満月の夜(後編)
空気が変わったのは、その直後だった。
伯爵は静かに立ち上がると、テーブルを回って私の傍に歩み寄った。
椅子に座ったままの私を見下ろす。その視線に、先ほどまでの穏やかさとは違う熱が宿っていた。
「……失礼してもよろしいですか」
低い声で、確認するように聞いてくれる。
紳士的なのに──いえ、紳士的だからこそ、その声に含まれる情熱が伝わってきて、心臓がうるさいくらいに暴れた。
私は小さくうなずいた。
伯爵の大きな手が、そっと私の頬に触れた。
硬い指先なのに、触れ方はおそろしく優しかった。頬から顎へと指が滑り、私の顔をゆっくりと上に向けさせる。
見上げた先に、月明かりに照らされた伯爵の顔があった。
目元の皺も口ひげも、こんなに近くで見たのは初めてだった。
「見ての通り年はとっていますが……ちゃんと夜の営みはできることを、証明しておこうかと」
「ひゃ、ひゃい」
思わず変な声で返事をしてしまった。
数日前、ウォーレン少年をからかうように聞いたあの言葉が、そのまま自分に返ってきている。
嫌ではない。それは間違いない。けれど、どうすればいいのかわからなくて、ただ固まってしまっていた。
「き、緊張してしまって……」
「大丈夫ですよ。優しくしますから」
伯爵の顔がゆっくりと近づいてくる。
口ひげの柔らかい感触が鼻の下に触れた。
そして、唇が重なった。
「ん……」
くすぐったい。でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ……。
(気持ちいい……?)
自分でも驚いてしまっていた。
男の人に触れられたことなど一度もない。口づけも初めてだった。
都の貴族の令嬢たちが夜会で恋の話を囁き合っている間、私はずっと魔法の研究に没頭していた。だから、こういう時にどうすればいいのか全くわからない。
唇が離れて、ようやく息を継ぐ。
でも伯爵は私を解放してはくれなかった。
立ち上がらせるように手を引かれ、気がつけば伯爵の腕の中にいた。
昔は戦場でも活躍したというだけのことはあって、胸は硬くてたくましい。男の人の体温が、薄い夜着越しに直接伝わってくる。
「わ……」
伯爵の手が、私の背中をゆっくりと撫でた。
大きな掌が腰から背中へとなぞるように動くだけで、全身に鳥肌が立った。
指が髪に絡み、うなじに柔らかい息がかかる。
そのまま首筋に唇を落とされて……。
「ひゃっ」
情けない声が出てしまった。
耳たぶを甘く噛まれた。口ひげが耳の下を撫でるようにくすぐって、その感触が背筋をぞわぞわと駆け上がっていく。
気持ちいいのかくすぐったいのか、もう自分でもわからなくなっていた。
(だ、だめ。頭がぐるぐるする……)
心臓が壊れそうなくらい脈打っている。
呼吸がうまくできない。
体中が熱いのに、指先は冷たく震えている。
伯爵は私を抱きしめたまま、ソファの方へと導いていた。
逆らうつもりはないのに、足が思うように動かない。
ソファに座らされた。
隣に伯爵が腰を下ろし、また唇が重ねられる。今度は少し深い口づけだった。舌がそっと私の唇に触れて、もう何がなんだかわからなくなってしまう。
口ひげのくすぐったい感触。大きな手が頬を包み込む温かさ。耳元で囁かれる低い声。
全部が、全部が初めてで……。
緊張と、知らなかった甘い感覚が、同時に体の中を駆け巡っていた。
唇と口ひげの感触が首筋から胸元へと徐々に下がっていく。
胸元に口づけを落とされた瞬間、頭の奥が白く弾けるような感覚がした。
気持ちいい。怖いくらいに気持ちいい。
そして、その唇がさらに下へ向かおうとした時……。
処理しきれない。体が追いつかない。
(あ……だめ……意識が……)
最後に見えたのは、私の名前を呼ぶ伯爵の心配そうな顔と、窓の外に輝くまんまるの月だった。
鳥の声が聞こえた。
朝日のまぶしさに、ゆっくりと目を開ける。
見慣れない天井だった。
いや、見慣れない、のではない。ぼんやりとした頭で少し考えて、ここが屋根裏部屋のソファの上だと気がついた。
体には大きな毛布がかけられていて、温かかった。
(あれ……? 私、どうして……)
記憶がはっきりしない。頭がまだぼうっとしている。
体を動かそうとして、何か温かいものが体に触れていることに気がついた。
……重い。
何か──いえ、誰かが、私の体に寄り添うようにして眠っている。
ゆっくりと視線を下ろした。
毛布の隙間から、白い肩が見えた。
華奢で、滑らかで、朝日に照らされて瑞々しく光っている。上半身が裸の、美しい少年が、私の腕の中で眠っていた。
一瞬、思考が完全に停止した。
(…………え?)
もう一度、目を凝らす。
整った顔立ち。長い睫毛。薄い唇が微かに開いて、規則正しい寝息を立てている。
見たところ十二、三歳くらいの、綺麗な男の子だった。
裸の。
私と同じ毛布の中にいる。
(…………)
血の気が一気に引いた。
(な、な、な……何これ。なんで。裸の男の子が。私と。一緒に。寝て……)
頭の中で赤い警報がけたたましく鳴り響いている。
心臓がどくんどくんと暴れ出して、冷や汗が背中を伝う。
(ま、まさか私……お酒に酔って……何か……とんでもないことを……!?)
魔法学院で、酔った勢いで道を踏み外した先輩の話を聞いたことがある。
あの時は『そんな馬鹿なことがあるものか』と笑っていたのに……。
(こ、これは犯罪では!? いえ、私が何かしたとは限らない。でも状況が……状況が完全に……!)
パニックに陥りながらも、辛うじて残った理性が『まず状況を確認しろ』と訴えていた。
震える手で、そっと毛布をめくってみる。
少年の体は、よく見ると完全に裸というわけではなかった。大人の男性用の大きなシャツを着ているのだけれど、あまりにもぶかぶかで、襟元がずり落ちて片方の肩と鎖骨がまるごと露出してしまっている。
肌は傷ひとつなく、朝日に照らされると芸術品のようだった。
(って、見とれている場合じゃない!)
自分を叱りつけながら、もう一度少年の顔をまじまじと見つめた。
……あれ。
この顔。
見覚えが、ある。
整った目元。きりっとした眉。まだ幼さの残る輪郭。
「ウォーレン……さま?」
そうだ。この少年は、ウォーレン・フォシアだ。
(そうだった。昨夜、ウォーレンさまが来て……満月の夜だから大人の姿に戻って……)
記憶がゆっくりと蘇ってくる。
大人の姿のウォーレンさまが部屋を訪ねてきて。
屋根裏部屋に案内されて。
果実酒を飲んで。
(そこまでは、覚えている)
その先……。
口づけ。
大きな手が頬を包んで。
首筋に口ひげが触れて。
耳たぶを甘く噛まれて。
そして唇が胸元へと下がっていって……。さらにその下へいこうとして……。
「〜〜っっっ!!」
今度こそ本物の悲鳴が出た。
さっきの『犯罪かも』という焦りが吹き飛ぶくらいの恥ずかしさが、全身を駆け巡った。
(わ、私、あそこで気を失ったんだ! あんな……あんなところで……!)
口づけだけでも精一杯だったのに、耳を噛まれて、胸元にまで唇が降りてきて、その先へいこうとした瞬間に、甘さと緊張に体が耐えきれなくなって、意識を手放してしまったのだ。
(緊張のあまり? 気持ちよすぎて? どっちも? ああああもう! 伯爵はどう思ったの!?)
毛布を頭からかぶって、その中でじたばたした。
その振動で、隣の小さな体が動いた。
「……ん……サディア、さん……?」
眠たそうな、少し高い声。
毛布の中から恐る恐る顔を出すと、すぐ隣で、本当にすぐ隣で、ウォーレン少年が目をこすりながら起き上がろうとしていた。
ぶかぶかのシャツがずり落ちて、華奢な肩がもろに見えている。寝起きの顔は無防備で、まだ半分夢の中にいるようなぼんやりした表情だった。
(近い。近い近い近い)
彼我の距離はほとんどなかった。同じ毛布の中にいるのだから当然だ。
「お、おは、おはようございます……」
声が裏返った。
「あ、大丈夫そうだね。よかったぁ」
ウォーレン少年はまだ寝ぼけた目をしていたけれど、私の顔を見た瞬間、嬉しそうな声をあげた。そして、自分が今どういう状況にあるかを理解した瞬間、一気に目が覚めたらしかった。
「うわっ」
小さな声を上げて、がばっと体を起こした。
同時にずり落ちていたシャツを慌てて肩にかけ直しているけれど、大人用のシャツは何度引っ張っても反対側がずり落ちてしまって、あたふたしている。
「な、なんで僕……ここで……」
「そ、それは私が聞きたいのですけれど……」
お互いに顔を真っ赤にしたまま、しばらく見つめ合ってしまった。
(……あ、そうか)
呪いが戻って少年の姿になったあと、わざわざ移動せずに、あるいは移動できずに、そのまま一緒に寝てしまったのだろう。
気を失った私を置いていくわけにもいかなかったのかもしれない。
「あ、あの……昨夜のこと……覚えていらっしゃいますか?」
勇気を振り絞って聞いてみた。
ウォーレン少年の耳が、目に見えて赤くなっていく。耳だけではない。首まで赤い。
「……覚えて、いる」
消え入りそうな声だった。
大人の時に何があったか、記憶はあるのだ。
あの余裕のある紳士が、今は耳まで真っ赤にした少年の姿で、昨夜自分がしたことを思い出している。
「す、すまなかった。急にあんな……まだ、早かったよな」
ウォーレン少年は、小さな手で自分の頬を押さえながら、私から目を逸らして言った。
「早くなんてありません! 私がただ、その……不慣れだったので……」
『気持ちよくて気を失いました』なんて口が裂けても言えない。
「ふ、不慣れ……」
ウォーレン少年はその言葉を噛みしめるように繰り返した。
それからしばらく黙って、ぼそりと言った。
「……次は、もう少し、ゆっくりする」
何のことだかわかってしまって、私は毛布に顔を埋めた。
(この人は、昨夜は大人の紳士で、今朝は赤面した美少年で……こんなの、ずるくないですか?)
毛布の中で、体は恥ずかしさでいっぱいのはずなのに、唇はなぜか笑みを浮かべてしまっていた。
「あ、あの」
毛布からもう一度顔を出す。
「はい」
「一晩中、一緒にいてくださったんですね」
ウォーレン少年は、また目を逸した。
「べ、別に。呪いが戻って小さくなったら、サディアさんを部屋まで運べなくなるから……。それに気を失っている人を置いていくわけにはいかないだろう」
もっともらしい理屈だけれど、耳が真っ赤なのが全部台無しにしていた。
「ありがとうございます。……嬉しかったです」
私がそう言うと、ウォーレン少年はうつむいて、もう何も言わずにソファから降りた。
ぶかぶかのシャツの裾が膝下まで垂れていて、袖もぱたぱたと余っている。
大人の伯爵が着ていたはずのシャツを着た少年の姿が、昨夜の出来事と今朝の現実を繋ぐ何よりの証拠だった。
「あ、着替えて支度してくるから、また朝食で」
それだけ言って、シャツの袖をぱたぱたさせながら、足早に部屋を出ていってしまった。
残された私は、しばらくソファの上でぼうっとしていた。
頬に触れた指の感触。
唇に残る口ひげのくすぐったさ。
胸元に落とされた口づけの熱。
(口ひげとはあのように気持ちのよいものなのですね……)
思い出しながら、変な感想を持ってしまう。
でも、幼い頃に父のヒゲで頬をすりすりされた時は痛いだけだった記憶がある。
そう考えると、ウォーレンさまの口ひげだからこそ気持ちよかったのだろう。
(あの場面で気を失うなんて……なかなか恥ずかしいことだけれど……)
でも。
そして、今朝はそれを思い出して赤くなる少年の姿を見れた。
(楽しいですね。ふふ)
窓から差し込む朝日が、やけにまぶしいと思いながら、笑った。
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