出兵(三)
翌朝、夜明けとともに私たちは動き始めた。
近隣の農家から買い付けた家畜たちが、丘の裏側にひっそりと集められている。
数頭の牛、山羊が十数頭、それから豚も何頭か。
護衛のガルシアさんの部隊だけでなく、ウォーレンさままで興味津々な様子でついてきてしまっていた。
万が一、敵にばれて総攻撃を仕掛けられたらかなり危ない。
もちろん、私たちの姿は幻覚の魔法で隠してある。家畜たちもあわせて、誰にも気づかれないように周囲から目をそらしておいた。
怖い。今も、足は震えている。
でも──震える手で杖を握れないほどでは、ない。
(私は、この人たちの魔法使いです)
息を吸って、吐いた。それだけで、頭が冷えた。
(まず、大きいのを数頭。それから残りは普通の猪で十分)
腕輪に魔力を込め、詠唱を始める。
変化の魔法は、対象の本質を書き換える魔法だ。牛は牛のまま、山羊は山羊のまま。しかし、外見と大きさだけを変える。
外側だけを、巨大な猪の姿に。
大きくするというのは結構な魔力がいる。
気合いを入れると、私の杖と腕輪が静かに光を放つ。
幻覚の布に包まれたまま、私はゆっくりと魔法を広げていった。
(やはり、この腕輪はかなり魔力の手助けをしてくれる……)
ありがたがると同時に魔法は仕上がった。
「な……」
ウォーレンさまやガルシアさんたちが、驚いた顔で見上げていた。
それは、巨大な生き物だった。
さきほどまで山羊だったいきものは、普通の猪の倍以上はある大きさになった。黒々とした剛毛。鋭い牙。地面を踏み鳴らすたびに、ずしんと大地が揺れる。
その後ろには、普通の猪ほどの大きさに変化した山羊や豚たちが群れをなしていた。
「……まるで魔猪、だな」
ウォーレンさまは、まるで昔語りの中の光景を目の当たりにしたかのように、ぽつりと呟いた。
「大きいのは数匹だけで、あとは普通の猪と変わらない大きさなんですけれどね」
私は隣でそう説明した。
「それでも……」
私のことをよく知っているはずのガルシアさんたちまでもこの光景に絶句している。
「では、この場所からは離れましょう」
私はいたずらを仕掛け終わった子どものように、楽しそうな笑みを浮かべながらその場から撤退。本拠地の方にウォーレンさまたちを連れて戻っていく。
「変化の魔法は、外見の姿に引きずられます。猪の外見なら、猪のように突撃します。もう少ししてから解放しますね」
私の説明を聞きながら、ウォーレンさまはしばらく黙っていた。
それから、口ひげの下でかすかに笑った。
「……囮を作るというのはよくある発想だが……なかなかに怖い軍団だ」
「ふふ、日頃の魔法の研究の成果です」
「……大したものだ」
ウォーレンさまは静かに私の魔法を認めてくださった。
魔法使いでもあるウォーレンさまの言葉だけに胸にしみて、私は思わず微笑んでしまう。
けれど、まだ気を緩めるわけにはいかない。これで終わりではないのだと、自分に言い聞かせる。
「では、行きましょう」
私の言葉に、ウォーレンさまは静かに上げた手を敵軍に向ける。
解放された猪たちの突撃がはじまった。
丘の裂け目から巨大な生き物たちが姿を現した瞬間、敵軍の前線には明らかな動揺が広がった。
数の多さに、最初は幻覚だと思ったはずだ。魔法の幻を見せて陽動するのはこんな状況なら誰でも考えることなんだと思う。
だから、対処が遅れた。
魔猪の群れは、こちらの目論見通り止まらなかった。
慌てて騎馬用に準備してあった結界を展開させた瞬間に、地響きを立てて、巨大な体が敵の前線に突進する。
前線に激突した魔猪の一頭が、結界を叩いた。
それまで静かだった結界が、激しく反応した。
(今だ)
私は岩を魔法で空中へと浮かせる。そして、敵軍の上空で破壊させる。以前、道を塞いでいた大岩を破壊したのと同じ要領だった。
小さくなった石が、敵軍に降り注ぐ。
派手な火の玉とか、華麗な氷の矢の魔法ではなく、地味で威力も大したことのない砕けた岩が降り注ぐ。
それだけに敵軍は、対処に困っている。広範囲で、しばらくの間降り注ぐ何かに怯えて、結界を広く展開する。
ただの石だと気がついた時にはもう遅かった。
「光が薄くなってきた!」
ガルシアさんの声が響いた。
確かに、結界の輝きが弱まっている。
ウォーレンさまは馬上のガルシアさんの傍らに歩み寄ると、低く静かな声で命じた。
「ガルシア、本隊をゆっくり前進させろ」
ガルシアさんは大きく頷き、騎士団に合図を送る。重々しく歩を進める騎士たちと兵たちが、結界の前へとゆっくり迫り出す。その動きを見た敵軍にもざわめきが広がった。慌てて隊列を組み直し、指揮官が怒声を飛ばして前衛を固めていく。
だが、油断や動揺までは隠せない。
迎え撃つ姿勢に変わったのは、再び結界を貼り直せるようになるための時間稼ぎの意味もあるのだろうと魔法使いの私としてはそんな見方をした。
私は手に汗を握りながら見守った。両軍の間に張りつめる緊張。敵の矢じりが、本隊に向けて高く掲げられる。
その瞬間だった。
「今だ! イマノル!」
ウォーレンさまの鋭い号令が戦場に響く。合図を待っていたイマノルさんが獣のように吠え、丘の陰に潜んでいた別働隊が横合いから一斉に突撃した。
「来たあ!」
待ちわびていたとばかりに、アミオット族の精鋭騎馬隊が丘を駆け下りた。
横から、結界の側面を狙った突撃だった。
結界は正面の群れへの対処で手いっぱいで、横からの高速突撃に反応が遅れた。
イマノルさんの馬が結界に激突する。斧が一閃し、薄くなった光の膜に亀裂が走った。
「サディア!」
ウォーレンさまの声が飛んだ。
ウォーレンさまの氷が、放たれた。
その瞬間、私は息を呑んだ。
(……なに、これ)
氷の槍だと思ったものは、槍ではなかった。
無数の細い氷の刃が、螺旋を描くように寄り集まって、一本の錐になっている。しかも、回っている。
結界というのは、面で受けるものだ。だから普通は、力任せに叩き割るしかない。
でもこれは、亀裂の一点だけを、抉じ開けにいく形をしている。
(なるほど、実戦的な魔法……!)
ものすごい上級の魔法というわけではなかった。
天才と呼ばれた同級生たちの魔法の方が派手で高度だっただろう。
誰もが結界を破るために、一点に魔法を叩き込むのがいい。魔法使いならそれは分かっている。
そうは言っても一人でも複数でもそれは難しい……はずだった。
それなのにウォーレンさまは今、守る側からするととても嫌な連続攻撃を制御していた。
慌てて私は腕輪に残った魔力を注ぎ込む。
増幅されて、氷の錐がさらに速度を上げた。
結界の亀裂に、それが突き刺さる。
砕ける音が、戦場に響き渡った。
結界が、崩壊した。
崩れた結界の向こうで、敵軍が総崩れになる。
だが、逃げる敵の後方から、殿を務める魔法使いたちが炎の壁を上げた。追撃する味方を焼くつもりだ。
「……浅い」
ウォーレンさまが、静かに片手を上げた。
地面が、白く走った。
炎の壁の足元から、霜が這い上がる。それは瞬く間に戦場を横切り、燃え盛る炎を下から順に凍りつかせて、音もなく消し去った。
私の火の玉のように派手ではない。爆発も、閃光もない。
ただ、戦場の一角の熱そのものを、根こそぎ奪い去っていた。
「……杖も持たず鎧を身につけてこの魔法なんて」
思わず呟くと、隣のガルシアさんが誇らしげに笑った。
「あの方は、剣より魔法の方が恐ろしいのですよ」
戦場を覆っていた黄昏の光が、徐々に地平線の向こうへと沈んでいく。その頃には、あれほど押し寄せていた敵軍が、もはや統制すら取れぬまま西へと潰走していった。こちらの防衛線は崩れぬまま、一気に形勢は私たちへ傾いたのだ。
敵軍はもはや組織だった動きを見せることもできず、総崩れとなって逃走した。王都へ退く余裕すらなく、誰もが我先にと逃げ惑い、戦場には勝敗がはっきりと刻まれる。
辺境の兵たちは、勝てないと分かればあっさりと逃げ出した。
騎士のようなこだわりの少なさは大事なところを守るのには向いていないけれど、ある意味では現実的な賢さなのかもしれない。西へと散った者たちは、命さえあればまた集結してまた私たちの脅威になりそうだった。
それでも……ひとまずは私の中で、張り詰めていた緊張がようやく緩み、胸の奥にふっと安堵の灯りがともるのを感じた。
数刻前には戦場だった場所には静けささえ漂っている。味方の王国騎士団も、間もなく余裕を持ってこの地へと駆けつけてくれるはずだ。
もう王都は、はっきりと目の前に見える。
想像以上の自らの偉業に、周囲にいた兵たちは歓声を上げ、離れた場所の諸領主の兵たちからも次々と喜びのどよめきが広がっていった。
「帰ってきた……」
私も王都の壊れた外壁を見ながら、そう声に出してみる。
ただ、生まれ育ち、ほんの数ヶ月前まで暮らしていた故郷のはずなのに、それほどの感慨もなかった。
もう、私の居場所はここではないと気がついてしまうのだった。
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