出兵(一)
軍というものを、私は知らなかった。
都の貴族の娘として育った私が知っている軍は、祝典の日に王宮前を行進する騎士団の整然とした隊列だった。磨かれた鎧、揃えられた槍、厳かな軍楽。それが私の知る『軍』というものだった。
現実の軍は、もっと泥臭かった。
荷馬車の列は途切れることなく続き、兵士たちの足音と馬のいななきが常に鳴り響いている。埃っぽい空気。革と鉄の匂い。昼は行軍、夜は野営。その繰り返しだった。
けれど、これでも王国内での行軍だから、まだ楽な方なのだと聞かされた。
食事は質素な干し肉と固いパンが中心で、時々肉の入ったスープが出ると兵士たちの間からささやかな歓声が上がる。
(アビーさんの料理が恋しい……)
心の中でそう嘆きつつも、出された食事はちゃんと平らげた。文句を言っている場合ではない。
馬車の中で、私にはもう一つ重要な仕事があった。
「サディア、頼む」
ウォーレン少年が馬車に飛び乗ってくるのは、だいたい一日に二、三回。
変化の魔法の効果が切れかけると、こうして人目を避けて馬車に入ってくる。
屋敷で初めて試した頃は、三十分保たせるのがやっとだった魔法も、練習を重ねて今では数時間まで延ばせるようになった。それでも一日に二、三度もかけ直せば、魔力はごっそりと削られていく。
(皆さんの前では涼しい顔をしていますけれど……裏では、結構ぎりぎりなんですよ)
「はい。いったん、変化の魔法を解除しますね。そのままでよろしいですか」
「ああ、脱いだ方がよければそうするが」
からかうような口調に思わず照れてしまい、自分でも赤くなりつつ真面目な表情を保とうとした結果、変な顔になっているのが分かってしまうのだった。
「小さくなって、戻るだけですから、変な動きをしなければ大丈夫です。それでは、いきますね」
私はちょっと早口でそう言うとまずは魔法を解除した。
服を着たまま、ウォーレンさまの体が小さくなっていった。
しばらくすると、ぶかぶかの軍服に袖を取られながら、馬車の座席にちょこんと小さな少年が座っていた。
ぶかぶかの軍服の隙間から、特に肩のあたりにかけて白く滑らかな肌がちらりと覗く。その姿は、まるで服に包まれた小動物のようで、思わず微笑んでしまうほど愛らしかった。
なんとなくお姉さんが凝視するのはいけないことのような気がして思わず目を逸らしてしまうけれど、その可憐な姿を時折何度か見直してしまう。
「もうしばらくこうしていたい気もするけれど、そうもいかないか。よろしくね」
ウォーレン少年は、もっと遊びたいけれど宿題をしなくてはならない子どものような様子でそう言った。
『よろしくね』と言った時に少し頭を傾けて微笑む表情に、私はもう眩しすぎて直視できずくらくらしてしまう。
「それでは、いきますね」
(まったくもう、大人の姿でも、子ども姿でも心臓に悪い……)
邪念をなんとか振り払いつつ、魔法の杖に魔力を込め、腕輪も光らせつつ変化の魔法を唱える。
淡い光がウォーレン少年を包み、体が伸びていく。肩幅が広がり、胸板が厚くなり、数秒後には、壮年の紳士が座席を窮屈そうに占めていた。
「ありがとう」
低い声で礼を言って、伯爵は軍服を整える。先ほどまでぶかぶかだった服が、今はぴったりと逞しい体に張り付いている。
変化で傷まで再現させなくてもいいのではと思うけれど、知っている人に会ったらとか魔法の安定とか考えると色々と難しい。
「お気をつけて」
「ああ。……また来る」
伯爵は馬車の幌を上げて颯爽と飛び降りていく。
外で待たせていた馬に跨り、堂々と隊列に戻っていった。
そんなやりとりを何度も繰り返しているうちに、いつしか夕闇が野を包みはじめていた。
行軍はゆっくりになり、野営する場所を探しているようだった。
馬車も一旦止まると焚き火のまわりから兵士たちのひそひそ話が、ふと耳に入ってきた。
「伯爵は休憩となるとご夫人の馬車にちょくちょく入られるなあ」
「結局……夫人なんだっけ?」
(まだです。まだなんです)
どうやら兵士たちは、すぐそばに噂の主が乗っている馬車が止まっているとは夢にも思っていないらしく、焚き火を囲んで気楽に会話を弾ませていた。
私の乗る馬車はとても質素な造りで、とくに夜ともなれば荷馬車と見分けがつかないのだろう。
それは、隊列の中で『重要人物が乗っています』と一目で分かるようなお綺麗な馬車で進軍するのは、きっとよろしくないのだろうと納得していた。
「もう決まりなんじゃないか? 魔法にもお詳しい才女で、名門貴族の若くてお美しい令嬢なのだろう」
(いつの間にか、知らない人たちのあいだで私の話が盛られて広まっているみたい……名門貴族のお美しい令嬢って……)
実際に会ったらがっかりされてしまうのでは、と苦笑いしてしまう。
「そっか。伯爵も気を使っているのかな。都の令嬢とか気難しそう」
「いやあ、馬車に向かう時は優しげな表情しているし、楽しいんじゃないか?」
「確かにウォーレン伯爵は怖いイメージだったけれど、今の伯爵は親しみやすくていいよな」
(色々と話が歪んで伝わっている気もするけれど、結果的にウォーレンさまの評判が良くなるのなら、それで良いのかもしれない……)
行軍が止まって野営地を設営すると、私のために用意された天幕はウォーレンさまの天幕のすぐ隣だった。
一応、別々の天幕ではある。けれど、仕切りの布を一枚めくれば、そのまま隣に行けるようになっていた。
(これは……どういう配置なのかしら)
ガルシアさんに尋ねると、歴戦の騎士は至極まじめな顔で答えた。
「伯爵お付きの魔法使いとして、緊急時にすぐ伯爵のお側に駆けつけられるようにとの配慮です」
(それはもっともなのだけれど、絶対そういう意味だけではないと思う……)
さらに気になったのは、護衛の配置だった。
天幕の周囲には当然、護衛の兵士が立つものだと思っていた。ところが、妙に遠い。
天幕からかなり離れた位置にぽつりぽつりと立っているだけで、入口の近くには誰もいない。
「お二人の天幕の周囲は、私どもが外周を固めますので。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
ガルシアさんは丁寧にそう言って、一礼して去っていった。
……ごゆっくり?
(こ、これはもう完全に気を遣われている)
顔が熱くなった。
兵士たちの『仲睦まじいご夫妻』という認識が、護衛の配置にまで影響している。
さすがにこの距離では不安だったので、天幕の周囲に防御用の感知結界を張ることにした。何者かが近づけば魔力の振動で分かるようにしておく。
これで安心と思ったのだけれど。
(……待って。この結界、外から見たら『人を近づけないようにしている』ように見えないかしら)
つまり、護衛を遠ざけているだけでなく、自ら進んで二人きりの空間を作っているように。
(違います。伯爵の安全のためです。安全のため)
誰に弁解しているのかわからないまま、私は赤い顔で天幕の中に入った。
夜も更けた頃、仕切りの布がかすかに揺れた。
「……起きているか?」
低い声。大人の声。
心臓が跳ねた。
仕切りの隙間から、ウォーレンさまが顔を覗かせていた。
大人の姿だった。変化の魔法がまだかかっている。ただ、もう鎧は脱いでおられて、素朴な麻の寝間着に、肩にゆるく上掛けを羽織った姿がちらりと見えた。
「は、はい。起きています」
「少し、いいか」
伯爵は仕切りをくぐって、私の天幕に入ってきた。
壮年の大きな体が天幕の中を占めると、急に空間が狭く感じられる。
野営用の簡素なランプの灯りが、伯爵の横顔を照らしていた。白髪交じりの髪。整えられた口ひげ。戦場にいるとは思えないほど穏やかな目元。
屋敷の屋根裏部屋とも、満月の夜の居室とも違う。
天幕の中という、布一枚で仕切られただけの仮初めの空間。外からは焚き火の爆ぜる音と虫の声だけが聞こえてくる。
(屋敷とは違う……なんだか、不思議な感じ)
「今日も一日、ありがとう。お前の魔法のおかげで、だいぶ助かっている。何回もありがとう」
「いいえ。そのための同行ですから」
「……それだけじゃない」
伯爵は私の隣に腰を下ろした。天幕が少し揺れた。
「馬車に戻って……お前の顔を見ると、少しほっとする。それだけで、十分に助かっている」
(こういうことを、さらっと言うのが大人のウォーレンさまなのよね……)
顔が熱い。
でも、暗がりだから気づかれていないと思いたい。
「横になってもいいか?」
「え……あ、は、はい」
伯爵は簡素な寝台の上に体を横たえた。
大人の長身が、細い寝台をいっぱいに占める。
「サディアも」
「え」
「隣に来い。……寒いだろう」
(寒くはないです。むしろ暑いくらいなのですが)
でも、断る理由が、見つからなかった。
いや、正確には断りたくなかった。
おそるおそる、伯爵の隣に横たわる。
「すまない。こんな季節に野営などさせて」
そう言いながら、大きな腕が、私の頭の下に差し出された。
確かに少し肌寒いけれど、凍えるほどではない。それでも、伯爵は私のことを気遣ってくれているのだろうか。そんなに箱入り娘ではないのだけれど、と思わず苦笑する。
腕枕。
私はすなおにちょっと頭を持ち上げて、伯爵の腕に身を預けた。逞しさが感じられるその腕は、決して無骨すぎることなく、ほどよい温もりと安心感を与えてくれていた。
口ひげの下で伯爵が微笑むのが、至近距離で見えた。
心臓がうるさい。絶対聞こえている。
(これは、癒してあげているだけ。そう、むしろ私が疲れている伯爵を、温めてあげて、癒してあげているだけ。それだけ)
自分に言い聞かせる。
戦場の只中で、明日も戦いが待っているかもしれなくて。お互い疲れていて。
ただ、温もりが必要なだけ。それだけのこと。
伯爵の体温が、すぐそばにある。
革と鉄の微かな匂いの下に、知っている匂い。果実酒を飲んだ夜と同じ匂い。
天幕の布越しに、かすかな月明かりが差し込んでいる。
伯爵の息遣いが聞こえる。穏やかで、落ち着いた呼吸。
(もしかして……このまま……なんてことが……)
心臓が、ますますうるさくなる。
(いやいや、こんなお外で大勢の兵士さんたちがいる状況でなんてあるわけがない……)
そう考えはしたものの、護衛の人たちが気を利かせて遠くに配置されていたし、自分でもきちんと結界を張ったのだったと思い出す。
(ついに……ある……かも)
拒む理由なんて、あるはずもない。静かに息をのみ、その温かな流れにそっと身をゆだねる。
伯爵の腕が少しだけ私を引き寄せた。
口ひげが額に触れる。
そのとき、不意に私の頭がすっと下がった。
気がつけば、腕枕にしていた伯爵の腕が、いつの間にか細くなっている。頼もしかった胸板もみるみる小さくなり、私の頭を支えていた逞しい腕は、華奢であどけない少年の腕へと姿を変えて、そっと私の下から抜けていった。
(あ)
変化の魔法が解けたのだ。
そう言えば、満月でもなんでもなかったのだと思い出す。
さっきまで私を抱きかかえていた壮年の紳士は、もういない。
代わりに、私の胸にちょこんとくっつくようにして、少年が穏やかな寝息を立てていた。
ウォーレン少年。
ぶかぶかになった部屋着から覗く、少年の柔らかそうな頬。整った睫毛。すやすやと安心しきった寝顔。
(……ウォーレン伯爵の腕の中で寝ていたはずなのに、いつの間にか私がウォーレンくんを抱っこしている構図になっている)
笑うべきなのか、泣くべきなのか、照れるべきなのか、感情の行き場がなくて、天幕の天井を見つめるしかなかった。
少年の寝顔は、本当に安らかだった。
戦場にいることも、明日の軍議のことも、何もかも忘れたような顔。
(……まあ、いいかな)
そっと少年の頭を撫でる。
絹のような髪の感触が指に残る。
(大人のウォーレンさまには少し悪いけれど……こっちはこっちで、守ってあげたくなるのよね)
気がつけば、ウォーレン少年は私の胸に顔を埋めて眠っていた。その後頭部にそっと手を伸ばし、優しく撫でる。
外では焚き火の番をしている兵士たちの、小さな話し声が聞こえる。
感知結界は何も反応していない。平穏な夜だった。
少年の温もりを抱きしめたまま、私もいつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、目を覚ましたウォーレン少年は、自分がどういう状態で寝ていたかに気づいて、耳どころか首まで真っ赤にして天幕から飛び出していった。
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