかったけれど、そういう趣味がおありだったんですね。それは大変失礼いたしました。そして心からのお詫びを申し上げましょうか……悪かったですね、わたくしのは平たくて」
私は生唾を飲み込んだ。たしかに……たしかにエステラ嬢のそれはポーリー嬢のそれと比べて貧しいと見ることができる。だが世間一般の尺度を用いるなら、ポーリー嬢が特別に恵まれているだけと考えるのが自然だ。決してそんな、自らを卑下したり、相手をやっかんだり恨んだりするような大きさではない気がするのだが……。
該当箇所を真剣に見比べていた私に、ふとヘレナ嬢の視線が刺さった。
糸のように眇められた瞳はこう物語っているように思われた。「変態」と。
私は盛大に空咳をした。それから、何事もなかったように佳境を迎えた現場の注視に戻る。
「わたくしは、あなたに純潔を散らされかけた。将来を誓い合った者同士が、お互いを愛するがゆえに一線を越える。そうであったならどれだけ素敵だったでしょう。けれど現実は、あなたとポーリーさんとの婚約を成立させんがため、わたくしとの縁切りの口実に不貞の事実が欲しかっただけ。そのためにならず者たちと結託し、あなたは陰謀を企てた。あなたは言いましたね。このわたくしのことを裏切り者と……でも、本当に裏切っていたのはどちらなのか、もう口に出す必要はないでしょう。いつの世も因果は巡ります。とても正しい円環で。だからこそ聖女となったわたくしもまた選ぶのです。このハーツ王国を負って立つことのできる、真に王たる者の器を持った人物を」
……エステラ嬢が、すっと右手を上げる。
その指先は遥か天上を指差している。神託は今や彼女の人差し指に宿る。聖女の仕事とは、真なる王を選ぶこと。であるなら、今彼女の前にいる人物に果たしてその資格はあるか。答えなど言わずとも知れている。
だからこそ、それは選ぶための指先ではなかった。天意をもって裁きを下す、正義を為すための指先だ。さあ、とうとう裁きが下るぞ。我欲のために悪行に手を染めた者の末路。それはいつだって、明るい未来になど通じてはいない。
「や、やめろ……お願いだからやめてくれ!! なんだってする……どんなことをしても償うから……!!」
両手を前に突き出し、無様に命乞いするジャニス殿下の顔が、涙と鼻水に塗れた。今まさに、自身の命と同様に大事にしてきたものが失われようとしている。
それは悲劇ではない。己の業が巡っただけの話だ。季節が循環するように、因果もまた応報する。エステラ嬢への加害行為が、自らを破滅させる誅罰となって、今まさにジャニス殿下の身に振りかかろうとしていた。そして――。
「ハーツ王国次期王妃、そして百年ぶりに誕生した聖女としてここに宣言いたします。わたくし、エステラ・プリムムは、ハーツ王国第一王子ジャニス・ハーツ殿下との間に結ばれていた婚約を、破棄させていただきます!!」
「うっ、ぐうぅ、うおおおおおおおおおおおおおおおおぉ……!!」
振り下ろされた指先が、ついにジャニス殿下の急所を捉えた。
彼の保持する王位継承権はここに消滅し、邪悪なる野望もまた潰える。
獣のような断末魔の呻き声を上げて、力なく地に膝を突いたジャニス殿下の身体から魂が抜け落ちてゆく様を、この場に集う一同は黙して見届けたのだった。
ざまぁ/制裁展開をお求めの読者様、いかがだったでしょうか。
去られる前に評価、感想等いただけましたら今後の励みとさせていただきます。
次話からはヘレナさんとマシュー君の少し長めのエンドロールです。
最後までお付き合いいただける読者様、どうぞよろしくお願いいたします。




