ウォーレンさまの過去(後編)
伯爵がふと、部屋を見回した。
棚の上の陶器の置物。壁にかけられた刺繍の額。花の形をした素朴な置物も、野の花を描いた丁寧な刺繍も、イーディスさまのもの。
「……この部屋にも、まだイーディスのものが残っているな」
伯爵の声は穏やかだったけれど、どこか申し訳なさが混じっている。
「すまない。お前のことを考えたら、片付けるべきだったかもしれない」
普段の私なら、その言葉に胸がちくりとして、慎重に言葉を選んで答えただろう。
けれど今は、三杯半の果実酒が回っている。
「ぜーんぜん。いいですよ、そんなの」
あっさり答えてしまった。
自分でも驚くくらい軽い声だった。
「前の奥さまがここにいた証なんですから。片付けなくていいです」
伯爵が少し目を瞬かせた。
「……それに」
四杯目のグラスを持ったまま、私は伯爵の目をまっすぐに見た。
普段なら絶対にできないことだ。お酒の力というのは恐ろしい。
「イーディスさまはすごい人です」
口が勝手に動いていた。
「ノート読みました。すごい研究です。分析力は正直、私じゃ敵いません。首席になるような人ってやっぱり別格だなーって思いました」
伯爵は黙って聞いている。表情が少しだけ柔らかくなっている。
「ウォーレンさまのことを、何より考えていたのは伝わってきました」
伯爵はその言葉に目を細めて少し潤んだように感じた。
「わたしぃ、負けませんから。イーディスさまには」
ノートを手に取って、ばんっとテーブルに置いた。
酔っ払いの所作なので、全く格好よくなかった。
「だからイーディスさまの研究、私が引き継ぎます。呪い、絶対に解きます。ぜったい」
最後の「ぜったい」は、少しろれつが怪しかったかもしれない。
伯爵は、少しの間、何も言わなかった。
それから、口ひげの下で笑った。声に出さない、静かな笑い。
でも、苦笑ではなかった。どちらかと言えば、嬉しそうな笑みだった。
「……ああ。頼む」
短い答え。
でも、その二文字に込められた重みが、酔った頭にもちゃんと伝わった。
「あいつも、穏やかな人間だったが、魔法の話になるといつまでも研究を続けた」
伯爵はゆっくりと語り始めた。
静かな夜だった。虫の声すら聞こえない。伯爵の声だけが、はっきりと耳に届く。
「……サディアと、少し似ている」
「にてません」
即答していた。
「私はもっとこう、がさつで、お酒飲みすぎるし、気絶するし、魔法の威力間違えて噴水つくるし」
「……だいぶ酔っているな」
「酔ってないです。ちょっとだけぽかぽかしてるだけです」
伯爵が口ひげの下で笑っていた。
「……ウォーレンさま」
声がふるふるしていた。
「イーディスさま、すごい人です。すごい人だったんです」
「……そうだな」
「前の夫人のことをあまり褒めると、私すねますよ」
酔っ払いな私はめんどくさい絡み方をしすぎて、ウォーレンさまは苦笑していた。
「でも、ノートはすごく丁寧に書いてあって……あれ、きっと私みたいな、私みたいな変わり者の魔法使いがここに来ることを信じて……」
もう完全に酔っ払いの泣き言だった。
鼻をすすりながら、それでも言いたいことは言った。
「研究は私が引き継いで、ぜったい呪いを解いてみせます!」
二回目の「ぜったい」。今度は涙混じりだったけれど、さっきよりも声がはっきり出た気がする。
伯爵は、少しの間、何も言わなかった。
それから、そっと私の頭に手を置いた。
大人の、大きな手。温かくて、少し硬い。指先から、戦ってきた人の手だとわかる。
「……頼りにしている」
それだけだった。
『愛している』とも『お前が必要だ』とも言わない。
口ひげの下の微笑みだけが、言葉にならなかったものの全てを語っているような気がした。
頭に置かれた手が、そっと髪を撫でた。
もう、駄目だった。
涙は止まらないし、体はぽかぽかだし、頭はふわふわだし、それなのに頭の上の手がやけに気持ちよくて……。
「……ウォーレンさま」
「ん?」
「ちょっとだけ、ここにいてもいいですか。もうちょっとだけ……」
「ずっといても、構わないよ」
その声が、やけに優しかった。
この屋敷にいてもいいかと聞かれたのだと思われたのだろうか。
そうだとすれば、もう結婚を了承されて将来もずっと一緒だと言われたようなものでは……と私はふわふわした頭で考えていた。
窓の外で、雲の切れ間から月が覗いた。
満月の光が部屋に差し込んで、二人の影を壁に落とす。
窓の外では、満月が静かに輝き続けていた。
伯爵の手が、頭から肩に移って、そのまま私を引き寄せた。
大人の腕に包まれると、体が一回り小さくなったような気がする。
口ひげの感触が額の近くに触れて……ああ、近い。近いのに、今夜は怖くない。お酒のおかげだ。たぶん。
(まだ途中だ。この人との関係も、呪いの研究も)
(でも、前に進んでいる。確かに)
そのまま、目を閉じた。
伯爵の体温と、果実酒の残り香と、月明かりの静けさと。
全部が混じり合って、とろとろと意識が溶けていく。
(明日、また頑張ろう……。呪いの研究……。変化の魔法で……上書き……)
最後に聞こえたのは、伯爵の小さなため息だった。
呆れているのか、笑っているのか、その区別がつかないまま、私の意識はふつりと途切れた。
翌朝。
目を覚ますと、屋根裏部屋のソファに毛布がかけられていた。
記憶をたどる。
果実酒を飲んで。飲みすぎて。ウォーレンさまの過去を聞いて。泣いて。呪いを解くと宣言して。それから……腕の中で……。
(う、うわあああああ)
記憶が走馬灯のように蘇ってきて、顔から火が出そうになった。
頭がずきずきする。完全な二日酔いだ。
毛布は、伯爵がかけてくれたのだろう。
(前回は緊張で気を失って、今回は酔い潰れて。大人のウォーレンさまの前で二回も醜態を……。学習能力がないにもほどがある。むしろ悪化している)
慌てて身だしなみを整え、階下に降りていく。
頭痛をこらえながら食堂に入ると、少年姿のウォーレンさまが、紅茶のカップを両手で包んで座っていた。
「お、おはようございます……」
「……おはよう」
ウォーレン少年は紅茶に視線を落としたまま、ちらりとだけこちらを見た。
少しだけ気まずそうな顔をしている。
「……昨日、何があったかは、細かいことはあんまり覚えてない」
(ああ、記憶を制限しているから……)
「でも……お前が屋根裏で寝てたから、毛布をかけた。あと、グラスを片付けた。二人分」
ぼそぼそと、少年の声で。
「……ありがとうございます。お手数をおかけして」
「別に、手数じゃない」
ウォーレン少年はカップに顔を埋めるようにして紅茶を啜った。
「……あの部屋を使ってくれてるのは、嬉しい」
(え?)
「べ、別に深い意味はない。ただ、あの部屋は俺にとって特別な場所だから……い、いや、だからどうってことはないんだが」
耳が赤い。首まで赤い。
(可愛い……)
昨夜の大人の伯爵の穏やかな横顔と、今目の前にいる耳まで赤い少年。
同じ人なのに、こんなにも違う。
どちらのウォーレンさまも好きだなと、改めて、はっきりと思った。
「大切に使わせていただきますね。イーディスさまのノートの研究も、あの部屋でさせてもらっています」
「……研究?」
「はい。呪いを解くための」
ウォーレン少年の目が、少しだけ大きくなった。
何か言いたそうに口を開いて……けれど、言葉にならなかったようで、視線をカップに戻した。
「……ありがとう」
小さな声だった。
少年の照れとは少し違う、もっと深いところから出た言葉のように聞こえた。
朝食のパンをかじりながら、穏やかな時間が流れる。
窓の外には穏やかな朝の光が差し込んでいた。
その静けさを、切り裂くように。
「伯爵! サディアさま!」
スティーブさんが食堂に駆け込んできた。
あの冷静なスティーブさんが、走っている。それだけで異常事態だとわかった。
眉間のしわがさらに深く刻まれて、いつもの渋い表情が蒼白にすら見える。
「緊急の魔法を使った手紙です。サディアさまのご実家──シェティ家から」
私の心臓が、一瞬止まった気がした。
「実家から……?」
スティーブさんが差し出した紙を受け取る。
私が残した魔法の伝書鳩を使ったのだろう。
少し滲んだ文字。父の字だった。
几帳面で堅い字のはずなのに、震えている。
読み進めるにつれて、指先が冷たくなっていく。
ウォーレン少年が、私の隣に立った。
背伸びをするようにして紙面を覗き込む。
少年の表情が、みるみる厳しくなった。
「……最悪のケース、か」
その一言は、数日前に『まさかな』と呟いていた時の何倍も重かった。
あの時の推測が、現実になった。そういう声だった。
紙を持つ手が震えているのに気づいて、両手でぎゅっと握りしめた。
穏やかな朝だった。
けれど、大きな嵐が、南から押し寄せようとしていた。
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