第2話 『ジャニス王子の黒い陰謀』
郷里にいた頃、父上に口酸っぱく言われたことがある。正しきをなせ。その訓戒は、幼い私の耳を甘美に揺らした。世界は善と悪の二元論で成り立っており、正しい行いをすることは人としても正しい態度であると、そう信じていた。
人生という舞台から、父上は立ち去った。残された私の人生は続く。父上の教えを受け継ぎ、正しさを胸に生きてきたつもりだった。しかし年を重ね、背が伸びるとともに、世間のしがらみというものが見えてくる。行動にはすべて、自身の責任が伴う。例え正しかろうと、やって良いことと悪いことがある。
身の丈。貴族学院で私が学んだ現実がそれだ。名だたる貴族子女が通うこの学び舎において、準男爵令息である私の立場は途方もなく弱い。不正は行使者の家格によって、許されたり不問に伏されたりする。眼を瞑ることだ、平穏に過ごしたいなら。見ぬ振りをして、静かにしていることだ。
それこそが、正しい処世術なのだ――。
◇
「……別に構わないとは、いったいどういうことなのですか?」
ヘレナ嬢の説得に失敗した。連絡役として明白な失態だ。だというのにそれを命じたジャニス殿下は、今も上機嫌にワイングラスを回している。
「言った通りだが?」
「しかし、ヘレナ嬢に釈明の場を与えることは、殿下の慈悲の御心を公に示すまたとない機会であったはずです」
「そうかもしれんな」
つまらなそうに言い捨て、ジャニス殿下は私へ意味深な眼差しを向ける。
「……体面上、そのように取り計らっただけだ。あやつの処遇など最初からどうでも良い」
「彼女の妨害行為のせいで婚約破棄が中座したのです。謝罪を求めるのはれっきとした殿下の権利ではありませんか」
熱弁を振るおうとした私を、胃の底からしゃくり上げるようなジャニス殿下の笑い声が邪魔をした。眉根を寄せると、ジャニス殿下がグラスを持たぬ方の手で戸を立てる。
「フフ……いやすまん。貴公の生真面目さについ堪えきれなかった。たしかに謝罪は大事だな。許すという前提があるなら」
「それは、どういう……」
赤ワインの入ったグラスを煽り、ここで初めて殿下が私を見る。
「婚約者殿が特別な友誼を結ぶ相手だ。こちらもそれなりの手順を踏むさ。だがせっかく申し出を拒むというのなら、相応の罰を与える恰好の口実となる」
ソファに座る足を組み直し、私の眼を見詰めて続ける。
「あの銀髪娘、愛玩人形代わりに置いてもらっている身分で、随分と大それた思い違いをしたようじゃないか。自分がエステラを守るなどと。それもこの私から」
余裕の笑みを浮かべてこそいるが、その自信はどこからきたものか……いや、それより先に質しておくべき事柄がある。
「諾否が問題でないなら、どうして私を行かせたのですか」
説得に成功しなくていいのなら、準男爵令息とはいえ他の貴族令息に借りを作る必要はない。息のかかった家臣でことは足りる。
ジャニス殿下は薄笑みを作り、味を見るようにちろりと赤い舌を見せる。
「気を悪くしないでもらいたいのだが、少し貴公を試した」
「私を?」
「王太子たる者、忠実なる友人はいつだって募集をかけている。貴公にはその素質が見えたからな」
……息が詰まるような心地がした。
「あの場での私の懸念事項は、エステラが侍らすお飾りの銀髪娘などではない。ライオットのために立ち上がる秀でた貴族令息の存在、つまり貴公だ。友への侮辱をそそぐという大義名分を振りかざし、私に決闘を申し込んでいてもおかしくはなかった」
急所に刃を突き立てられて、今度は私が眼を逸らす番だった。
じっと床を凝視しながらも、情けのない言い訳が口を衝く。
「それは、そのような大それたことは……」
「まあ聞け。貴公を咎めているわけではない。むしろ賞賛しているのだぞ」
「賞賛?」
韻を踏むつもりはないのだが、タチの悪い冗談に聞こえる。
「至言は存じているな。沈黙こそ金であると。賢人は決してことを荒立てる真似はしない。あの場の貴公のようにな」
ジャニス殿下の言葉には対比構造がある。静観を選んだ私を持ち上げることで、暗に場に割り入ったヘレナ嬢の行為を貶めている。
「……ひとつ質問させていただいても」
「構わん。なんなりと問うがいい」
「仮に私が決闘を申し立てていれば、殿下はどうされましたか」
顔を上げ、こちらからジャニス殿下の眼を見て言った。
驚いた顔も束の間、私の胆力に歓喜したような笑みを見せる。
「辞退したか聞きたいと? 愚問だな。承諾したさ」
「うぬぼれながら、私は剣の道を邁進してきました。例えジャニス殿下であろうと、時の女神の気まぐれで敗北することもあり得ると思いますが」
自身の身を危険に晒すような言い回しをしている。わかっている、自分の選んだ選択に、今さら罪悪感を覚えていることなど……。
「勝負は時の運か。そういう考え方もあるな。敗北は素直に受け入れたことだろう」
「左様でございますか」
「だが――」
とここで、ジャニス殿下は人差し指で自身のこめかみを指した。
「時の運は勝負ごとのみの話ではない。我がハーツ王国民の全生命、生き死にそのものもまた運によって決定している。決闘を勝利で終えたところで、貴公の大事な領民も同じく時の女神の気まぐれにありつけるわけではない。むしろその逆もあり得るんじゃないか。疫病、飢饉、戦禍、略奪――まったく、どのような憂き目に遭うか知れたものではないな」
にいっと口の端を歪めた。見てとったのだろう、私の青褪めた表情を。
脅し文句の効果をじっくりと堪能して、再び杯を掲げる。
「この件に関してはもういいだろう。それより貴公も飲まぬか? 祝杯の味は格別だぞ……ポーリー」
殿下の呼び声に、殿下の自室の隅から人目を引く美女が歩み出る。ウェーブがかった長髪で片眼が隠れたこの女性こそ、ポーリー・アーカー子爵令嬢その人であった。
「難しいお話は終わりになりまして?」
「途中だが、麗しの薔薇を退屈させるほど罪深いことはない」
「まあ、殿下ったら」
自尊心をくすぐられたらしく、掌を口元に翳してうふふと笑い、ポーリー嬢が卓上で私の分のワインを準備してくれる。
「……私は、酒の類は」
「あら? ジャニス殿下のご好意を無下になさいますの?」
「そのような含意はございません」
一連の遣り取りが壷に入ったのか、ジャニス殿下が呵呵大笑した。
「貴公は武人であるからな。過ぎた酒精が剣を腐らせるとよく存じているのだろう……だが言ったはずだ。この杯は祝いのものであると」
鋭い眼光は有無を言わせない。私はポーリー嬢からグラスを受け取って掲げると、眼を瞑って一気に中身を煽った。
「良い飲みっぷりだ。盟友になる者はそうでなければ」
「祝杯と申されましたが、こたびの婚約破棄はまだ成ったわけではありません」
正しい認識を促したつもりだが、同じソファに座ったポーリー嬢にしな垂れかかられたジャニス殿下は、余裕の笑みを崩さない。
「しゃしゃり出た銀髪娘がやり込められたのを、貴公も見ていたはずだろう」
「ですがあの場は開かれました。殿下には根拠を添えて改めて婚約破棄を申し立てる義務がございます」
しかるべき手順を踏むことは大切だ。位が高ければ高いほど、行為には慎重さが求められる。
「問題は、エステラの『純潔の行方』か?」
「嫌疑をかけたからには、それが失われたものであると証明せねばなりません」
にぃっとジャニス殿下の口の端が歪む。その肩に頭を預けたポーリー嬢の腰を、大胆にもソファの裏側から手を回して奪った。
「貴公は心配性だな。こちらが証明する必要などないというのに」
「しかし、それだと道理が……」
「証明も道理も、あちらが問題とすべきことだ。私がエステラの不貞を告発したのなら、今も純潔が守られている証拠を提示すればよい」
たしかに、あの場の空気はそうなっていた。アンフェアな流れでこそあったが、ヘレナ嬢も根拠の提示に窮して黙してしまったのだ。
ジャニス殿下とポーリー嬢、密着する両人の顔に、似たような嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「簡単な話だろう? エステラ自らがスカートをたくし上げ、股ぐらを開いて見せればいい。それも、大勢が詰めかけた公衆の面前でな」
「そのような破廉恥行為、淑女のすることでは……!?」
眼を瞠ると、ジャニス殿下がゆるりと首を振った。
「冗談だ。貴公もそのくらいわかれ。私とこの先長い付き合いをしたいと考えるならな」
応答せずに黙していると、酒精が軽やかにしたのか、ジャニス殿下の舌が饒舌に回る。
「無論、そんなことをすれば貴族令嬢としてのエステラは終わる。とはいえ、我ながら悪魔的な発想だと恐れ入るな。あの場で純潔を証明しろなどと」
常識的な方法を取るなら、エステラ嬢の純潔は医師に確認させればいい。しかしあの場で、ジャニス殿下はわざわざそうするようヘレナ嬢を唆していた。
貴人の身に触れることを許された医師は限定されている。名の知れた医師たちは、あの時点で既に買収済みだったのだろう。
「しかし殿下が再び婚約破棄を宣告するまでには時間的猶予があります。どのような手を打ってくるかわからぬではありませんか」
言いながら、悪党の論理だと思う。私自身、もはやエステラ嬢の純潔の有無を問題視していない。ことの争点をそれが証明できるかどうかに絞っている……。
「他の貴族令嬢であればそうかもしれん。だがことエステラに関しては、その心配は無用だ」
「エステラ嬢のみ? 何故ですか?」
素直に疑問を告げると、ジャニス殿下は空いた手で自身のグラスにワインを注ぎ入れながら。
「プリムム公爵家については貴公も存じているだろう。我がハーツ王国内でも指折りの大貴族であるが、他に類を見ない特異性がある」
「それはつまり……聖女の血筋に連なる家系ということでしょうか」
王国勃興の黎明に、並ならぬ功績を残したとされる聖女。歴史上存在の確証がない、半ば伝承上の存在であるものの、その末裔と目されるプリムム公爵家は血族全員が敬虔な女神崇拝者として有名だ。現に、領内にいくつもの聖所を抱えている。
「女神の教えに従って生きる、それが連中の人生の指針だ」
「こたびの件に関わりがあると?」
「あるさ、大いにな……エステラは嘘が吐けない」
嘘が吐けない? まさか? 女神の教えにそのようなことが。
建前を作ることは人間関係を円滑に進めるための処世術のはず……。
「やりようはある。迂遠な表現で煙に巻いたり、意味深な態度で追及を躱したりな。大層な美貌の持ち主であるからして、笑みを浮かべることで茶を濁すことだってできよう。その癖、あやつ自身が主張を納めることはない。周囲をかどわかし、最終的には自分の思う通りにことを進めてしまう。この私でさえ、そのように操ってきたのだ」
最後の発言には積年に及ぶ忌々しさが乗っていた。
しなだれかかっていたポーリー嬢が前側から腕を回し、片足を持ち上げてジャニス殿下の下肢に跨る。
半抱擁の姿勢からジャニス殿下の顔を見つめると、険を孕んでいた殿下の瞳が、ゆっくりと解けてゆくのが見えた。
「お約束してくださいましたよね、私といるときはあの女を褒めたりしないって」
「フ……そうであったな。そなたこそハーツ王国一の美姫だ」
「私のこと、王妃にしてくださいますのでしょう?」
「麗しき薔薇は鑑賞のためにある。そなたは私をよく愉しませてくれている」
痴態と言って良かった。長年の婚約者を持つ身でありながら、他の男に易々と身体を明け渡すその態度。私の無二の友人であるライオット殿を裏切り、あまつさえジャニス殿下に色香を振り撒いて虜にしようとするなどと。
眼を逸らさなかったのは、怒りのためか。それとも己自身に対する嫌悪のためか。腰を奪っていたジャニス殿下の手がドレスを這い上り、指先からうねるように蠢き始める。やがて熟れた林檎のように大きく膨れたポーリー嬢の胸元にまで到達すると、果実を捥ぐようにして一方をきつく握りしめた。
ジャニス殿下の口元に下卑た笑みが浮かび、ポーリー嬢の咽喉からは短い嬌声が漏れる。
「……まったくもって理解に苦しむな。ライオットのやつ、このような見事な実りを眼の前にしながら、触れようともせんかったとは」
「その分、殿下が良くしてくださっていますわ」
眼を逸らすな。これは私自身の、友を裏切った罰だ……。
「剣の腕はすこぶる立つようだが、肝は細かったらしい。聞けばそなたが我が腕の中にあると知って、今も床に伏せっているそうじゃないか」
「我慢できないほど退屈な御方でした。でも今は殿下がおられますから……」
「人生は愉しみのためにある。至言だな」
空いた手で前髪を掻き上げる。黒い艶髪の後れ毛がはらりと落ち、ジャニス殿下に生まれつき備わった美貌と色香を際立たせる。
「近頃、時間が遊ぶときはずっと考えていますの。遠くない未来、私たちが授かる子どもの名前を……」
「それは、さぞかし幸福な時間であろうな」
「ええ、とっても。でも困ったこともございますの。頭に浮かぶ名前はどれも素敵で、かわいらしくて、ひとつに選ぶことができませんの」
ジャニス殿下の手がポーリー嬢の後頭部を引き寄せ、その瞳を覗き込むようにする。
「ならば五でも十でも考えておけ。そなたほどの薔薇との間に生まれる子が、よもやひとりで済むわけがなかろうからな」
「うれしいですわ……殿下……」
眼を瞑り、ゆっくりと顔を近づけてゆくポーリー嬢の唇を、ジャニス殿下の人差し指がやさしく押し返した。シーっと、歯の隙間から息を吹いて沈黙を求めると、切れ長の瞳を流して私に向ける。
「貴公の眼には毒であったかな?」
「いえ、そのようなことは……」
無論のこと猛毒だが、飲み込む覚悟の上だ。それでも白けた視線まで読まれるわけにはいかない。下方に眼を伏せたのとほぼ同時、今さら羞恥したわけでもあるまいに、ポーリー嬢が捲れ上がったスカートを戻して足の露出をこちらから隠す。
「お話の続きをよろしいでしょうか。嘘を吐けないことが、どうしてエステラ嬢にとって致命的な障害になるのかを」
「良かろう」
パン、パンと二度拍手を打つと、部屋の扉が開き、浮浪者のように身汚い男が姿を現した。
「賊か!? 誰の許可を得てこの場に立ち入ってきた!!」
「……落ち着け、味方だ」
味方? しかし、どう贔屓目に見ても堅気の男には見えない……。
咄嗟に引き抜いた剣を構えて警戒するの私の肩に、ゆるりとソファから立ち上がったジャニス殿下の手が置かれる。
「味方という表現が嫌なら、一過性の協力者とでも思えばよい。金で雇われた、使い捨てのな」
「このような怪しい男と取引を行ったのですか!?」
「その通り。貴公と同じようにな」
私と同じ? 私と、この小汚い男が同列の存在だと……!?
ショックで言葉を失っていると、隣に立つジャニス殿下が語り始める。
「さっきも言った通り、宗教的理由からエステラは嘘を吐くことができん。つまり質疑応答の場で虚偽の発言ができぬということだ。これがなにを意味するのか、賢明な貴公ならもうわかっているな?」
頭がくらつき、瞳孔が拡大してゆく心地がした。なんて卑劣な……。
「……まさか」
「そのまさかさ。今のエステラがどのような身持ちであろうと、ひとたび純潔を散らしてしまえばそのように答えるしかなくなる。こいつはその実行者なのだよ」
けひひ、と下品に笑って、眼前の男が蛇のような舌を出す。
愕然とする私の首に、ジャニス殿下が親しげに腕を巻きつけてきた。
耳元でされる悪魔のような囁きが、耳孔を伝って鼓膜を揺らす。
「こやつは針だ。しかし上手く刺すにはコツが必要でな。誰かが背後から布地を固定してやらねばならん。貴公がその役を請け負ってくれるなら、私が玉座に就いたのち、褒賞を取らすと約束しよう。王領地の一部を割譲し、位を三つほど上げてやる。悪い申し出ではないだろう?」
ここで理解すべき事実はひとつ。私には最初から拒否権など与えられていないということ……。
ジャニス殿下の部屋に訪れ、一連の計画を聞かされた時点で、私もまた彼らと同じ運命共同体に組み込まれてしまっているということ。
今もし断りを入れれば、身の破滅など生温い。ジャニス殿下は絶対に容赦しない。最悪、私の命のみならず、郷里ごとハーツ王国の地図上から消え去ることになる。残った土地は、名も知れぬ貴族に捨て値で売り払われることだろう。
……断ることなどできない。
無言で頷くと、ジャニス殿下は満足げに私の背を叩いたのだった。




