陥落
父の手紙は、妙な緊迫感があった。
あの几帳面で堅い字しか書かなかった父の文字が、恐怖で歪んでいた。
『西方から、カルガン族を主力とする連合軍が進軍中。シェティ領が攻撃を受けている。避難をはじめたが──』
そこで文章は途切れていた。
続きを書く余裕がなかったのか、それとも……。
指先が冷たい。
背中に汗が伝う。
読み終えた手紙を持ったまま、私は凍りついていた。
隣でウォーレン少年が、静かに地図を広げた。
少年の指が、シェティ領の位置を指し示す。
「……こちらへの攻撃も、ブライス領への侵攻も陽動……。売却した旧シェティ領から侵攻が本命か……」
低い声だった。
少年の姿で、でも、その声に少年らしさは欠片もなかった。
「しかし、シェティ領が狙いとは思えない……」
「伯爵」
スティーブさんが食堂に飛び込んできた。
今朝だけで二度目の全力疾走だ。その顔は蒼白で、手に握った紙が震えていた。
「ブライス領とシェティ領に向かわせていた斥候から緊急の報告です。王国の騎士団がブライス領に出兵している隙をついて……」
「……王都か」
「はい。王都陥落。王家は脱出。逃亡先不明」
時が止まったような気がした。
王都が、落ちた?
あの華やかで、しきたりばかりで、窮屈で、でも確かに王国の中心だったあの巨大な都が?
ウォーレン少年は手紙をテーブルに置いた。
既にこの事態を想定していた。そういう落ち着きだった。
ただ、想定の中でも最悪のケースだったのだろう。しばらくの間天井をみつめていた。
「旧シェティ領に潜伏していた兵が、兵の少ないシェティ領の防衛線を抜けて、一気に王都まで到達した模様です」
スティーブさんの続く報告に、私はもちろん、ウォーレン少年までもが言葉を失った。特に私自身、体の中から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。
(妹よ、お父様、これは……大戦犯じゃないですか)
領地経営が多少改善されたところで、都周辺の貴族として本当に果たすべき軍務を怠っていた。そのツケが、今こうして一気に押し寄せてきたのだ。
もはや騎士団に叱責されるだとか、そんな生易しい話ではない。私の足は恐怖で震えていた。
「スティーブ。出兵の準備を始めろ」
「はっ」
「ガルシアにも伝えてくれ。騎士団の編成を急げ」
即座に指示が飛ぶ。
スティーブさんが駆け出し、食堂には私とウォーレン少年だけが残された。
少年は地図を見下ろしたまま、小さく呟いた。
「とはいえ、いきなり王都を落とせるほどの戦力が、カルガン族だけにあるとは思えない」
訝しげな横顔だった。
何かが、この少年の中でまだ繋がりきっていない。
「……調べなくてはならないことが増えたな」
その声に含まれた重みに、私は何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
父は、妹は、無事なのだろうか。
やらかしてしまったとはいえ、シェティ領にまで攻撃があったと聞くと心配になってしまう。
あの震える文字の続きは……。
手紙を握ったまま、私はただ立ち尽くしていた。
それからの数日は、嵐の中に放り込まれたような日々だった。
屋敷の中は慌ただしく動いている。ウォーレンさまは昼夜を問わず打ち合わせを重ね、ガルシアさんは騎士たちの編成に走り回り、スティーブさんの眉間のしわはもう数えきれないほど増えていた。
次々と入る続報は、どれも暗いものばかりだった。
シェティ領の一部を売却した商人がカルガン族と繋がっていたことが判明した。
ウォーレンさまが命じていた調査の結果だった。
「あの商人は、カルガン族の手先だった。防衛線に穴を空けるために、わざわざ領地を買い取らせたんだ」
ウォーレン少年が淡々と報告するのを、私は離れた椅子で聞いていた。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(妹の婿が領地を売った相手が、カルガン族の手先だった)
つまり、シェティ家は利用されたのだ。
妹の婿の軽率さが、王国の防衛に致命的な穴を空けた。
そしてその穴から、王都が陥落した。
私の家族が、王国の危機を招いた。
その事実が、じわじわと胸を浸食していく。
領民たちは意外なほど落ち着いていた。
町の様子を見に出た時、いや、正確には、居ても立ってもいられなくてこっそりと外の空気を吸いに出た時に、それを肌で感じた。
「ウォーレン伯爵がいらっしゃるんだ。心配することはないさ」
「あの方が守ってくださる。今までだってそうだったろう」
市場では普通に商いが続いている。子どもたちは走り回っている。
王都が陥落したという、王国にとっては天地が引っくり返るような大事件が起きているのに、この町はいつもとほとんど変わらない。
辺境の民にとっては、遠い王都よりも目の前の領主の方がずっと大切なのだ。
ウォーレン伯爵がいる限り、ここは安全。そう信じて疑わない。
(……王家への忠誠心が薄いとも言えるのだけれど)
でも、その信頼の厚さが、今はただ眩しかった。
彼らは安心している。
私は、安心できなかった。
屋敷に戻ると、自室で膝を抱えた。
そして、家族の安否よりもっと重いものが、胸の上にのしかかっていた。
(シェティ家が防衛線を空けたせいで、王都が落ちた)
どう足掻いても、事実だった。
妹の婿の愚行。騎士団の解雇。領地の売却。
その一つ一つが、王国の崩壊に繋がっていた。
(その家の娘が、ウォーレン伯爵と結婚?)
胸が締めつけられる。
(そんなことが許されるわけがない)
ウォーレンさまは辺境伯だ。王国を守る最前線の将だ。
その隣に立つのが、王国を危機に陥れた家の娘?
笑い話にもならない。
(ウォーレンさまに迷惑がかかる。私がここにいるだけで……)
領民の魔法相談にも、出かけられなくなっていた。
あの人たちの前に立つ資格が、私にあるとは思えなかった。
シェティの娘だと知ったら、彼らの目はどう変わるだろう。
「サディアさま。お食事、お持ちしました」
アビーさんがそっと部屋を覗いた。
「ありがとうございます。……でも、今は大丈夫です」
「大丈夫、と言って食事を残す方が、本当に大丈夫だったためしはありません」
アビーさんの声は穏やかだけれど、有無を言わさない響きがあった。
でも私は笑顔を作れなくて、ただ『すみません』と小さく答えるだけだった。
アビーさんは何も言わずに、お盆を部屋の小机に置いて出て行った。
その背中に、心配されている重さが見えた。
(迷惑ばかりかけている)
食事を半分だけ口にして、残りは冷めるに任せた。
出兵の日が決まったのは、それからまもなくのことだった。
ウォーレン少年に呼ばれて執務室へ向かうと、スティーブさんとガルシアさんが彼の左右に控えていた。
地図の上に、いくつもの印がつけられている。進軍経路だろう。
「サディア」
ウォーレン少年は地図から顔を上げた。
真っ直ぐに、私の目を見た。
「王都の奪還に動く。王家を見捨てるわけにはいかない」
その声は静かで、揺るぎなかった。
辺境伯として、そういう覚悟がもう決まっている目だった。
「申し訳ありません」
私は深々と頭をさげた。
「別にサディアのせいでも、サディアのために王都に向かうわけでもない」
ウォーレン少年の言葉に、思わず顔を上げて彼を見つめた。きっぱりとしたその口調に、私は驚きを隠せなかった。
「こんな電撃的に王都を陥落させたのは、軍事力だけじゃない」
少年の指が地図の上を滑る。
「おそらく敵にもそれなりの魔法使いがいる。外壁の結界は王宮魔道士たちが維持していたはずだ。それがあっさりと破られた。……ということは、内部から崩された可能性がある」
冷静な分析だった。
少年の口から出ているとは思えない、歴戦の将の言葉。
「国境沿いの旧シェティ領に兵を隠しておくのに、サディアならどうする?」
いきなり意外な質問が飛んできたので少し面食らってしまった。
「ええと、なだらかな丘も多いので、空気の温度を変えますでしょうか」
「空気?」
私の答えにウォーレン少年だけでなく、スティーブさんもガルシアさんも意外そうな声をあげた。
「ええと、光を曲げて遠くを見せるようにするのを、広い範囲でやるのには効率的かなと思いまして……」
「なるほど、蜃気楼を見せる要領ですな」
何か変なことを言ってしまっただろうかと少し遠慮がちに言ったことに、スティーブさんが大きくうなずいてくれていた。
「そうか……。それなら、領民に集団で幻覚を見せるよりは大変ではないか……」
「魔法使いが数人いれば、数千の兵の行軍を隠せそうではありますな」
「領地を通過するのに目立たなければいいしな。それでも、王都に入るのには何かまだ必要そうだが……」
私の答えに、ウォーレン少年とガルシアさんは感心した様子で地図を覗き込みながら、さらに意見を交わし始めた。
私はただ、『最近は魔法学院でこうした研究や遊びが流行っていたんです』と伝えるにとどめた。天候の操作や集団幻覚の理論は教わったものの、危険が伴うため実際に試すことは許されなかったからと話したけれど、あまりウォーレン少年は興味はなさそうだった。
ただ、ウォーレン少年は地図を見ていた綺麗な顔をあげると、私の方をまっすぐに見つめた。
「……魔法の力がいる。優れた魔法使いの力が」
静かな声で、ウォーレン少年ははっきりと言った。
「ついてきてくれるか?」
心臓が跳ねた。
嬉しかったからじゃない。
その言葉が意味するものに、今の私はふさわしくないと思ったからだ。
「……私は、そんな優秀ではありませんし……それにシェティ家の……」
天才たちと比べての自信のなさと実家の失敗による罪悪感。
言いかけた言葉を、ウォーレン少年が遮った。
「だからなんだ」
頬が少し赤くなっていた。
でも、目は逸らさなかった。
「もうサディアは、わ、私の嫁だろう。家がどうとか、関係ない」
少年の声だった。
少しだけたどたどしくて。『わ、私』のところで噛みかけていて。
でも、少年の姿だからこその力が、その言葉にはあった。
大人の姿で言われたら、ただ社交辞令で慰められているとしか受け取れなかったかもしれない。
何も気にしていないのだ、この人は。
シェティ家がどんな愚行を犯しても、それが私を変えるとは少しも思っていない。
当たり前のように私を「嫁」と呼んで、当たり前のように隣に立てと言っている。
視界が滲んだ。
(ああ、この人は、本当に)
何日も胸の上にのしかかっていた重石が、少年のたった一言で砕けた。
砕けた破片が涙に変わって、ぽろっと頬を伝い落ちる。
「……はい」
声が震えた。
「参ります」
ウォーレン少年は一瞬だけ慌てたように手を伸ばしかけて、でもやっぱり引っ込めて、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いた。
「な、泣くなよ……。困るだろ」
困っているのは私の方だった。
泣き止むまでに、少し時間がかかった。
その間、ウォーレン少年はずっと隣に立っていた。
何も言わず。手を伸ばしもせず。でも、離れもせず。
(そういうところが、ずるいのよ)
彼のこうしたさりげない気遣いは、大人の姿の時とまったく変わらない。いや、むしろそれ以上に、彼の根底にある生まれ持ったやさしさなのだと、この瞬間改めて思い知らされる。
ふと見上げると、ウォーレン少年は恥ずかしさをごまかすように少しそっぽを向いて、けれど低く落ち着いた声で静かに言葉を紡いだ。
「……この姿じゃ、やっぱり戦には向かない。だから、ついてきてもらわないと困る。悔しいけど」
その横顔には、どこか素直になりきれない年相応の照れと、大人の彼にも似た芯の強さが同時に滲んでいた。
私は思わず涙を指で拭いながら、ふっと小さく笑みをこぼしてしまう。
「ふふ……大人のご自分に、負けたくないんですね」
ウォーレン少年は『そんなことはない』と拗ねるように横を向いたままだったけれど、私の心がふんわりと軽くなっていくのを感じた。
出発の朝は、よく晴れていた。
ウォーレンさまは、私の変化の魔法で大人の姿を纏い、馬に跨って隊列の中央を堂々と進んでいた。
大勢に幻覚の魔法を隙なくかけることは簡単ではない。だからこそ、ウォーレンさまには本当に大人の姿になっていただいた。それも、私が今回同行する理由のひとつだった。
黒い軍服に金の肩章。その姿はまさしく威風堂々たる辺境伯だった。
ガルシアさんが副官として隣に控え、旧シェティ家の騎士たちも含めた精鋭の部隊が続く。
私は隊列の中ほどの馬車に乗せてもらっていた。
アビーさんとスティーブさんは留守を預かる。アビーさんは出発前に私の手をぎゅっと握って『必ず坊ちゃまとお帰りください』と言った。その目が少し潤んでいたのは、きっと気のせいではない。
町の門を出た時、私は息を呑んだ。
道の両側に、人が溢れていた。
領民たちだった。
朝早くから、見送りに集まっていたのだ。
都での騎士団の出兵式とはまた違う雰囲気だった。
綺麗に揃えられた鎧や槍でもなく、不揃いな装備の軍。でも、それだけに傷がいくつもある鎧は歴戦の強者という感じも出している。
民衆の方も綺麗に整列して、旗など振ったりはしていない。思い思いに、でも危なくないように配慮しつつ兵隊の皆さんに差し入れなど手渡してなどいる。
「伯爵さま! ご武運を!」
「必ずお戻りくださいませ!」
特にウォーレンさまに向かって、大きな歓声が上がっていた。領民もこうやって、近くでウォーレン伯爵の姿をじっくりと見られるのは久しぶりなのだろう。
大人の姿の伯爵は、馬上から片手を上げて応えていた。その姿はいかにも凱旋前の英雄という貫禄があって、領民たちの歓声がさらに大きくなる。
でも……。
「サディアさまー!」
不意に、私の名前が呼ばれた。
「サディアさま、お気をつけて!」
「魔法で伯爵さまを守ってやってくださいね!」
馬車の窓から顔を出すと、見覚えのある顔がいくつもあった。
岩を砕いてあげた農家のおじさん。泉を掘ってあげた村の女性。雨乞いをした時に手を合わせてくれたお婆さん。
裏路地で道に迷ったのを助けてくれた兄ちゃん。市場でおまけをしてくれる果物屋の奥さん。
「お帰りをお待ちしておりますからね!」
涙が出そうになった。
(こんなにも、いてくれたんだ)
地道に魔法の依頼をこなしていた日々。
領民の前に出るのが怖くなっていた、ここ数日の自分。
シェティ家の娘だから、迷惑をかけているんじゃないかと、そんなことを考えていた自分が、馬鹿みたいだった。
この人たちは、私の家がどうとか、そんなことは気にしていない。
ウォーレンさまが言ったのと同じだった。
ここでは私は『シェティ家の娘』ではなく、『伯爵お付きの魔法使い』なのだ。
「ありがとうございます!」
馬車から身を乗り出して、手を振った。
涙声になっていたかもしれない。でも、笑っていた。
「必ず、伯爵と一緒に帰ってきます!」
『わああ』と歓声がさらに大きくなった。
手を振る人、帽子を振る人、子どもたちが走って馬車を追いかけてくる。
ふと、隊列の先頭でウォーレンさまが、大人の姿のウォーレンさまが、こちらを振り返った気がした。
口ひげの下で、少しだけ笑っている。
(……そういえば、まだ婚約の発表とかしていないと思うのに領民の皆さんはどう思っているのかしら)
もう夫婦扱いで声援を送ってくれている気がして、顔が赤くなってしまう。
私のそんな姿を見た領民たちからは、より歓声を大きくしているような気がした。
馬車の窓から見える風景が、少しずつ遠ざかっていく。
見慣れた中央通り。露店の並ぶ角。初デートで歩いた道。
その一つ一つが、胸の奥で光っている。
(ここが、私の居場所なんだ)
手紙一枚で追い出された都とは違う。
私が自分で選んで、自分の力で築いてきた場所。
必ず帰る。
この人たちのところに、必ず帰ってくる。
私は静かにそう誓った。
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