満月の夜(前編)
翌朝。
アビーさんに呼ばれるままに、食堂に向かうと、ウォーレン少年はすでに席についていた。
大きな椅子に座った小さな体。足はぎりぎり床に届いていて、テーブルの上に並べられた朝食に手を伸ばしている姿が微笑ましかった。
「おはようございます、ウォーレンさま」
「お、おはよう。……よく眠れましたか?」
椅子から少し身を乗り出すようにして、まっすぐこちらを見てくる。初対面の昨日はあんなに照れていたのに、朝になったら少し落ち着いたらしい。それでも視線が私の顔と皿の間を忙しなく行き来しているあたり、やっぱり緊張はしているのだと思う。
「ええ。空気が澄んでいるおかげか、ぐっすり眠れました」
そう答えると、ウォーレン少年はほっとしたように小さく息を吐いた。
こういう仕草が年相応の少年に見える。……中身は大人のはずなのだけれど。
テーブルに並べられた朝食は、焼きたてのパンに蜂蜜のポット、香草を添えて焼いた卵と干し肉。昨晩のスープとはまた違った、素朴だけれど丁寧な朝の食卓だった。
「今朝のお食事も美味しいです」
「ありがとうございます」
かなり年配のメイドのアビーさんが、私の声を聞き逃さずに嬉しそうな顔と声でお礼を言ってきた。
「旅の疲れなんて、もうどこかにいってしまいました」
「それはよかった」
ウォーレン少年もすでに干し肉を食べ終えて、満足そうな笑みを浮かべている。
「早く跡継ぎを作っていただきませんとね」
アビーさんの突然の一言に、ウォーレンさまは飲みかけた紅茶を吹き出しそうになっていた。
私も思わず顔が赤くなって、ウォーレン少年の顔を見れなくなってしまう。
「ま、まだ。そんな、食事の時にそんな話をしなくてもいいだろう」
「ですが、ご両親も弟君もお亡くなりになり今や天涯孤独の身なのですから、跡継ぎを早く決めていただきませんと家臣も領民も心配しています」
アビーさんのお説教に、ウォーレン少年は一瞬こちらを見たのだけれど、私と目が合うとすぐに目を逸した。
「照れていらっしゃいます?」
意外だったので、つい声に出してしまった。
「べ、別に照れてなんていない」
ウォーレン少年は目を閉じて腕を組みながらそう言った。
いや、めっちゃ照れてる。
可愛い。
また思わず口にしてしまいそうだったけれど、なんとか抑え込んだ。
「そうなのですよ。この体になってから、妙に女性に対して奥手になってしまって困っていたのです」
アビーさんが教育係のように心配していた。
「大人だった時の記憶はあるのですよね?」
私は素朴な疑問としてそう聞いた。
「ある。一応ある。頭は大人だから女性の扱いも慣れている」
本当に大人の男性はそんなことは言わないだろうということを、まだ腕を組んで目を逸しながら言っていた。
「その……。伯爵さまはその体で夜の営みはできるのでしょうか?」
「ぶはっ。若いお嬢さんが、な、何を聞いているんだ?」
私の質問に、さっきよりも更に顔どころか耳や首まで真っ赤になりながらウォーレン少年は反応していた。
説教っぽい言葉遣いはおじさんっぽいけれど、反応がとにかく可愛らしいのでずっとからかってみたくなる。
「本当にお嫁にくるのでしたら、大事なことですし……」
高齢の伯爵に嫁ぐことを心配していたのに、今は若すぎて別の心配をしているという不思議な立場になっていた。
何故か純情な男の子みたいな可愛らしい反応が楽しい。
あれだ。魔法で変身するとその体に心の方が引っ張られてしまうというやつなのだろう。
隣でアビーさんは応援してくれているように笑顔だった。『もっと突っ込んで聞いてやってください』と言いたげだった。
「ぜ、全然、できる」
さっきよりも少しだけ落ち着きを取り戻そうとしながら、強がっていた。
うん、強がっている姿がなおさら可愛い。
「不安ですねえ」
アビーさんが頬に手を当てながら私の方を見て心配そうに言うので、私も引きつった笑みを浮かべながらうなずいていた。
「本当に、できるから! ……ただ、まあ、まだ小さいので満足はさせられないかもしれないが……」
話の後半は消え入りそうな声で話していた。
「まあ、満月の夜を待つといい!」
ウォーレン少年は何か思いついたように、急に私の方をまっすぐ向くと力強くそう言った。
「満月の夜?」
私は首を傾げながら聞いてみたけれど、それ以上はその件については教えてくれなかった。
昨日の夜に見た月を思い出す。
満月まではあと数日だろうか。
それから数日の間、私はウォーレン伯爵のお屋敷で過ごした。
ウォーレンさまは多忙だったけれど、『朝食は必ず一緒に食べよう』と言ってくれた。
だから毎朝、アビーさんも含めて三人で食事をするのが日課になった。
昼間はなかなか一緒に過ごすことはできなかったけれど、ある日、珍しく公務の合間に時間ができたとかで、ウォーレンさまがお屋敷の中を案内してくれた。
「ここが書斎です。魔法に関する本もたくさんあります」
少年の姿でてくてくと先を歩きながら、各部屋を紹介してくれる。
書斎には天井まで届く本棚があり、魔法に関する書物だけでなく、歴史書や地図、異民族の文化を記した書物まで並んでいた。
「すごい蔵書量ですね……」
「長い年月をかけて集めたものだからね。君も自由に読んでいいよ」
実験室の方にはさまざまな魔法の道具や薬品が並んでいて、私の研究心をくすぐった。ウォーレンさまも魔法に詳しいこともあって、道具について質問するたびに的確な解説をしてくれる。
魔法談義になると、ウォーレンさまは年相応──いえ、本来の年齢相応の知識と経験を見せてくれた。実戦での魔法の使い方、辺境ならではの魔法の応用。都の学校では教えてもらえなかった実践的な知識ばかりで、私は夢中になって話を聞いていた。
書斎と実験室を堪能して廊下に戻ると、少し先に一つだけ雰囲気の違う扉があった。
他の部屋の扉とは違って、飾り気のない木の扉の前に小さな花瓶が置かれている。中には野の花が生けてあった。
「あちらのお部屋は……?」
好奇心のままに近づこうとした私の手を、ウォーレン少年がそっと引き止めた。
「……そこは、今はいい」
短く、しかしはっきりとした制止だった。
振り返ると、ウォーレン少年は少しだけ表情を曇らせていた。怒っているのとは違う。何か、触れたくないものがそこにあるような、そんな顔だった。
「すみません」
「いや、いいんだ。……いつか、ちゃんと話すから」
ウォーレンさまは小さくそう言って、また先を歩き始めた。
私はちらりと振り返って、閉じられたままの扉を一瞬だけ見た。扉の前の花瓶の花は、きちんと手入れされて新しいものだった。誰かが今も定期的に替えているということだ。
今はまだ踏み込まない方がいいのだろうと思い、私はウォーレンさまの後を追った。
「私は、この土地に合っている気がします」
ある日の夕食後、アビーさんの入れてくれた紅茶を飲みながら、思わず笑顔になっていた。
「それは、よかったです。今日は坊ちゃまがお忙しいのは残念ですが……」
アビーさんも私が馴染んでくれたことを嬉しそうにしてくれていた。
結論から言うと、私はもうこの地方での生活に大満足だった。
空気も美味しく、料理も美味しい。
人々は素朴で、少し直情的なところはあるけれど、変な妬み嫉みも謎のしきたりもない。
(都で、下級貴族が魔法で身を立てるのは大変なのよね)
つい、都でのままならない日々を思い出していた。
ここで正式に妻となったらもっと忙しくはなるだろうけれど、それでも魔法の研究ができる時間はあるし、お役に立てる場所も多い気がしていた。
「ただ。ウォーレンさまは忙しそう」
公の場には出ていないにもかかわらず、ウォーレン伯爵はいつも多忙だった。
昼間はなかなか一緒に過ごせないし、夜も結局この数日、一人寂しく寝ていた。
「もっと魔法の話もしてみたいのだけれど……」
すっかりあの可愛らしい少年と意気投合して、いろいろな話をするのが楽しみになっている自分がいることに気がついてしまった。
「そういえば、今夜は満月ね」
寝る支度を終えて窓から外を見ると、空にはきれいにまんまるな月が浮かんでいた。
数日前に『満月の夜を待て』と言われたことを思い出す。
あの時は何のことかわからなかったけれど……。
コンコン。
ドアを軽くノックする音がした。
私は大慌てでドアへと走っていた。
でも、ドアを開ける前に軽く深呼吸した。
(お、落ち着こう……。これだと、まるでとても寂しくて訪ねてきてくれるのを楽しみにしていたみたいじゃない)
その通りで明らかに胸を躍らせているのだけれど、自分ではまだどこかウォーレン少年に対して余裕のあるお姉さんでいたいらしく、完全には認めたくなかった。
「ウォーレンさま。ようこそいらっしゃい……ませ」
確認もそこそこにドアを開けてしまった。
この町があまりにも平和なので油断していたけれど、少し軽率だったなと思う。
……けれど。
ドアの向こうに立っていたのは、想像していた可愛らしい少年の姿ではなかった。
背の高い男性が、月明かりを背にして立っていた。
白髪交じりの髪、彫りの深い精悍な顔、そしてきれいに整えられた口ひげ。
到着した日に見た壮年の紳士──いえ、あの時は幻覚だった。
でも今、目の前にいるこの人は……。
「驚かせてすまない。……私です」
低く落ち着いた声だった。
少年の時の面影が確かにある。目元が同じで、笑い方も似ている。けれど、声も視線も体格も、何もかもが違っていた。
「ウォーレン……さま?」
「ええ。満月の夜は魔力が増すので、呪いを一時的に解除することができるのです」
なるほど。だから『満月の夜を待て』と。
確かに昔のおとぎ話でもよく聞く話だった。満月の夜は魔力が増幅される。ウォーレン伯爵本人が魔法を使えることもあるからこその現象なんだという気がしたけれど、呪い自体も時間が経って劣化してきているのかもしれない。
けれど、そんな理屈よりも。
(う、うわ。全然違うから緊張する……)
可愛らしい少年がいきなり立派な大人の男性になっている。
下の方を向いていた私の視線は、急に見上げないといけなくなっていた。目がまわりそうだった。
「……夜這いにまいりました」
いい声だ。
渋くていい声でそんなことを囁かれてしまい、一瞬くらっとした。
「よ、夜這い、ですか」
都ではあまり馴染みのない風習だった。どう返事するのが正解なのかわからない。
頭では大人の伯爵だとわかっているのに、つい数時間前まで一緒に食事をしていた可愛い少年がこんな姿になって目の前にいるという現実が、うまく処理できない。
「嫌でしたら、今夜は引き下がります」
伯爵はそう言って、一歩引いた。
その紳士的な態度に、少年の時の丁寧さと同じものを感じた。
ああ、同じ人なんだと改めて思う。
「い、嫌ではありません。ただ、驚いてしまって……」
「ふふ。驚くのも無理はないか」
伯爵は口ひげを動かしながら、余裕のある笑みを浮かべた。
少年姿の時にはない、大人ならではの落ち着きと色気が滲んでいて、私の心臓は情けないほどに早く脈打っていた。
「少し付き合ってもらってもいいかな」
「は、はい」
伯爵は片手にランタンを持ち、もう片方の手を私に差し出した。
その手を握ると、少年の時とは全く違う、大きくて、硬くて、温かい手だった。
(大人の男の人の手を、こんなふうに握ったことなんて初めてかも)
少し緊張しながら伯爵に手を引かれて、お屋敷の奥の方へと進んでいく。
昼間のお屋敷案内では行かなかった場所だった。廊下に灯りはなく、月明かりだけが窓から差し込んでいる。
「ここは階段があるから気をつけて」
行き当たりには狭い階段があり、ぐるぐると回りながら上っていった。
(そういえば、外から見た時に屋根にちょっと高く突き出した場所がありましたね)
昼間に外から見たお屋敷の屋根を思い出していた。
「ここは……屋根裏部屋みたいな場所でしょうか」
周囲を見回すと、窓際に小さな机と椅子が置いてあり、奥にはソファーとともにいくつかの棚が窮屈そうに並んでいた。
手前の棚には主に食器が並べられ、奥の棚には魔法関連らしい道具と本があり興味をそそられたけれど、今は見なかったことにしておく。
ウォーレン伯爵が窓際の机の上にランタンを置いて、カーテンを開けた。
その瞬間、息を呑むような景色が広がった。
「わあ……」
月に照らされた湖が淡く光って揺れている。
そして町の灯りが各所で優しく光っていて、月明かりを邪魔しないくらいの明るさで周囲を彩っていた。
都のように夜でも賑やかに輝いているわけではないけれど、だからこそ月と星が美しく見える。
「私の趣味で、屋根の上に作った部屋なんだ」
「素敵です……」
伯爵は微笑んで、棚からグラスと果実酒を取り出した。
グラスはセットになっているものから一つと、それとは別のグラスを一つ。不揃いだけれど、それぞれに味わいがあった。
「果実酒ですが、飲めますか?」
「ええ、全然大丈夫です」
お酒は好きだった。ただ都ではパーティにも出なかったし、一人で飲んでいたら父に説教されてしまうのであまり飲む機会がなかった。
久しぶりに飲めそうなので、わくわくしながらグラスに注がれていく琥珀色の液体を見ていた。
「どうぞ座って」
伯爵は小さなテーブルを窓際に寄せると、椅子を引いてくれた。
椅子を引かれて座った経験がほとんどないので、どのタイミングで座ったらいいのかわからずに言われるままに腰をおろした。
「私たちの未来に」
不揃いなグラスが当たり、いい音がした。
灯りも少ない小さな屋根上の部屋だけれど、この窓際の席は素敵な特等席だと思った。
果実酒は甘くて口当たりが良かった。でも、アルコールのせいなのか目の前の伯爵のせいなのか、体がぽかぽかと温かくなっていく。
「私なんかで本当によろしいのですか?」
今更だけれど、また確認したくなってしまった。
「どうして? 私からすれば、こんなに若くて綺麗で、魔法使いとしても優秀なお嬢さんに来てもらえるなんて嬉しいことなのだけれど」
若いも綺麗も、都ではもう言われなくなった。魔法使いとしてもそれなりに頑張って優秀だったつもりだけれど、都の学校では同期に天才が数人いたので王室付きの魔法使いにもなれなかった。それだけに大して自慢できることでもないと最近は思っていた。
でも、伯爵に褒められるとそうかもとついその気になってしまう。
「さっきは、急に大人のお姿で来られたから驚いてしまいましたけれど……嬉しかったです。本当の伯爵さまを見せてくださって」
果実酒に後押しされて、少し大胆なことを言ってしまった気がする。
伯爵はくすりと笑った。
「呪いをかけられてからの十年間……一番辛かったのはね」
伯爵は果実酒を口に含んでから、静かに語り始めた。
「人前に出られないことではなく、信じられる人が減っていくことだった」
私はグラスを握る手を止めた。
十年という時間は長い。
その間にどれだけの人が離れていったのだろう。
秘密を知るのはアビーさんやわずかな側近だけ。
領主として責務を果たしながら、誰にも本当の姿を見せられない孤独。
「サディアさん」
いつの間にか、伯爵の声が近くなっていた。
「あなたが来てくれて、本当に助かった」
月明かりの中で、伯爵の目は柔らかかった。
厳しそうな目元の皺が、今は優しさだけを湛えている。
「私は……あなたのことを、信じられる人だと感じています」
気がつけば、そう口にしていた。
伯爵の目がわずかに見開かれた。
不意を突かれたような表情が一瞬だけ浮かび、そして、深く、静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
そのたった一言が、この静かな屋根裏部屋に溶けていくようだった。
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