前妻の遺した言葉(前編)
私は少し早起きをして、身なりを整えていた。
今日はお客さまがいらっしゃるのだ。普段あまり気にしない身なりも、さすがに少しは気にしておいた方がいいだろう。
(オフィリアさま……どんな方なのかしら)
ウォーレンさまの『古い知り合い』の女性。『嫌なことを言われても気にしないでくれ』とまで言われた相手。
昨夜はあれこれ想像してしまってあまり眠れなかった。
(元恋人が、新しい女の品定めに来る……とか。いやいや、考えすぎですよね)
鏡に映った自分の顔が少しやつれて見えて、慌てて頬をぱしぱしと叩いた。
朝食の席では、ウォーレン少年もどこかそわそわしていた。
いつもより口数が少なく、紅茶を飲む手も落ち着かない様子だった。
「伯爵。おかえりなさいませ」
「あ、やっと帰ってきたわね。遅いわよ」
お客さまがいらっしゃったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
応接間に入ると、二人の男女がすでに待ち構えていた。
男性の方は、精悍な顔つきでいつも眉間にしわを寄せている印象の強い人だった。
ウォーレンさまの側近中の側近であるスティーブさん。呪いのことも知っている数少ない一人だと聞いていたけれど、直接お会いするのは初めてだった。
立派な体格なのだけれど、今は身を屈めて小さなウォーレン少年に頭を下げて出迎えているのがどこかおかしい眺めだった。
(主君がいきなり子どもになったりしたら、気苦労も多かったでしょうね)
今日も眉間にしわを寄せていることに同情してしまう。
お客さんの対応で苦労しているのだろうという感じがにじみ出ていた。
そのお客さんらしい、もう一人の大人の女性は初めて見る人だった。
年齢は四十代くらいに見えるのだけれど、妙に元気なお声で、見た目も黒いベールのついた帽子をかぶっていて、実際の年齢も素顔もよく分からなかった。
ただ、帽子も含めて服装はおしゃれで、金持ちの貴族か商人の奥さんという印象だった。
「ウォーレン君。結婚するかもしれないって本当なの?」
その大人の女性は、気さくに聞いている感じだった。
ウォーレン少年が困った顔をしていた理由が少しわかる気がする。嫌な人というよりは、勢いがすごい人だ。
(ずいぶん、ウォーレンさまと親しげ……それに呪いのことも知っているみたい……)
何者なのだろう。呪いのことを知っているということは、かなり近い関係のはず。
近すぎる二人の距離に、昨夜からの不安がまたざわつく。
「オフィリア。なんで知っているの?」
「ウォーレン君。こういう噂はすぐに回ってくるものなのよ」
呆れたように手を広げてオフィリアと呼ばれた女性は、笑っていた。
私は、伯爵が呼び捨てにするような仲なのだと知ってちょっと動揺してしまう。
(やっぱり、昔の女なのでは……。いえ、伯爵ともなれば、愛人の一人や二人いたっておかしくないですよね……)
自分に言い聞かせるけれど、全然落ち着かない。
「まあ、別に反対なんてしないわ。遅すぎるくらいよ。新しいお嫁さんを迎えること自体はいいことだと思うわ……」
そのまま饒舌に話していたけれど、ふと私の方を向いて目が合うと動きが止まった。
「え? この娘? 若すぎない? 犯罪じゃない? 可愛さだけで選んでない? 世間知らずなお嬢さんに辺境伯夫人が務まるのかしら、大丈夫なの?」
私を見て本気で心配そうな顔になって、何度もウォーレン伯爵に問いただしていた。
またしても失礼な人だなと思いながらも、『おばさん』扱いされた子どもたちとは違って『若すぎる』『可愛いお嬢さん』と気さくな口調で言われるのはそれほど悪い気はしなかった。
「大丈夫だから」
オフィリアさんの早口についていけないようで、ウォーレン少年は不機嫌そうにぼそっと答えるだけになっていた。
「あ、あのオフィリアさんという方は伯爵とはどういったご関係なのでしょうか?」
あまり二人の会話に参加したくなさそうに部屋の隅っこに移動してきたスティーブさんに、私はそっと近寄って小声で聞いてみた。
「あの方は……」
スティーブさんは、私に話していいかしばらく悩んだようだった。
ただ、秘密にしても仕方ないと思ったのかすぐに教えてくれた。
「前の伯爵夫人イーディスさま……その妹君のオフィリアさまでございます」
「前の夫人の……妹さん……」
前の夫人。
ウォーレンさまにはかつて奥さまがいて、亡くなったのだという話は、こちらに来る前に聞いていた。けれど、詳しいことは何も知らなかった。
つまり、愛人でも元恋人でもなかった。
(よかった……)
心の底からほっとしている自分に気がついて、少し恥ずかしくなる。
昨夜あれだけ悶々と想像していた自分が馬鹿みたいだった。そして、それを教えてくれなかったウォーレン少年にちょっとだけ腹が立った。
(最初から前の奥さまの妹さんだと言ってくれればよかったのに……!)
「お嬢さん。パーティをしていればいい都と違って、こんな辺境の土地の伯爵夫人は楽じゃないわよ。やめるなら今のうちよ」
オフィリアさんは、笑いながら私に顔を近づけてきた。
「あ、あの。一応、これでも王立魔法学院を卒業しております」
あくまでも冗談なのはわかっているのだけれど、本当に何もできないと思われると癪だったので控えめにアピールした。
「あら。それはすごいわね」
私の言葉を聞くと、思っていたよりも素直な反応で、両手を合わせて目を輝かせてくれた。
「イーディス姉様と同じね。ウォーレン君の好みなの? それとも夫人にはそういう人材を選んでいるの?」
ちょっと良い人かもしれないと心を開きかけたのに、オフィリアさんはからかうようにウォーレン少年に向き直ってそんなことを聞いていた。
私はしばらくの間、引きつった笑顔でこのオフィリアさんを見てしまう。
「まあ……好みなのかもしれない……」
ウォーレン少年は困ったようにぼそりと答えていた。
「ところでサディアちゃん。姉の部屋を見てみない?」
一通りの挨拶とからかいが落ち着いた頃、オフィリアさんは不意にそう切り出した。
「姉……? 前の夫人さまの?」
「姉もあなたと同じ魔法使いだったの。お屋敷の奥にね、姉の書斎が残してあるのよ。本もたくさんあるから、使ってあげて」
少年姿のウォーレンさまが表情を曇らせたのがわかった。
「えっ、いや、ちょっと待て、そんな勝手に!」
けれどオフィリアさんは構わず、私の手を取って立ち上がった。
「ウォーレン君はスティーブさんとお話があるでしょうから、その間に女同士でね」
有無を言わさぬ勢いに、ウォーレン少年も渋々うなずいた。
案内されたのは、屋敷の二階の奥まった一角だった。
飾り気のない木の扉の前に来た時、はっとした。
(この扉……)
扉の脇に小さな花瓶が置いてある。中には新しい野の花。
以前、ウォーレンさまにお屋敷を案内してもらった時に「そこは今はいい」と制止された、あの扉だった。
オフィリアさんが迷いなく扉を開けると、古い紙とインクの匂いがふわりと漂ってきた。
「わあ……」
思わず声が出た。
部屋の壁一面を覆う本棚には、魔法の研究書がびっしりと並んでいた。都の学院の図書室にも引けを取らないような蔵書だった。
しかも一目見ただけで、かなり高度な──いや、都でも入手が難しいような稀覯本がいくつも混じっている。
「すごい……こんな蔵書が辺境のお屋敷にあるなんて……」
「でしょう? 姉は体が弱くてあまり外には出られなかったから、その分、本をたくさん取り寄せて研究していたのよ」
オフィリアさんは窓のカーテンを開けて、部屋に光を入れた。
埃が舞い上がり、光の中をきらきらと漂う。
その時、机の隅で何かが光を受けてきらりと輝いた。
小さなブローチだった。ノートの間に挟まるようにして置かれていた。
手に取って、息が止まった。
(これは……)
見間違えるはずがない。都の王立魔法学院の紋章──獅子と杖をあしらった意匠。そしてその周囲を縁取る月桂樹の装飾。
この月桂樹の装飾があるブローチは、首席で卒業した者だけに贈られる特別なものだ。
学院の生徒なら誰でも知っている。憧れの象徴。在学中、一度だけ実物を見たことがあるけれど、あの時は歴代の首席卒業者の肖像画の横に飾られていた。
「……都の王立魔法学院の、首席卒業……?」
ブローチに触れながら声が震えていた。
「ええ。姉の自慢の品よ。まあ、姉は自慢なんてしない人だったけれど」
オフィリアさんはさらりと言った。
(首席……。前の奥さまが、あの学院の首席を……)
私も同じ学院の卒業生だ。成績は悪くなかったけれど、同期には天才が何人もいて、首席なんて遥か遠い存在だった。
その首席卒業者が、ウォーレンさまの前の奥さまだった。
ブローチをそっと机の上に戻した。
指先がかすかに震えていた。圧倒的な先人の存在に気圧されたのか、それとも、この人の後に続く自分に何ができるのかという不安なのか。自分でもよくわからなかった。
机の上には、几帳面な筆跡で書かれたノートが何冊か積まれていた。
表紙には『研究日誌』とだけ記されている。
「見てもよろしいですか?」
「もちろん。姉もきっと喜ぶわ。同じ魔法使いに読んでもらえるのなら」
ノートを開くと、丁寧な文字がびっしりと並んでいた。
魔法の理論的な考察、薬草の効能の記録、辺境の気候と魔力の関係についての観察──どれも緻密で、知的な人柄が文字の一つひとつから伝わってくる。
ページをめくっていくと、ある箇所で目が止まった。
『呪いの構造について──カルガンの古代魔術との類似性』
そこにはウォーレンさまの呪いについての考察が記されていた。
呪いの仕組みを分析し、解呪の可能性を探った跡がある。けれど、結論の部分は空白のまま終わっていた。
最後の一行にはこう記されているだけだった。
『力が足りない。もう少し時間があれば──』
胸がきゅっと締まった。
(前の奥さまは……ウォーレンさまの呪いのことも、ちゃんと考えていたんだ)
体が弱い中で、夫のために呪いを解く方法を探し続けていた人。
その研究が、結論に至ることなく途絶えてしまったということ。
「姉は穏やかな人だったけど、あなたは見るからに面白そうね」
黙って私の横顔を見ていたオフィリアさんが、ふいにそう言った。
「ウォーレン君には、あなたの方が合ってるわ」
それが褒め言葉なのかどうかわからなかったけれど、オフィリアさんの声には温かさがあった。
「私には何が書いてあるかさっぱり分からないけれど、あなたが持っていてもらえると嬉しいわ」
「……大切に読ませていただきます」
私はノートをそっと閉じて、そう答えた。
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