同級生(三)
「サディアさま! ご無事ですか!」
茫然とヴィクトルの去る背中を見送っていると、ガルシアさんが慌てて私のもとへ駆け寄ってきた。
きっとウォーレンさまのご指示で私をこっそり護衛してくれていたのだろう。しかし、何か見えない壁に阻まれて近付けなかったのかもしれない。
「ガルシアさん、ウォーレン様に伝えてください。王城が、王家が危険です」
叫びながら、私はもう走り出していた。
追わなければ。あのままでは、王家が危ない。
でも、駆け出してすぐ、足が止まった。
(……どうやって、追いつくの)
ヴィクトルは、空を飛んでいった。
私が地を駆けたところで、追いつけるわけがない。
飛行の魔法も、使えないわけではない。けれど、私の飛行魔法で空を舞ったところで、飛ぶのが精一杯だ。あの天才を止められるとは、到底思えなかった。
(……仕方ない。あまり、やりたくはなかったけれど)
私は、愛用の杖に力を込める。腕輪も強く反応してくれた。
自分自身に、変化の魔法をかける。
背中が、熱い。
肩甲骨のあたりから、めきめきと何かがせり上がってくる感覚。
外套を突き破って、大きな翼が広がった。
白い、鳥の翼。
自分の体を変えるのは、本当は気が進まない。
外見に引っ張られる副作用がある以上、長く使えば危険も伴う。
でも今は、そんなことを言っている場合ではなかった。
翼を、力いっぱい羽ばたかせる。
体がふわりと浮き、そして一気に、空へと舞い上がった。
「お、お嬢様……!?」
ぽかんと見上げるガルシアさんの声が、すぐに遠ざかっていく。
眼下に、王都が広がった。
崩れた外壁。傷ついた街。その中心にそびえる、王城。
ヴィクトルの背中は、もうその尖塔の近くまで迫っていた。
私は、急いで空を駆ける。この翼だけで飛べるわけではないけれど、かなり魔力は節約できる。
風を切る。空気が頬を叩く。慣れない飛行に体が悲鳴を上げるけれど、構ってなどいられない。
(間に合って!)
王城の正門が見えた。
ちょうど、馬車の一団が城門をくぐろうとしている。王家の紋章をあしらった馬車が、つまり王家の方々が、城内へ入ろうとしているのだ。
そして、その馬車の上空に。
ヴィクトルが、すでに浮かんでいた。
(遅かった!?)
ヴィクトルの手のひらから、淡い光の粒が零れ落ちた。
ただ、彼の手から放たれたのは泡のような、透き通った球体。
得意とする派手な攻撃魔法ではない。けれど、その泡が馬車の護衛結界に触れた瞬間、結界が、紙のように破けた。
(結界を、あんなに簡単に……!)
王宮魔道士が張った護衛結界だ。それを、まるで何もなかったかのように。
あれが、首席の攻撃魔法。正面突破ではなく、結界魔法の綻びを突いて内側から崩す。力任せに見えて、恐ろしく精密な技だった。
次々と生まれる泡が、馬車の中の人々を包み込もうと降り注ぐ。
捕獲のための魔法だ。殺す気はない……けれど、あのまま包まれたら、王家の方々は身動きが取れなくなる。
(陛下の命を狙っているわけではない。王子さまか、王女さまを攫おうとしている……? それなら、どこ?)
ヴィクトルの狙いを読んで、下の馬車の位置を確認する。
翼を畳み、一気に急降下する。
王子が乗っている馬車と泡の間に割り込むように着地して、杖を介して腕輪に魔力を流し込んだ。
咄嗟の簡易結界。透明な壁が、降り注ぐ泡を弾く。
ぱちん、ぱちん、と泡が弾けて散る。間に合った。
「ヴィクトル!」
空を見上げて叫ぶ。
ヴィクトルは、少し驚いたように目を見開いた。けれど、すぐにその表情が、あの爛々とした好奇に変わる。
「……追いついてきたのか。その翼、自分に変化の魔法を? やはり、君は面白い」
馬車の中から、ざわめきが聞こえた。
扉が開き、護衛の騎士たちが剣を抜いて飛び出してくる。その奥に、王家の方々の顔が見えた。
「な、何事だ!」
「敵襲か!?」
騎士たちが状況を把握しようと周囲を見回している。
「皆様、早くお逃げください! 城の奥へ!」
私は背中で王家を庇いながら叫んだ。
「翼の……天使、のような……」
ぽつりと、誰かが呟いた。
馬車の窓から身を乗り出している、若い男性。エドワード王子殿下だった。
危機的な状況だというのに、その目は、私を見つめたまま動かない。
(い、今はそんな場合では……!)
「殿下、お早く!」
騎士たちが王子の腕を引いてヴィクトルから遠ざけて守ろうとしている。
陛下の馬車が城門の内側へ駆け込んでいくのを確認して、私はヴィクトルに向き直った。
「……やれやれ。せっかく穏便に済ませようとしたのに」
「全然、穏便じゃないのよ」
ヴィクトルが、ゆっくりと降下してくる。
城門前の石畳に、音もなく着地した。
「邪魔をするなら、いくら君でも、排除するしかなくなる」
その手に、今度は炎が集まった。
さっきの泡とは、まるで違う。膨れ上がる魔力の圧に、空気が震える。本気の……けれど、殺す気ではない、容赦なく制圧するための魔法。
(私程度の結界では、到底……)
分かっている。分かっていて、それでも。
まだエドワード殿下たちは近くにいる。私だけがさっさと空を飛んで逃げるわけにはいかなかった。
腕輪を構え、結界を張り直す。何重にも、何重にも。少しでも長く保つように。
「……っ!」
ヴィクトルの炎が、放たれた。
結界に着弾した瞬間、衝撃が体中を貫いた。一枚目が砕け、二枚目がひび割れ、三枚目に亀裂が走る。
(もう、無理……)
四枚目が、割れた。
目を、つむりかけた。
その瞬間。
鋭い音とともに、一条の氷がヴィクトルの炎を真正面から貫いた。
炎と氷がぶつかり合い、白い蒸気が爆ぜるように広がる。
「!」
優雅に地上に降りようとしていたヴィクトルも、とっさに空中で止まる。
蒸気の向こう。
城門へ向かう架け橋の上に、小さな影が、立っていた。
少年の姿の、ウォーレンさまだった。
(ウォーレンさま……!)
感激のあまり名前を叫ぼうとしてしまって、はっと、口を押さえた。
王家の方々は、まだすぐ城門の内側にいる。ここでウォーレンさまの名前を呼んだら、辺境伯が子どもの姿だということが周囲にばれてしまう。
「ウォーレ……ウォレ君!」
咄嗟に、口から出たのはそんな名前だった。
(ウォレ君って何……!? 私は何を言って……!?)
内心で頭を抱えたけれど、もう遅い。
ウォーレンさまが、一瞬だけこちらを見た。その目が『……は?』と言っていた気がしたけれど、今はそれどころではない。
少年の姿のまま、ウォーレンさまは、ウォレ君は、私の元に走ってきてくれた。
大人の姿を取り繕う幻覚すら使っていない、ありのままの姿。きっと、ヴィクトルの魔力にいち早く気づいて、人混みを離れたところで変化が解けるのも構わず、体裁を整える余裕すら惜しんで、駆けつけてくれたのだ。
「大丈夫か、サディア」
「は、はい。大丈夫です」
ウォーレン様と並んで杖を構え、まっすぐにヴィクトルと対峙する。
「……子ども?」
まだ少し浮いているヴィクトルが、私たちを見下ろしながら訝しげに眉をひそめた。
けれど、すぐにその目の色が変わる。
「いや、違うな。その魔力の密度、ただの子どもじゃない」
ウォレ君は、答えなかった。
代わりに、手を伸ばすと氷の魔法を放つ。
それは、私が今まで見たことのないほど精緻な氷の魔法だった。
幾何学的な結晶が空中に展開し、ヴィクトルの周囲を取り囲むように走る。攻撃ではない。逃げ道を塞ぎ、動きを封じるための、檻。
ヴィクトルが、その氷を炎で砕く。だが、砕いた端から新しい結晶が生成される。少年の姿でも、ウォーレンさまの魔法は鋭かった。防戦一方だった私とは違う。互角に、いや、それ以上に、ヴィクトルを抑え込んでいる。
私のような杖や腕輪がなくてもこの強さだ。
「……面白い」
ヴィクトルの目が、かっと見開かれた。
あの、爛々とした光。純粋な好奇心に火がついた時の、魔法を研究している時の目だ。
「面白いな、君! この魔力構成、この制御精度、子どもの体でこれか!」
ヴィクトルの声が、はじめて興奮に弾んだ。
ウォレ君が歯を食いしばって氷の檻を維持しているのが分かる。小さな体に、相当な負荷がかかっているはずだ。
「ヴィクトル、降参して!」
私は叫んだ。
ウォレ君と私、二人がかり。そして、城からは陛下を送り届けた王宮魔道士たちの気配が近づいてきている。形勢は、明らかにこちらに傾いていた。
その時、城から先行して年嵩の王宮魔道士が数人、駆けつけてきた。
先頭の一人が、ヴィクトルの姿を認めた途端、顔を真っ赤にした。
「ヴィクトル・ゲレロ……! よくもぬけぬけと……!」
怒声とともに、強力な火の玉の魔法が放たれる。
かなりの威力だった。ベテランの王宮魔道士が本気で放った、渾身の一撃。
若い魔法使いたちが大勢ヴィクトルを慕い去ってしまった。その悔しさと憤りが込められたかのように見える火の玉が、唸りを上げて放たれた。燃え盛る炎の塊は空気を震わせ、轟音とともにヴィクトルめがけて炸裂する。その熱と衝撃は、地上の私の場所にも熱風となって伝わってくるほどだった。
だが、ヴィクトルは、無傷だった。
彼の周囲に、薄い光の膜が展開していた。
結界。それも、古参の魔法使いの全力の攻撃をまるで感じていないかのように受け流す、とんでもなく強固な結界だ。
ヴィクトルは何もしていない。
私は、こんな結界を貼れる人物に心当たりがあった。
ヴィクトルの後ろにじっと視線を向ける。
「レナーテ!」
私は叫んだ。
ヴィクトルの背後に、黒髪をきっちりと結い上げ、片眼鏡をかけた女性がいつの間にか立っていた。
レナーテ・ミュラー。『当たり年』の天才の一人。
彼女が、静かに手をかざしている。あのベテランの全力の魔法を、息ひとつ乱さずに防いでいた。
そうだった。彼女の防御魔法はとにかく固い。
「レナーテ……!」
もう一度、名前を呼んだ。
レナーテが、こちらを見た。
「……サディア?」
驚いたように、目を瞬かせる。
片眼鏡の奥の瞳に、一瞬だけ、懐かしさと後ろめたさが入り混じった色が浮かんだ。
けれど、それだけだった。何も言わず、視線を逸らして、ヴィクトルの背後に控えたまま。
(レナーテ……)
「サディアちゃん」
レナーテからの返事はなかった。
代わりに軽い声が、どこからともなく聞こえた。
ふわり、と。
つむじ風のように、亜麻色のくせ毛の青年がヴィクトルとこちらの間の空中に現れた。
眠そうな垂れ目。穏やかな笑み。線は細いのに、そこにいるだけで空間の支配権が入れ替わったような、不思議な存在感。
フェリクス・ヴァルト。元同級生。当たり年の天才の一人だ。
「僕たち、べ、別に反乱をしたいわけじゃないんだ。ヴィクトルもね。ねっ?」
フェリクスは、ヴィクトルの肩をぽんと叩きながら、困ったように笑った。
なぜか、私に許しを得たいかのように説明してくる。
「もういいだろう。フェリクス」
「いやだって、本当のことだし。僕は自由に魔法を研究したいだけで、人を傷つけたいなんて一度も……」
「そうだったが、もうまどろっこしいことはやめて私たちの力を見せた方がいいだろう」
「えええ、ちょ、ちょっと待ってヴィクトル。穏便に行こうよ。ねえ、サディアちゃんもそう思うよね」
フェリクスは、こんな状況だというのに昔と変わらず軽い調子で私に呼びかけてくる。
ヴィクトルもだけれど、私とウォレ君も呆気にとられたかのように緊迫した空気がなくなって、杖を構えたまま何の魔法も繰り出さない時間がしばらく流れた。ウォレ君の氷の檻も、いつの間にか役目を失ったように崩れて消えていた。
「とりあえず、フェリクス。ヴィクトルを連れていったん下がってもらえ……」
話をしようとしたところで、強力な魔力を感じて私は慌てて振り返る。
王宮魔道士の方々が並んで、魔法を詠唱している。
「この裏切り者どもがっ!」
古参の王宮魔道士たちが、再び魔法を放った。
今度は複数同時。怒りに任せた、容赦のない連撃。
(そ、それって私たちも巻き込まれませんか!)
慌てて私はさらに防御結界を重ねようとした。
「おじいちゃんたちの古い魔法は、僕たちには通用しないってまだ分かっていないんだね」
フェリクスが、ふう、とため息をついた。
いつも朗らかに笑っているフェリクスのわずかに見せる怒りといたずらっ子のような笑み。
指を軽く振った。
それだけ。それだけの動作で、彼の周囲に、つむじ風が生まれた。
風ではない。空間そのものが、ぐにゃりと歪んでいる。
放たれた魔法の数々が、歪んだ空間に吸い込まれ、まるで見当違いの方向へと弾かれていった。
(あの魔法を、あんなに軽々と……!)
フェリクスは魔法の力くらべなんてしない。
別の競技でもしているかのように、眠そうな顔のまま、欠伸でもしそうな気だるさで、ベテラン複数人の全力攻撃をいなしている。
「わあ。怒ってる怒ってる。じゃあ、言われた通り、いったん下がるね。またね、サディアちゃん」
ひらひらと手を振るフェリクス。
ヴィクトルを空中で後ろから羽交い締めにして、レナーテの肩に触れる。
つむじ風が、ぶわっと膨れ上がった。
三人の姿を呑み込むように渦巻き。
次の瞬間には……。
城門前に、誰もいなくなっていた。
まるで、最初から誰もいなかったみたいに。
風に舞い上がった枯れ葉だけが、くるくると回りながら落ちていく。
(三人とも……)
あの魔法学院で笑い合った同級生たちが、もう、私の手の届かないところにいる。
その事実が、ずしりと胸の奥に沈んだ。
でも、今は、感傷に浸っている場合ではなかった。
張りつめていた糸が切れた途端、翼から、力が抜けていく。
(あ、まずい)
慣れない飛行と、立て続けの魔法。もう、限界だった。
膝が折れて、石畳に崩れ落ちる。
「……無茶を、しすぎだ」
すぐ隣に、少年の声。
ウォレ君こと、ウォーレンさまが、小さな体で私を支えようとしてくれていた。
さっきまでヴィクトルを抑え込んでいた凛々しさはどこへやら、今は心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「ウォーレンさまこそ……。大人の姿になる間も惜しんで、駆けつけてくれたんでしょう」
「……当たり前だろう」
ぷい、と顔を背けた。
その耳が、赤い。
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