第4話 『純潔の行方』
……沈黙は敗者の証、そう考えたのかもしれない。
ことの一部始終は目撃された。既に申し開きすらできない状況にある。しかし、傍らにポーリー嬢を伴ったジャニス殿下は余裕の笑みを崩さない。
「……驚いたよ、よもや最初から裏切っていたとはな」
「言い訳するつもりはありません。ですが、お互い様では?」
「いかにもコウモリ男らしい開き直りだ」
突き刺すような視線を私から外し、正面にいるヘレナ嬢に向ける。
「さて、重要な方の案件の処理といこうか。ヘレナ・オーラ嬢」
「ヘレナで構いません」
「ではヘレナ、そなたに訊ねよう。私はこれから、いったいどうすればいいのかね」
目下の最大問題に切り込んできた。協力者の私とて、ヘレナ嬢の狙いは知らない。ジャニス殿下という巨大な牙城を、どこまで切り崩すつもりなのか。
「……ジャニス殿下」
やはり臆していない。この令嬢、肝が据わっているなどというレベルではない。一国の王太子を向こうに回して身じろぎひとつしないとは。
「もうおわかりと思いますが、エステラお姉様に扮した私は、殿下の謀略を身をもって経験しました。あなたはマシュー様と結託し、ごろつきの男を針の役と見立て、エステラお姉様の純潔を力ずくで散らそうとした。その罪科の大きさは、王位継承権の返上にすら等しいと考えます」
ぞっとした。私と同じく準男爵家の生まれでしかない下級貴族令嬢が、一国の第一王太子に王位継承権の返上を進言するとは……。
言葉を失ったのは私だけではない。さっきからジャニス殿下の腕にしがみつくように腕を回しているポーリー嬢もまた顔面蒼白となっている。
ただ、ジャニス殿下だけが笑みを崩していない。
「……貴人に対する強姦罪だと?」
「純潔を散らした上で、不貞の罪を相手に着せようともしました。人道にもとる、悪辣極まる行為です」
淡々と言ってのけるその声が、いちいち私の肝を冷やす。
今にも剣を抜き放って斬りかかられてもおかしくないというのに……。
落ち着き払っているのはヘレナ嬢だけではない。王太子たるものの器を見せつけるつもりなのか、ジャニス殿下もまた彼女と同じ高さから言葉を発した。
「一理ある……もっとも、そなたの主張した通りの状況であるのならな」
「どういう意味ですか」
「会話の一部始終を耳にしただろう。そなたも覚えているはずだ。私は言ったはずだぞ、興趣と」
たしかに、その文言なら聞いた覚えがある。しかしこの窮状を打開するだけの効果がある言葉には思えない。
「興趣、つまりお遊び。芝居だったのだよ、これは」
「芝居? 卑劣な犯罪行為を、そんな言葉で片づけるつもりですか」
ヘレナ嬢の放つ声に怒気が混じる。言葉の圧が増しても、ジャニス殿下は崩れない。
とことんまでしらを切るつもりなのか、口元に友愛の笑みすら浮かべている。
「その犯罪行為というのが誤解だという。いいか、よく考えてみろ。一国の王太子であるこの私が、ならず者とつるんで婚約者を手籠めにしようなどと本気で考えると思うのか? ことの深奥にあるものは、傷つきたる我が心だ。長年の婚約者であるエステラに裏切られ、悲しみの淵に沈んでいたこの私が、彼女に自らの行いを正して欲しいと思い立った。協力者を募り、少しばかり怖がらせてやろうとしたことが、それほどまでの大罪に当たるわけがないだろう」
出任せにも限度がある。気づけば口を挟んでいた。
「自分はそんな話など一言も聞いていない!!」
「当然。役者には迫真の演技をしてもらわねばならぬからな」
「あなたは、そんな言い逃れが有効だと……!?」
「疑うならそこに転がっている男に聞いてみるがいい。私と同じことを口にするはずだ」
ジャニス殿下にとって、私の背信は懸念事項であったはず。万が一の状況に備え、針男と口裏を合わせていても不思議ではない……。
私は歯噛みし、ヘレナ嬢を見た。表情に乏しいその顔は、人のものと思えぬほどに見事な銀髪と合わさることで、本当に人形染みて見える。
「……無理のある筋立てですが、罪は減じられますね。本当に驚かそうとしただけならば」
意外にも同調を見せたが、それも一瞬。
「ですが影はどこにでもあります。その囁きはすべて私の耳まで届いている」
「なんの話だ?」
唐突に話が脇道に逸れ、ジャニス殿下が怪訝な表情を浮かべた。ヘレナ嬢は不思議な雰囲気を持つ令嬢だが、よもやその一端をここで垣間見るとは思わなかったのだろう。
「ここは暗がり、私の領域です。嘘や言い逃れは通用しません」
「そなたと対等に会話するこの私を、嘘吐き呼ばわりすると?」
持って回った小芝居が鼻についた。ヘレナ嬢は露骨に顔を顰めると、不機嫌を隠し立てすることすらやめてぶっきら棒に告げた。
「ええそうです。それも稀代のね……なにが対等な会話なものですか。手勢に裏切られて暴力に訴えることができなくなったから、仕方なく口先で言い訳してるだけでしょうに」
――ピキッ、と空気の張り詰める音がした。
いや、それは幻聴だ。私やポーリー嬢、それにジャニス殿下すらも、呆気に取られた顔でヘレナ嬢のことを見ている。
「ひとつ良いことを教えて差し上げましょう。盗賊ギルドの構成員は常に金銭の味方。より多額の報酬を約束した側に寝返るのですよ」
そこまで言われて、ようやく自身の劣勢に気づいたらしい。先程までの余裕がまるで嘘のように、ジャニス殿下が慌てて口を開く。
「そ、そなたはいったいなにを申しておるのだ。私が、そのような卑劣な手段など……?」
「取ってますよね。実現しなかっただけで。目的は一網打尽だったのでしょう。マシュー様が背信し、あなたへ剣を向けた。そのときのための保険として」
たじろぎを見せるジャニス殿下へと、ヘレナ嬢の一切容赦のない舌鋒が飛ぶ。
「そもそも、勝つ見込みの薄い決闘でした。他ならぬあなた自身も自覚していたことです。剣の腕ではマシュー様に後れを取ると。だからこそあなたはマシュー様を抱き込み、目下の事態が起きぬよう眼を光らせておく必要があった。しかし卑劣なあなたのこと。当然最悪の事態に対する保険も忘れていない。盗賊ギルドの連中を巻き込んだのは、マシュー様が再び決闘のお題目を掲げたタイミングで、亡き者にするつもりだったからなのではありませんか」
表情に乏しいヘレナ嬢の口から、黒い陰謀と呼べるものが流れ出る。
平時であれば誇大妄想の一言で片づけることのできたそれが、今この場においては、なによりの説得力を持って私たちの耳に届く。
あのジャニス殿下ですら顔色を変えた。血の気を失った青い顔で、唇を震わせながら、抗弁することさえできずにいる。
当の本人だけがけろりとして、なおも長広舌を振るう用意すらあった。
「そうですね。筋書きも考えてあげましょうか。マシュー様は以前から、エステラお姉様に叶わぬ恋心を抱いていた。焦がれるあまりに思い詰め、ジャニス殿下の名を使って呼び出しをかけてしまう。そして大願を果たすには至ったものの、良心の呵責に耐えきれず自刃して果てる道を選んだ……邪魔者が二人とも消える一石二鳥の脚本です。実にあなた好みだと思いませんか?」
言葉終わりにヘレナ嬢が浮かべたのは、清廉な笑みだ。貴族令嬢の笑顔の手本として、見本市に並んでいてもおかしくないほどの……。
だが、不穏極まる話の内容との落差がひどい。あまりにひどすぎて、安酒で悪酔いしたような心地になってくる。
「ヘレナ嬢、さすがにそこまでのことは……」
いくらなんでも悪し様に考えすぎだ、と釘を刺すつもりではいたのだが。
「ちゃんとジャニス王子のことを見ていてください。遠からず、といった感じですよ」
はっとして首を巡らすと、ジャニス殿下の眼が血走っている。奥歯を噛みしめ、鼻息は荒く、爛々と輝く黒眼だけがヘレナ嬢の姿を捉えて離さない。
「次からは、かしずく相手は選んだ方がいいですよ」
「…………」
屈辱と羞恥の混ざった沈黙だった。片や真っ向堂々と侮辱を受けたジャニス殿下は、ヘレナ嬢に対する敵意を隠そうともしなくなる。
「……証明できるというのか。貴様の、そのトチ狂った妄想を」
焦らしの効果を期待したのだろうか。ヘレナ嬢はしばし時間を挟んだのち、相手に変化がないと見るや、致し方ないといった風に口を開く。
「できる……と言いたいところですが、まあ無理でしょうね。あなたと盗賊ギルドとの黒い関係は、私の手で上から塗り潰しました。しかしその構成員を証言台に上げることは不可能に近いでしょう。元々が反社会的組織であり国敵。表舞台に立った時点で、国家権力が全力で潰しにかかるでしょうから」
いまだ私の身が無事であることから、ヘレナ嬢の言葉に嘘はないのだろう。費用をどう工面したかは知らないが、ジャニス殿下の雇った盗賊ギルドの面々をこの令嬢が買収し直したのも本当のはず。
そして今語られた内容。ジャニス殿下と盗賊ギルドとの関与を白日の下に晒すため、彼らにこれ以上の協力を要請できないという事実もまた、我々が直面している厳しい現実だ。
だから――。
「貴様が今語ったことは、疑いだけだ。疑惑は証明できねば不問に伏される」
その主張は筋が通っている。ヘレナ嬢の物言いはあまりに一方的だ。ジャニス殿下に疑惑をかけ、さもそれが真実であるかのように言ってのけただけ。
疑惑を裏付ける証拠を提示できないなら、嘘で作られた罵倒となにも変わらない。
「……ヘレナ嬢」
「わかっていますよ」
先んじてそらんじるものの、状況は厳しい。決定打を与えられないことで、この場の主導権があちらに移ってしまった。それを逃さぬジャニス殿下ではない。
「優先順位を違えているぞ、ヘレナ。このようなたわ言をほざくより前に、貴様にはすべきことがあるはずだ。婚約破棄の席でのこと、よもや忘れたとは言わせんぞ。まずは私にエステラの純潔が守られていることを証明してみせろ」
唾棄したい気持ちを抑える。そう、ここがボトルネックだ。婚約破棄の場でエステラ嬢を庇ったヘレナ嬢は、確たる証拠を提示することができなかった。
「――純潔の証明ができれば良いのですね?」
ふいに響いた声音は、この場に留まる誰のものでもなかった。それだけではない。涼やかなその声が聞こえた方向もまた、この場に集った誰もが立つ位置ではなかった。
一同の視線が、いちどきに声の方向へと集中する。私の眼もまたそれを見た。通りの暗がりから現れたのは女性。すっと伸びた背筋と、艶やかで豊かな金の長髪には見覚えがある。
ことの当事者、エステラ・プリムムその人であると一目でわからないのなら、それは貴族学院関係者のみならず、ハーツ王国民ですらないことだろう。
「え、エステラ……!?」
仇敵の唐突な登場に、ポーリー嬢が眼を剥いた。驚き瞠ったその視線すら優雅にいなして、エステラ嬢が私たちの近くまで歩み寄る。
つと、その指が自らのスカートにかかった。さすが名だたる公爵令嬢、このような状況にあっても折り目正しいカーテシーは忘れないのか。私がそう思ったのも束の間、裾を摘まんだエステラ嬢の指が、膝折礼の適正位置を超えて上昇を見せる――。
自身の両膝が剥き出しになってもその動きは止まらず、意図を悟った私は思わず下方に眼を逸らそうとした。
「……エステラお姉様」
「冗談です」
ぱっと両指が離れ、持ち上げられていたスカートがふわりと降りて露出した両足を隠す。視線を戻すと、ジト眼でこちらを見ているヘレナ嬢と出くわす。
「凝視しすぎでは?」
「ぬ……濡れ衣だ……」
とは呻いたものの、ある程度見てしまった以上弁明の余地はない……。
苦々しい心地を抱きながら視線を巡らすと、エステラ嬢の正面に立つジャニス殿下とポーリー嬢が、一様に青褪めた顔をしているのが見えた。
「私の努力を水泡に帰すような真似だけはやめてください」
「あらあら、ヘレナったらおかんむりね。わたくし冗談だって言ったわよ?」
「……冗談でも、ですよ」
唇を尖らせるヘレナ嬢と打って変わって、エステラ嬢はにっこりと満面の笑顔を浮かべている。彼女はいつ何時であろうと不機嫌を見せたりしない。それは女神の教えか、はたまたエステラ嬢自身の処世術なのだろうか……。
詮無い考えごとが纏まらぬうちに、エステラ嬢がジャニス殿下へと話しかけていた。
「ご機嫌麗しゅう存じます……で、よろしいかしら。ジャニス王太子殿下」
「エステラ……そなた、どうしてここに……!?」
ジャニス殿下の驚きは想像に余りある。ヘレナ嬢が身柄を入れ替えてまで守ろうとした守護対象が、現場に姿を現した。わざわざ危険の渦中に飛び込むような真似をした真意を測りかねるのは当然のことだ。
この状況に、エステラ嬢は彼女一流の説明を付ける。
「もとをただせば、これはわたくしとあなた様との問題ですから。妹分にすべてを任せて、自分だけ部屋でくつろいでいるわけにはいかないでしょう?」
うふふ、と声を立てて笑んで見せる様はまるで女神のよう。この場にそぐわぬ柔和な態度に、ジャニス殿下とポーリー嬢も動揺を隠せない。絶対的なイニシアチブを保持したまま、エステラ嬢が話を進めてゆく。
「目下の一大問題は、わたくしの純潔が守られているのかどうか。ジャニス殿下もご承知だと思いますが、こちらも証明手段ならば持ち合わせております。ですけど、わたくしも曲がりなりにも貴族令嬢なものですから、なるべくはしたない方法は取りたくないんです」
そもそもこの暗がりじゃ見えにくいでしょうからね、と結ぶと、横合いからポーリー嬢の感情的な声が届いた。
「そんなの不貞がバレるからに決まってるでしょう!!」
「あら? ポーリーさんはそう思われますの?」
「あ、当たり前でしょ!? あんたが裏切ったせいで、ジャニス殿下の御心は深く傷つかれたのよ!!」
のべつまくなしに喚き立てるポーリー嬢であるが、私の眼にもはっきりとわかる。このふたり、あまりにも役者の器が違い過ぎると……。
「でしたら最高級の謝辞を。ジャニス殿下の心の傷、わたくしの代わりに癒していただきどうもありがとうございました、ポーリーさん」
「あ、あんた……!?」
格の違う相手に、笑顔のまま皮肉で封殺された。絶句するポーリー嬢を置き去りに、エステラ嬢はジャニス殿下のみを眼に入れる。
「なるべく穏便にことを済ませる気はありませんか?」
「穏便だと? そのような手段、我々に残されているわけがなかろうが」
「いいえ、ありますよ」
眉間に皺を寄せたジャニス殿下の敵意に、エステラ嬢は人好きのする笑顔のままで言ってのける。
「エステラ・プリムムの名においてここに宣言します。わたくしエステラ・プリムムに、ジャニス殿下を含むすべての男性と関係を持った事実はございません。この身はいまだ清らかなまま、純潔を保っていることを女神様に誓います」
宣言を終えると、ニコッとした笑顔をジャニス殿下に送る。
「これでおわかりになりましたでしょう? わたくしに不貞の事実など存在しないと」
この場に集う者が知る事実がある。エステラ嬢は敬虔な女神信徒。その教えに沿って生きる彼女は、嘘を口にすることができない。公の場で断言した事柄であれば、それは紛うことなき真実以外の何物でもない。
私は思う。これを決着と見ることもできる。エステラ嬢の言った通り穏便な方法でもある。今後のことに関しては誤解を解いたあと、じっくりと膝を突き合わせて考えれば良い。だが――。
「……信用ならぬな」
ジャニス殿下が異を唱えた。親しげに歩み寄ったのが仇となったか、大上段から睥睨するようにエステラ嬢と対する。
「理由をお聞かせ願っても?」
「そなたの教理については存じている。だがなエステラ嬢、女という生き物はときに、自らに対しても無自覚に嘘を吐いてしまうものなのだ。そなたが純潔であると信じているだけでは、なんの証拠にもなりはしないのだよ」
依然として笑顔を浮かべてこそいるが、これにはエステラ嬢も口ごもった。
ジャニス殿下自身は納得の態だが、これほどまでにあからさまな論理の破綻もそうない。仮に適用すれば、この世界から証人になれる女性がひとりもいなくなってしまう。
「……女性蔑視も甚だしい」
やはりと言うべきか、私の隣に立つヘレナ嬢も静かに激怒している。
敵意のこもった眼でじっとジャニス殿下を睨みつけていた。
「でしたら、わたくしはどのように純潔を証明したら良いのでしょう?」
「せいぜいさっきの続きをやるのだな。スカートをたくし上げて、我々の前で股ぐらを開いて見せるがいい。冗談でないというのなら、今度は至近距離からじっくり検分してやるぞ?」
煽り終えると、勝ち誇った笑い声を立てる。罵倒対象でない私ですら癇に障る笑い声だったが、エステラ嬢は不思議そうに首を傾けた。
「それは少しおかしいですね」
「……なにがだ?」
殿下が笑いを中断すると、演技なのかどうなのか、エステラ嬢は自身の顎に人差し指を当てて心底不思議そうに告げる。
「今この場で問題となっているのは、わたくし自身の純潔のはず。わたくしがそれを証明しなければならないのはわかります。けれど、純潔が損なわれたというからには、そう判断するに至った経緯を知っておられるはず。婚約破棄の場も今も、ジャニス殿下はそのようなことを一言もおっしゃっていませんよね?」
疑惑は証明できなければ不問に伏される。ダブルスタンダードは許されない。私たちも、ジャニス殿下自身も今しがたの発言を覚えている。逃げの一手を打つことはできない。
「……ご指摘できますでしょうか。わたくしの不貞の事実を」
豪胆な挑戦だ。ありもしない事実を指摘せよとは。
以前にジャニス殿下の口から聞いた悪魔的な証明にも等しい。
この極めて不利な状況に、発案者たるジャニス殿下はどう思ったか、口の端を歪めてエステラ嬢を見た。
「良かろう……ただしひとつ条件を付けさせてもらう」
「条件?」
エステラ嬢が訊き返すと、ジャニス殿下は「ああ」と頷き。
「そなたの不義密通に関し、当方には指摘の準備がある。しかし、ただ指摘しただけでは、疑いは確定したことにならぬだろう。そこでだ。そなたには私が指摘した日時に、一緒に居合わせた人物を列挙してもらうことにする。もし誰の名も挙げられぬ場合、不貞行為に勤しんでいたと断定させてもらおうか」
いけない、これは罠だ!!
「……エステラ嬢!! いけません!!」
気づけば叫んでいた。エステラ嬢が振り返りなにか言おうとするも、ジャニス殿下の横槍の方が早かった。
「貴公には発言を許可していない。私は婚約者殿に問うている」
「しかし、このような方法では!!」
「誰彼構わず尻尾を振る駄犬め。黙って見ていることすらできんのか」
痛罵されて、思わず佩いた剣の柄に手が伸びかけた。仮に今荒事を起こせばすべてがご破算になる。二律背反だが、ここは引くしかない。
「……申し訳ありません、エステラ嬢」
痛罵したジャニス殿下でなく、その対話者であるエステラ嬢に謝罪したのはせめてものプライドだ。肩を落とす私に、首を巡らせたエステラ嬢が笑みを送ってくれる。
「お気になさらず。それより、ヘレナを逃がしてくれてどうもありがとう」
「私は、自分が正しいと思ったことをしただけで……それにこの価値観すら、父からの借り物でしかありません」
卑屈な言い方をしたのは、今しがたのやらかしもあった。
私の行為が、危うくすべてを水泡に帰してしまうところだったのだ……。
「マシュー様って見た目と違って血気盛んなんですね。あー、若いって良いなあ」
「いくつも変わりませんよ。というか、そんなことを話している場合では……」
普通に受け答えしてしまったが、エステラ嬢の発言は場違いにも程がある。呑気に私について語らっている場合ではない。
「よく聞いてください。ジャニス殿下の狙いはあなたの弱みです」
「弱み……わたくしの習慣のことですか?」
「理解しておられるのなら、どうして?」
小声での遣り取りの最後に、エステラ嬢はうふふと笑みを浮かべ。
「まあ見ててくださいな。真実は虚偽に敗北することはない。それに……わたくしにはあの子が、勝利の女神が付いていますもの」
私は一歩退き、固唾を飲んで見守る。ジャニス殿下がエステラ嬢に要求するもの。それは現場不在証明。指摘を受けた日時に誰かと一緒にいたことを、その誰かを名指しして証明せねばならない。
ことエステラ嬢にとって、これはあまりにも不利な挑戦だ。
何故ならば――。
「エステラ、私は覚えている。何故ならばはっきりとこの眼で目撃したからな。そなたが女子学院寮を抜け出し、意中の男を密会を果たすその瞬間を」
朗々と口上を述べ立てるジャニス殿下は、さながら舞台役者のよう。
この余裕、慢心こそ、ここで雌雄が決することになんの疑いも差し挟んでいないことの、なによりの証拠であるだろう。
「この私というものがありながら、そなたは他の男と抱擁を交わし、闇夜の深きへと消えていった。傷つきたる我が心の痛み、それこそがすべての嚆矢。忘却の彼方へ打ち捨てたい忌々しい記憶はしかし、その強さゆえに私の心に焼き付いてついぞ消えることはなかった……あれは忘れもせぬ弧弓の月、その十七日。これより夜半前に入る頃合いのこと。そなたに証を与えられる随伴者がいたというのなら、その名、即刻ここで挙げてみるが良い」
まるで一歌詠むように述べ立てられた発言は、ジャニス殿下一流の勝利宣言だ。
私も理解した。ジャニス殿下の発言は、エステラ嬢の急所を的確に突くものであったと。この難局、どのように打破したものか皆目見当も付かない……。
相も変わらず折り目正しい姿勢で、スカートの前で手を合わせてこれを受けたエステラ嬢の隣に、後方から歩み出たヘレナ嬢の身が並び立つ。
エステラ嬢はジャニス殿下へと笑顔を向けたまま、隣を見もせず言った。
「……ヘレナ、首尾はどう?」
「獲物はかかりました。私がやってしまっても?」
「ええ、お願い」
ジャニス殿下を凝視したままヘレナ嬢が頷き、口を開く。
「その日時のエステラお姉様のアリバイなら、ヨハネス教皇猊下が証言できます」
「……は?」
素っ頓狂な声が聞こえた。発声者はわからない。ジャニス殿下も、ポーリー嬢も、この私すらも呆気に取られて、同様の反応を取るしかなかったからだ。しばし絶句の時間が流れ、最初に我を取り戻したのは対話者であるジャニス殿下だった。
「なにを言い出すかと思えば、とんだ世迷言を……貴様はエステラが女神教会の最高指導者と、貴族学院の女子寮でまみえていたと申すのか!?」
色を失うジャニス殿下へと、ヘレナ嬢は平然として、「ええ」と頷く。
「そのように言ったつもりですが」
「あ、あり得ぬ……教皇猊下がお忍びで、しかも件の時間にエステラと面会していただと!? かように突拍子もない嘘八百、本気で罷り通ると思っているのか!?」
もっともな疑問だ。私とてそう感じている。女神教の総本山である聖都から貴族学院のある王都まで、早くとも馬車で半日以上はかかる。それだけの手間と時間をかけて、教会のトップがいまだ貴族令嬢の身空であるエステラ嬢に面会を求める理由など考えられない。
いや、それよりむしろ――私の中で膨張してゆく疑問は、ジャニス殿下の口を借りて外へと吐き出された。
「第一、女神信徒には祈祷の時間が厳格に定められている!! そなたは今、教皇猊下までもその義務をなおざりにしたと申したのだぞ!?」
……そう、これこそがエステラ嬢の弱み。
敬虔な女神信徒であるエステラ嬢には、遵守せねばならぬ掟が存在する。それは夜半前から夜半にかけての数時間を、ひとり礼拝堂で女神へと祈りを捧げて過ごさなければならないという十時課だ。
このブランクタイムのアリバイを立証できる人物は存在しない。つまりジャニス殿下側とすれば、祈祷の時間を密会のタイミングとして指摘するだけで、エステラ嬢のアリバイを崩すなど造作もないはずだった。
先の発言を虚偽と断じた一手を、エステラ嬢が笑顔のままで引き受ける。
「ですから、ともに祈ったのです。礼拝堂なら女子学院寮にもありますので」
「そんなバカな話が……!?」
「さして変なことでもありませんよ。だってわたくしは、自分の大叔父様とお会いしていただけなのですから」
「…………」
貴人の系譜は、貴族学院の必修科目。エステラ嬢とヨハネス教皇猊下が親類であるという重大事実、ジャニス殿下が見落としていたというより、目先のショッキングな出来事で霞んでしまっていただけだろう。
「今度こそわたくしの純潔は証明できたと思いますが」
「あ、ああ……たしかに理解した……」
やけに素直な口振りだが、撤回の前触れでしかない。
「我が甚大なる心痛は、時間感覚すら歪めるものであったということをな」
「自信満々に語っておいて、記憶違いだったと言うつもりですか?」
恥知らずにもダブルスタンダードを持ち出したことで、ヘレナ嬢がムッとした声を出す。ジャニス殿下は臆した様子もない。
「人は傷つく。大きな打撃は心を病ます。今さら虚勢を張っても致し方あるまい。ゆえに認めよう。私はエステラの裏切りを見て心を失っていたと」
「……では、今度こそ正しい密会の日時を指摘する準備があるのですね」
自身を凝視するヘレナ嬢に、ジャニス殿下は深々と頷きを返す。
「翡翠の月、その八日同時刻だ……今度こそ間違いはない」
エステラ嬢とヨハネス教皇猊下は大叔父と又姪。先の指摘が、教皇猊下がその親族を訪ねた日時と偶然にも合致していただけならば、今度こそジャニス殿下の指摘を躱す手立てはない。女神信徒の掟をなおざりに、あらゆる日時に賓客を招いておくことなど事実上不可能だからだ。
だが――。
「……ヘレナ、どうかしら?」
「その日時でしたら、カークラウド枢機卿閣下に立証していただけるかと」
「バカな!!」
うら寂しい細道に、ジャニス殿下の悲鳴のような大声が木霊する。
「カークラウド枢機卿といえば、女神教会内でも屈指の要人!! そなたとの間に血縁関係もない!! 何故、そのような時刻にまみえることができる!!」
心情としては私も同感だ。ジャニス殿下はエステラ嬢から視線を外し、ヘレナ嬢に向けて続けて叫んだ。
「貴様もだ!! 私の指摘した日時は半年以上前のもののはず!! そのような過去の出来事に、一瞬で答えが出せるわけがない!!」
息を荒げ、その最中に生唾を飲み込むジャニス殿下へと、鋼心の準男爵令嬢はこともなげに答えた。
「……見ていたからですよ」
「なんだと!?」
「影はどこにでも存在する。例え私がそこに居合わせなくとも。私はただ、彼らに教えてもらっただけに過ぎません」
それは答えのようであって答えではない。
霧のように得体の知れぬこの準男爵令嬢の口から、神秘主義的な言葉が漏れ出ただけ。しかし今この場にあっては、絶対的な説得力を持って誰の耳にも響く。
「それでは殿下、ともに証言をいただきに参ろうではありませんか。相手は高位聖職者。それも男性。女性の身にあるような思い込みもありません。証人として、これ以上ない人選となるでしょうね」
私が初めて見たヘレナ嬢の笑みは、勝ち誇ったもの。窮地からの逆転劇を演じて見せた大立者に対し、ジャニス殿下は歯噛みして敵意を漲らせる。
「信じられるか!! 枢機卿ともあろう人物が、エステラに会うためだけに女子学院寮を訪れるなどと!!」
「……理由があればよろしいんですね?」
息巻くジャニス殿下と裏腹な穏やかな声は、ヘレナ嬢の隣に立つエステラ嬢のもの。
「ではお伝えいたしましょうか。先に行われた公会議において、わたくしエステラ・プリムムの身が百年振りの聖女候補として選出されました。これにより、女神教会に属する要人方とつとに面談を繰り返す必要が生じたのです……ちょうど、今から十月ほど前の話になりますね」
きっと初耳だったのだろう、笑みを湛えたまま事情を説明したエステラ嬢に対し、ジャニス殿下は血の気の失せた顔色を見せた。
「そのような重要なこと、私は一言も聞いておらん!!」
「ええ、わたくしも申し上げておりません」
「何故だ!! そなたの婚約者だぞ!! それが、こんな……!!」
言いかけて言葉を失うジャニス殿下に、考えを纏めたエステラ嬢が答えをもたらす。
「秘密とは、女性を魅力的に見せるもの。殿下もそう思われませんか?」
「ふざけるな!! そのような言葉遊びで煙に巻くつもりか!!」
怒り心頭で喚き立てるジャニス殿下へと、エステラ嬢は依然として変わらぬ態度でこう告げた。
「さて、煙に巻こうとしたのはどちらなのでしょう? 婚約者に隠れて、ポーリーさんと仲を深めていらした御方? それとも聖女候補であることをひた隠しにしていたわたくし? ……あなたが先に秘密を作ったから、わたくしも同じことをしたんですよ。これこそフェアな関係というものではないでしょうか」
話の終わりに、うふふ、と上機嫌な笑い声が付随する。天使のような美声はしかし、ジャニス殿下にしてみれば悪魔のそれにも等しかったに違いない。
俄かに身体を震わせるジャニス殿下へと、今度は妹分が語りかける。
「……念のため、一応言っておきますね。エステラお姉様の不貞の相手として、カークラウド枢機卿閣下に嫌疑をかけるのだけはやめた方がいいですよ。嘘の吐けない相手を嘘吐き呼ばわりすれば、嘘吐きになるのはあなたです。最悪、女神信仰自体への批判とも捉えられかねません。たった一度の失言で聖界と俗界の軋轢を生んだとあれば、王位継承権の剥奪くらいでは済みませんよ」
半ば脅し文句のようなヘレナ嬢の言い分だが、最悪を見越した上での正論だった。
あれほどまでに息巻いていたジャニス殿下の口からぐうの音も出なくなる。
かくして雌雄は決した。獲得した勝利にはもはや興味がないのか、ヘレナ嬢は平然とした顔で姉と慕う女性へと向き直る。エステラ嬢は持ち前の笑顔でこれを受けると、待ち受ける事後処理のために、まずは第一協力者である私へと声をかけようとした――。
「……待ちなさいよ」
その声が、この場からの撤収を決め込んだ私たちを呼び止めた。




