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釈明はございません ~純潔の行方~  作者: ソーカンノ


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第6話 『裏切りの代償/いつだって影は囁く』

 その眼は血走っていた。追い詰められた獣がそうあるように。ただし理性の残滓もまた見て取れる。その矛盾が、私の心に一抹の困惑をもたらした。


「……狂乱されたのですか、ジャニス殿下」


 間一髪で難は逃れた。今の私は、地に片膝を突いている。視線の先には抜剣し、構えを取るジャニス殿下の姿。背後からの不意打ちを躱されたにもかかわらず、口元に不敵な笑みを浮かべている。


「やはり、素直に食らってはくれんか」

「声も上げず背後から斬りかかるなど、剣士としての矜持はないのですか」

「そんなもの、飯の種にもならんさ」


 唾棄するジャニス殿下へと、私はしゃがんだまま抜剣して切っ先を向ける。


「決闘の機会ならば失われました。あなたの蒔いた悪事の種は公に開示される。剣を合わせる必要性はもはやないでしょう」

「だから、貴公らをおめおめと見逃せと?」

「どの道、剣では私に勝てません」


 これは事実の指摘であって忠告ではない。剣士の直感が、今の一太刀で結果を導いた。真正面からやり合えば、私が殿下に後れを取る理由はないと。


「……立て、ポーリー」


 それは上に立つ者の声だった。自室や寝所で交わす甘い囁きなどではなく、断固とした命令を下す冷たい声音。


 地に膝を突いたままのポーリー嬢はびくりと身を震わせると、正面に立ったジャニス殿下の顔を恐る恐る見上げた。


「我が麗しの薔薇よ。どうやらそなたは、この私に一杯食わせたものらしい。『真実の愛』などと大言壮語しておきながら、心根ではこの私を欺いていた。人生は愉しみのためにある。まさしく至言だったわけだ。この私すら、そなたの人生の愉しみでしかなかったとはな」


 ジャニス殿下が浮かべる皮肉の笑みに、ポーリー嬢は恐怖を見た。

 震える瞳に連動するかのように、自身の首も大きく左右に振る。


「ち、違います!! 決してそのようなことを思っていたわけでは……!!」

「そうだろうとも。自白剤を打たれたのだ。嘘を口にはできぬだろうからな」

「…………!!」


 ジャニス殿下の指摘を受け、咄嗟に自身の口を両手で塞いだ。それがなによりの答えとなった。


「……裏切り者ばかりか、私の周りは」


 剣を納めて嘆息すると、中腰に屈んでポーリー嬢へ手を伸べる。


「しかし構わぬ。そなたの心はともかく、身体とは別れがたいからな。我が愛とてこれまでと変わらず、気の済むまで注いでやろう……もっとも、生まれてくる子らの頭の中身に関しては、いささか期待はできぬようだがな」


 ジャニス殿下の伸べた手に、ポーリー嬢が恐る恐る自らの指を乗せる。

 握りしめて引き上げてもらうと、再びジャニス殿下の隣へと納まった。


 震えるその身には恐怖が宿る。私の眼もそれを幻視した。今、ポーリー嬢の手首には不可視の手錠と鎖がある。立ち位置は同じでも、境遇はもう先刻までとは違ってしまっている。彼女の今後の人生には、ジャニス殿下に対する盲目的な隷属と、果てなき献身が求められるはずだ。自身の裏切りの代償として。


「さて、これで元通りというわけだ……時に、ヘレナ」


 顎を上げたヘレナ嬢に、ジャニス殿下が昏い視線を向ける。


「小賢しい準男爵令嬢よ。ひとつ教えてはくれまいか。秘密ごとが露見してしまったこの私が、いったいどうすればこの局面を無傷で切り抜けられるのかを」


 それは、自らを追い込んだ仇敵に問うにはあまりに愚かな質問だ。言われた当人がどう思ったかまではわからない。剣を構えて緊張状態を保つ私を尻目に、ヘレナ嬢は淡々とした声音を乱しはしなかった。


「……結論から言えば、不可能です」


 一言、そう言ってのけてから、言葉を続ける。


「あなたは婚約者のいる令嬢へと手を出し、その純潔を散らしました。ただの婚前交渉とはわけが違います。貴人の婚約の裏側には、それに関わる多くの人たちがいる。あなたの軽はずみな行動は、そんな人たちの想いすら、いちどきに裏切ってしまうものだったんです」


 ジャニス殿下は静かに耳を傾けていた。表情こそ至極つまらなそうなものであれど、傾聴する姿勢を崩すことなく話を続ける。


「つまり、我が身はどうなる?」

「あなたがポーリーさんを傷物にしたことで、多くの人たちに決闘申し込みの大義名分が立ちました。彼らがその気になりさえすれば、あなたの前には決闘待ちの長蛇の列ができることでしょうね」

「ライオットまでも相手か。それは分の悪い……」


 兄弟子であるライオット殿の剣才は、私のそれを遥かに凌ぐ。

 精神的な不調から回復しさえすれば、勝敗は誰の眼にも明らかだ。


「身のためを思うなら、素直に認められることです。そして謝るべき相手に心からの謝罪を。謙虚で誠実な態度を取ること以外、もはやあなたにできることは残されていないのですから」


 ……恐らくそれは、ヘレナ嬢にとって最後の忠告だった。


 起こってしまった出来事は仕方のないものとして、いかに穏便にことを納めるか。それにはやはり、ジャニス殿下が頭を下げることが必要不可欠だ。自尊心も、功名心も打ち捨てて、被害を被ってしまった人たちに、誠心誠意心からの詫びを入れねばならない。


 懊悩の時間が流れた。眼を瞑り、沈思していたジャニス殿下がそれを開くと、再度ヘレナ嬢を見据えて言った。


「……無傷というわけにはいかぬだろうか?」

「それは世迷言ですよ、ジャニス殿下」


 なにを寝惚けたことを、と言わんばかりの呆れ切った声。

 ただし、このときジャニス殿下は寝惚けてなどいなかった。


 長年の悩みを吐露するように、少し疲れた様子で言ってのける。 


「常々、求めていたのだ。この身の隣に、信頼できる人物を置きたいと。そのために他者に眼をかけてきた。愛すべき女、忠実なる腹心……それがどうだ、今のこの有様は。私が見初めた連中は、こぞって私に反旗を翻す。それともこれが、頂点たる者の孤独だというのか。王太子として、いずれはハーツ王国を治めねばならぬ、この私の……」


 内心の吐露。その終わりを、ジャニス殿下は自嘲の笑いで締め括った。


「一介の貴族令嬢に聞かせる話ではなかったかな?」

「でしょうね。それはあなた自身が答えを出すべき事柄でしょうから」

「ふん……軽々しく言ってくれるものだ」


 爽やかな笑み。諦めにも似た態度を、私は不穏に思う。あまりにも相手に調子を合わせすぎている。ジャニス殿下という人物は、果たしてここまで聞き分けの良い人間であったか……。


「でも、受容してもらえるなら話は早いです。あなたの行き先には困難が待ち受けている。けれど、誠意ある行動によって道は開けるでしょう。例えそれが、思っていた人生と違ったものであっても」


 私の懸念をよそに、ヘレナ嬢が歩み寄った。手を伸べたのは和解の現れだろうか。ハーツ王国第一王太子と、準男爵令嬢。立場の違う者同士であろうと理解を共有できるという、ある種の理想に対しての。


 ジャニス殿下は面食らった顔をした。しかし思い直した様子で、ヘレナ嬢へと歩みを進める。友好の証として、彼もまた手を差し出すかに見えた。だがその先端が、あらぬ方向へと伸びる――。



「――危ないっ!!」



 頭のどこかで予感していた。でなければ間に合わなかった。柄に手のかかったジャニス殿下とヘレナ嬢の間に割り入り、最短距離で剣撃を繰り出す。それでもギリギリのタイミングとなった。暗がりに火花が散り、刃先がぶつかった衝撃で、剣を放った者同士の間に距離が作られる。


「なにをなさるのですかっ!!」


 咄嗟に柄を両手で持ち、剣を構え直す。片や、表情を失ったままのジャニス殿下はつまらなそうに、片手で自身の剣の切っ先をこちらに向けた。


「見たことがすべてだろう」

「あなたという人は……武力を持たぬ女性を相手に!!」

「やり合うか? 今度こそは断らんぞ」


 私とジャニス殿下との間に、一触即発の空気が流れる。剣長も、背格好もほぼ同じである以上、現状の立ち位置は間合いの範囲外。ただしここから一歩でも踏み込めば、互いに命を奪い合う危険領域となる。


 緊張で湧き上がる生唾を飲み込み、私は言った。


「……わかっているでしょう。剣では私に勝てないと」


 対するジャニス殿下は、平常心を崩さず言ってのける。


「それは問題ではないさ。問題は、まったく別のところにある」

「なにを言っているのです!! 血迷われたのですか!!」

「喚き立てるな……劣勢なのは貴公の方なのだぞ」


 圧倒的上目線の一言は、冷静さを欠く私を煽り立てる類のものではなかった。そのもの、忠告する口振りでもたらされたものだ。


 緊張と不安で動けぬ私を尻目に、ジャニス殿下は余裕たっぷりの様子で、話の続きを語り始める。


「少し考えてみたのだ。今しがたヘレナの申したことをな。たしかに私の隠しごとは露見した。それは世に受け入れられるものではないだろう。私が目下を裁くように、世間という大きな力が私を裁く……だが、それは世に公表された後の話だ。ここで貴公らを始末すれば、誰が世間の耳にそれを囁くというんだ?」


 頭の片隅が熱を帯びる。私が対峙しているものの正体。それはもはやジャニス王子そのものではない。悪しき企みを実現しようとする、この世の悪そのものではなかっただろうか。


「あまりに早まった考えです……どうあれ、私に勝つことはできない」


 思い留まってもらいたい一心で、私は先の文言を繰り返した。だが、もはやジャニス殿下の心を揺らすことはないのだろう。乾いた笑みが返ってくる。


「たしかに我が剣才は貴公に届かん。しかしそれは正々堂々とした決闘の場での話だ。後ろを振り返ってみろ」


 隙を作るという考えは浮かばなかった。私はほんの一瞬だけ、首と視線をわずかに反って後方を確認した。そして、気づくこととなった……。


「まさか、あなたは……!?」

「背には令嬢がふたり。その身を守りながら勝てるかな?」

「なんて卑劣な!! 人として恥ずかしくないのですか!!」


 激昂しながらも、心のどこかで思っている。ジャニス殿下に手段を捨てさせるほど追い詰めたのは、他ならぬこの私たちなのだと……。


「どうかな……だが、無傷でなければ意味がない。ハーツ王国第一王太子であるこの私の前には、何人たりと侵すことのできぬ花道がある。この人生は、望むものすべてを手にするために存在している。貴公らの手ひどい裏切りに遭おうと、断念するわけにはいかないのだよ」


 それは利己的な人生航路だ。一国の王太子の脳裏に宿っていい考えではない。


 だが私にはわかっている。これこそが嘘偽りのない、ジャニス殿下の本音であることが。


「ハンデ戦が不服というなら、貴公も同じ戦法を取れ。我が麗しの薔薇を狙ってみるがいい。先に断言しておくぞ。私は彼女の身を守らない。貴公がポーリーに打ちかかれば、私が一手得をする。この状況にあっては、勝負を決定付ける致命打となるだろうな」


 不敵に笑うジャニス殿下の背後で、ポーリー嬢が顔面蒼白となった。


「そんな!! ジャニス殿下!! どうか守ってくださいまし!!」

「そう喚くな……命の懸かったスリルを愉しめ。そなたにとっては最高の退屈凌ぎであろう?」


 裏切りには報復を。ジャニス殿下の瞳がそう語る。未来の伴侶となる女性にすらこの仕打ちだ。であるなら、一度は腹心として見初められた私はどうだ。背に負った令嬢たちを守りながら戦えば、敗北は眼に見えている。負けは前提として、易々とは死ねないだろう。私の身を刻み、気の済むまで思うさま嬲ってから、命を刈り取るに相違なかった。


 冷や汗で背中を濡らしながらも、ジャニス殿下から視線を外さず呟く。


「私が合図を送ったら、通りの出口に向けて全力で駆けてください……絶対に後ろは振り返らないで」

「マシュー様はどうなさるのですか」


 応答はエステラ嬢のものだ。こちらを心配する口振りだが、彼女の思うように振る舞うことはできない。今この瞬間ですら、片時でもジャニス殿下から視線を外せば死活問題となる。


「約束します。ジャニス殿下には、あなたたちに指一本触れさせはしないと」

「そうではなく、マシュー様の身の安全は……?」

「四の五の言ってられる状況ではありません。それに関しては考えないでください」


 互いに剣先を相手に向け合う、真剣勝負ならばもう始まっている。私は背中に未練の残る視線を感じた。自身のために命を張る男へと向けた、罪悪感にも似た気持ちの込められた視線が――。


「騎士道に殉じる覚悟ならできています。無辜の淑女たちのために果てるのであれば、この命、使い方として無上のものです」


 己が義務をなおざりにした。しかるべきときに正義を行わなかった。保身に飲まれかけた……それが私の業であるならば、今こそが挽回の時だ。我が剣には、今は亡き父の教えも宿る。命を散らした後、恥ずべきところのない再会を果たすためにも、今ここで退くわけにはいかない。


 覚悟なら決めた。きつく睨みつけるも、ジャニス殿下は余裕の笑みでこれをいなす。


「どうやら、脚本は第三案を採用のようだ。私自らが、裏切り者どもの口を摘むことになろうとはな。ふん……まったく、貴様らはとんだ恩知らずだったよ」


 口の端を歪めるジャニス殿下に、私からも言ってやることがある。


「あなたに恩を授かった覚えなどない」

「眼をかけてやっただろう? その見返りがこの仕打ちだ」

「自分はあなたに脅迫されていただけだ。拒否権など最初からなかった」

「この国も、民も、すべてこの私のものだ……わかるか? 私に逆らおうとした時点で裏切りなのだよ」


 あまりに尊大な物言いだ。いまだ王位継承権保持者でしかない者が口にするには。


 しかし思惑通り私たちの口を封じられたならば、その未来の実現は現実味を帯びる。


「あなたを王になどさせるものか!! この命に代えたって!!」

「行くか? 守るか? どちらにせよ結果は同じこと!! 貴様の前で命は散る!! 無慈悲になあ!!」

「絶対に守りきってみせる!!」


 互いの意識が拡張する。研ぎ澄まされた集中が腕から指先を伝って剣先まで届き、どちらからともなく前傾姿勢を取った。


 ここから先は対話が介在することのない、暴力がすべてを決定する殺戮の世界。両手に握り込んだ柄を揺らし、刃先を鳴らして合図を送ると、私はその無慈悲な世界へ没入しようとした。だが――。



「――滑稽ですね、人を信用しない人間が裏切りを語るなんて」



 鼻先を掠めるものがあった。この暗がりですら異彩を放つ銀の髪。その持ち主は、一切臆することなく、こちらに構うこともなく、悠然と前へと歩を進めた。


 信じがたいその光景に、一瞬思考が途切れた。だがすぐに追いつく。何故なら既に、致命的な事態が眼の前で起こってしまったのだから。


「ヘレナ嬢!! どうして!?」


 この身には鳥肌すら立っていた。むざむざ殺されに出てくるようなものだ。

 ジャニス殿下が舌なめずりをする。勝利の女神を見据えたように。


 当の本人だけが平然として、構えを崩さぬ私にすら語りかけてくる。


「古びた考えですよ。男性だから女性を守らないといけないなんて。守るべきは、それに相応しい強さを持った側の役目でしょう」

「ですから、それが私なのです!!」


 私の叫びは、もはや悲鳴だ。勝負の天秤は既に、ジャニス殿下の側に大きく傾いている。だというのに――。


「暴力ですべてが解決するのなら、この世に言葉なんて要りませんよ。マシュー様、少しの間だけ私に時間をください」

「……わたくしからもお願いします」


 背後からは、エステラ嬢の声までかかる。なんということだ。彼女まで逃げなかったなんて……。


「手間が省けて助かるよ。斬り殺されるために出てきてくれるとは」


 ジャニス殿下の意識が、私からヘレナ嬢に移動する。これで初撃は防戦となることが確定的となった。ここから勝ち切る可能性は無に等しい。


「しかし労せず、というのもおかしな話だ。本来、手下がまともに動きさえすれば、支払わずに済んでいた労力なのだからな」


 依然としてヘレナ嬢を見つつ、ちらと私にも注意をくれる。その眼には明確な嫌悪の色がある。路傍に転がる動物の死骸でも見るかのような……。


「利用価値の有無で人を測る。それがあなたの流儀ですか」

「当然だろう? 益するところのない人間関係など無意味なものだ」

「実にあなたらしい考えですね。人を道具としてしか見ていない」


 ヘレナ嬢一流の皮肉すら、ジャニス殿下は笑って受け流す。確定的な勝利を目前にした余裕が、その舌をさらに滑らかなものにした。


「我が信頼に応えれば、誰であれ重宝してやったさ。もっとも、私の不幸はそれに沿うだけの人材が周りにいなかったことだがね」

「つまりあなたの独断と偏見ですべて決まるというわけですか。利用される側の気持ちなんてどうでも良いと?」

「ふん……無私の行為など胡散臭いだけだ」


 もう一瞥、私に視線をくれる。その視線からは、もはや私に対する一切の興味が失われていた。


「あなたは企んだ。自らの欲望の実現のために。そのために人を利用したに過ぎません。人を信用しない者が、裏切りを語るなどおこがましい」


 唾棄するかのような一声は、今のジャニス殿下であっても耳に障るものだ。さすがに眉根を寄せてこれを受ける。


「無力な準男爵令嬢が、私を痛罵したつもりか」

「本当に無力とお思いで?」

「婚約破棄の場を思い返してみろ。出過ぎた行いの報いを受け、貴様は私に囚われた」

「けれども抜け出した。それも、あなたが眼にかけた配下の裏切りのせいで」

「状況を正しく読むんだな……貴様の生死は今、この私こそが握っている」


 否定はできない。ジャニス殿下が剣を振るえば、ヘレナ嬢の命を散らすなど容易い。圧倒的な暴力の前では、どんな真実や正義だって無力に等しい。


 この短い語らいの時間は、さぞや不快なものであったのだろう。ジャニス殿下は剣を構え直し、次の瞬間にもヘレナ嬢を斬り伏せる準備を整えた。


「……最期に言い残すことはあるか?」


 私もまたヘレナ嬢を見る。時は遅きに失したが、今からでも逃走を図ってくれれば割り入るだけの隙はできる。なのに、ヘレナ嬢は動かない。今だっていささかも臆することなく、ジャニス殿下の顔を見つめ続けている。そして――。


「あなたの過ちは、引き際を見誤ったこと」

「……なに?」

「自らが負うべき責任を放棄し、飽くなき欲望に身を任せたこと」

「…………」


 勝利宣言。どういうつもりだ。もはや訊ねる言葉すら出てこない。私はただ眼の前の令嬢の信じ難い胆力と、直面した現実との落差に固まるばかりだ。


「だから、仕事はこれで終わりなのです」


 それは意表を突いた行動だった。右手を素早く背に回したヘレナ嬢は、そこから道具のような物体を取り出す。即座に頭の高さまで掲げ上げると、左右に振ることで音を出した。


 その正体は稚児が遊戯に使うような小さなベルだ。この剣呑な場に似つかわしくない、涼やかな音色が一帯に響き渡る。


 私たちは呆気に取られた。だが、鈴の音ひとつで状況が好転するものか。誰にも増して、ジャニス殿下が余裕を取り戻すのが一番早かった。


「その音色、降参のつもりか?」

「…………」


 無言でいるヘレナ嬢を見て、ジャニス殿下の口が横に裂ける。


「わかっているのだろう? 助けを呼んでも誰も来ない。この場に来た時点で、とうに調べなど付いている。小径の周辺には誰もいなかった。だからこそ私はポーリーを伴い、エステラの醜態を見に現れたのだからな」


 盗賊ギルドの面々が姿を現さなかったのは誤算だが、王太子の立場からして、そう何度も接触を図ることはできなかったはずだ。ジャニス殿下は彼なりに、最低限度の調べを終えてからここに来ている。それは間違いない。


「遺言を遺す機会すら失ったな……ヘレナよ、これが貴様との今生の別れだ」


 ジャニス殿下が剣に力を込め、私はタイミングを測る。その眼光は過たずヘレナ嬢の姿を捉えている。当たれば絶命の必死の剣。横入りすることで稼げるのは果たして何合であろうか。どの道、なすべきことをやるしかないが……。


 緊張の糸が断たれ、通りの暗がりに男ふたりが身を躍らせる。互いに最大の速度で繰り出されたはずの剣撃はしかし、打ち合うことはなかった。


 それは空振りですらない。何故ならジャニス殿下が高々と掲げ上げた剣は、どこにも振り下ろされることなく、行き場を失っていたのだから。


「……なんだ?」


 驚愕に眼を瞠った。私もそれを見た。身体中の筋肉が強張った状態で、微かな音とともにジャニス殿下の足元に突き立ったものを凝視する。射線がどこに通っていたのかすら定かではない。だがそれは、紛れもなく長弓から発射された矢であった。


「バカな、誰もいないはずだ……何故、このようなものが……!?」


 瞬時に首を巡らせる。私もまた眼球の動きのみで周囲を追ったが、暗がりの最中に蠢くものは視認できなかった。であるなら、これは私たちの視界より遠くから射かけられたものと推察される。


 しかし、だとするなら、それは信じられぬほどの手練れの手によるものだ。王国屈指の弓手だろうか、決して学生の身空で行える芸当ではない。


「……それ以上、動かないでください」


 いまだ混乱の渦中にいる私たちの鼓膜を、ヘレナ嬢の忠告が揺らす。ジャニス殿下と私、ふたり分の視線が注がれるその先で、彼女は話を続ける。


「争いごとは本意ではありません。今もこの暗がりの向こう側で、射手はあなたの身に狙いを付けている。下手に動けば、身体のどこかに穴が開きますよ」


 脅しではない……のか。しかし、姿も見えぬ位置からの射撃だ。

 今の一射がたまたま上手くいっただけの可能性は捨てきれない。


「驚きだな。貴様の隠れた協力者が、視野外からの射撃をもう一度再現して見せるというのか。だが、それよりも……」

「まだわからないのですか」


 その声に、ジャニス殿下は測りかねた。優勢か劣勢か、すなわち自分の置かれた立場を。それと同時に、この謎めいた令嬢の一言の意味を。


「命惜しくば動くな、私はそう言ったんですよ」

「どうやら、武芸には不案内らしい。今のような神業、そう何度も……」

「続きますよ」


 断言し、ざりっと音を立てて足を肩幅に開く。堂々たるその姿を眼にして、ジャニス殿下の片足が半歩分ほど後方に下がった。


「まさか……視認すらできぬ距離だぞ!?」

「関係ありません。それより考えてみるべきです。射手は誰であったのかを」

「なに!?」


 その驚愕は、目星に思い至っただめか。私もまた同じ面相を思い浮かべていることだろう。王国全土でたったひとり、この神の如き一射を実現できる人物がいる。だがそれは――。


「ウィリアム卿……だが、あり得ない。彼のものに、貴様如きが協力を取り付けるなど……」


 私とて同じ思いだ。この現実を受け入れてしまうなら、そもそもの前提条件が崩れ去ってしまうことになる。


 ジャニス殿下が動けぬことで、私の動きも止まる。まるで時間が止まったかのような場にあって、ヘレナ嬢だけが平常な時の流れの中にいる。


「あなたは気づくべきでした。そして踏みとどまるべきだった。自らが犯した罪科の責任を取り、罰を受け入れる……その意志さえ見せていれば、このような事態を招くことはなかったでしょう」


 ヘレナ嬢の眼光が刺さる。真正面からそれを受けたジャニス殿下の心中はいかばかりのものか。相手は一介の準男爵令嬢に過ぎず、王太子たる自らの立場を考えれば恐れる相手ではない。だが、私の瞳ははっきりと捉えている。一国の王太子が、初めて恐怖に慄くその姿を。


「もっとよく考えてみるべきでした。どうして準男爵令嬢でしかない私が、王室御用達の自白剤などというものを持っていたのか。覚えておくべきでした。私が鳴らした王鈴の音色を。そして撃たせるべきではなかった。ハーツ王国が誇る魔弓の射手に、手遅れとなる威嚇のための一射を」


 ――ざり、と土を踏みしめる音がした。


 それはジャニス殿下が気圧され、さらに退いたためではない。それとはもっと別の、明後日の方角から満を持して響いたものだ。


 言葉を失ったジャニス殿下が意識を移し、私も追従してそちらを見る。脳裏に過ぎるはヘレナ嬢の言葉。暗がりは彼女の領域。であるなら、そこから生じ出ずる者もまた、彼女一流の影の眷属なのであろうか。


 闇より出でしその姿を見て、私とジャニス殿下双方の呼吸が止まった。


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