34【五月女くらは 下】
「これは、ちょっとしたカミングアウトになっちゃうんだけど、実はね……もう、五月女じゃないんだ」
「え……どういう」
「中学から、親戚の家に引き取られて暮らしてるの。それで、苗字が変わって。だから倉本くらはっていうのが、今の私の名前なんだ。おかしいよね、クラって二回も出てくるの。友達には、クラクラって呼ばれちゃってたりしてさ」
「親戚の家って……」
訳を聞こうとしてしまったが、踏み込んでいいのかと留まる。
「でね。ヒナ君に、もっと早く言うべきだったのかもしれないんだけれど。小学生のころ実は私……虐待とか、されちゃってたりしてました」
苦笑いして、そんなことを言った。
「は……?」
「私、いつもブンセンにいたでしょ? 家に帰ると、いつもじゃないんだけど暴力振るわれてて」
こども文化センター、通称ブンセン。よくそこにいたのは、そういう意味だったのか。
「……そんな、なんでもっと早く」
周りに相談しなかったんだ——なんて、やはり言えるわけもなかった。心の奥底にある悩みを晒すのは、とても勇気のいることだ。瓮も莉音もそれで苦しんできたように——そして俺も。きっと当時の五月女も、そうであったに違いない。
不意に五月女は、くすりと笑う。
「ヒナ君、変わらないね。考え込んじゃう時って、そうやっていつも唇キュッとするの。なんか、昔に戻った気分だな」
「え……そうか?」
いや、そうであった。いま確かにそうなっていた。
「別にね、隠してたわけじゃないの。なんて言うのかな……あの頃はむしろこれを誰かに相談というか、打ち明けることが考えられなかったんだよね。普通のことみたいに、日常の一部として捉えてたの」
五月女の視線が傾く。
「周りと違う環境なんだなって、そんなのはだんだんと否が応でも気づかされちゃってはいたけど、それでも一日一日をやり過ごしていけば、いつか変わるかもしれない……なんて考えてた」
「そうだったんだ……」
「このことが、たぶんヒナ君がいま話そうとしていたことに繋がるの」
「どういうこと?」
「ヒナ君……たぶん、あのせせらぎ緑地でのことずっと気にしてて、今それについて話そうとしてたんでしょ?」
「まぁ……それは」
「私の虐待が発覚したのは、あのことがきっかけだったんだ」
「え……?」
「病院に運ばれてから、お母さんたちが来る前に大人の人たちが話を聞きに来て、ケガのこととか聞かれて。普通じゃできない傷もあったから。えっと、児童相談所? そういうとこに通報してたみたいで。
それから私、今と違うところで暮らしたいかどうか聞かれて、その人が言った言葉がすごい私にとって心に迫るものがあったから、そこで決断したの」
「……そんなことが」
「しばらく学校に行けなかったのも、そういうののせいだったの。当時は何も言えないままで、心配かけちゃってるかもって思ってはいたんだけど……だから、ごめんなさい」
今さらだが、確かに五月女は体が弱いからと、いつも体育や水泳の授業は見学だった。それに私服も、露出の多いものを見たことがない。
とうとう、あの事故がきっかけで悩みが明るみに出たということになるのだろうが、しかし災難が不幸を救ったというには、禍いが転じきってはいない。五月女は、足も親も失ったのだから。
虐待の手から解放されたとは言え、手放しじゃ喜べない顛末である。
「謝るなよ。大変、だったんだな……」
「でね、私の気持ちとしてはだよ? たぶんあのことがなければ、ずっとあのままだったかもしれないし、いま考えればもっと酷いことになってたかもしれない。だから……ヒナ君が思ってるほど、わたし不幸じゃないって言いたいの。
えへへ、なんかダメ。上手く言えないんだけど……でもヒナ君、そういうときって自分を責めるでしょ? それは違うって言いたいの。あの頃は、みんなヒナ君にすっごい冷たくなって。私どっちかって言うと、それを止められなかったのが結構ね、後悔してて。
だから、ごめんなさいっていうのを伝えたかったんだずっと……」
どこまでも、お人好しな奴だった。
「いや違うだろ。悪いのは、最初から最後まで俺だ」
「ううん、違くてね。そうじゃなくて。
もっと、みんなに当事者の私自身がちゃんと責任を持って話すべきだったんだと思う。私の怠慢だって、そこにはあったと思うもん。ヒナ君が、小川に落ちた時に身を顧みずに必死に助けてくれようとしたように、私も必死になるべきだったって思う。私たちの責任を、ヒナ君だけが背負い込む必要ってないよねだから。
はいじゃあヒナ君の番ね。どーぞ」
そんなふうに軽いノリで言われた俺は、重い口を六年越しにとうとう開くのだった。
「信じられないかもしれないし、怒られるのは覚悟の上でだけど……これは、ふざけてもないし誤魔化したりしたいわけでもなくて真面目な話——俺、怪異が見えるんだよ。それを前提に、あのせせらぎ緑地でのことなんだけど。
当時の俺は、怪異というより珍しい生き物って感覚で騒いでたんだ。でも、結局アレは怪異だった。そんな危険な存在に引き合わせてしまって、こんな結果を与えることになってしまって、ほぞを噛む思いで俺はずっといる。
でも俺さ……正直、嬉しかった。五月女だけは、ちゃんと俺の話を聞いてくれたから。だからこそ、証明したかったんだよ。でもあんなことがあってからは、そういう怪異の話を人前でしないことを決めた。五月女との一件から俺が得た教訓は、今でも俺の根幹にある。同じ過ちを、犯さないために。
本当にごめん……いろいろと……っ何もかも奪って、そして今もなお……こんなっ、奪い続けてしまって。だ、からっ……心から、ごめんなさいっ——」
頭を下げ落涙する俺に、やはり五月女らしい言葉がかかる。
「あのときも、そうやってすごく涙して謝ってくれたよね……悔しそうに、もどかしそうに。辛かったね。私と一緒だ。悩んでたんだね。でもね、ヒナ君。知ってるんだよ? わたし」
「っえ……?」
「だって、嘘であそこまで必死になれないでしょ? 後に引けないからって、あんなずっと同じふうに主張し続けてなんていけないもん、普通は。
ヒナ君には、そういうのが見えるんだろうね。そういう、お化けみたいなのいるんだろうね。だから、嘘じゃないって知ってる」
「五月女……」
「とにかくさ、さっき言った通りヒナ君の思っているよりたぶんずっと気にしてないんだよ、本当に。
それより、このことでいつまでもそうやってヒナ君が引きずって後ろめたくなってしまうことの方が、私はやっぱり気になるの。心配なの。だから、わたし提案しちゃってもいい?」
「なにを……?」
「ここでお互いハッキリさせよ。ここでおしまいってしよ。いつまでも引きずる必要のないものを引きずっていたら、ダメだもん。前に進むのに後ろなんて向いてたらいつかきっと転んじゃうから」
小指をツンと立て、こう続けた。
「約束、私たちの。これからは、あのことで悩んだりしないって、約束しよ」
五月女はこういう奴だった。実るほど首を垂れる稲穂かな……何事にも囚われず、欲や意地にも振り回されぬ、先入観のない真っ直ぐらしい心。夷険一節を体現したような、そんな奴。
であるからして、俺の現行のスタンスである、物事を淡々と受け入れて自分の度量を弁えつつも前に進む精神というのは、およそ五月女に株分けでもしてもらった在り方なのかもしれなかった。
俺は小指を、そこに重ねる。
「ありがと……分かったよ」
しかし、指切りという懐かしい儀礼を終えた直後、なぜか五月女は「あっ……」と声を漏らす。
「ん?」
「でもね、あれは怒ってるよ?」
「え……ごめん。なんかあったっけ」
「私の筆箱に、変なの入れたときあったでしょ。貝みたいな小さいの」
「いや昔すぎて記憶が。ごめん……そんなことしたっけ」
「んーとなんだっけ、池のところにいたやつで。男の子たちが見つけて騒いでた時期あったじゃない」
「ああ……あったわ。あれか、タニシ」
「それ! それがあったから私、シジミとか苦手になっちゃったんだよ?」
「それは……マジで申し訳ない」
あの頃の俺は、どうやらいたずら好きだったらしい。
「ふふ。まぁでもね、それももう良い思い出なのかもしれないね。こんなふうに話す日が来るなんて。
じゃ食べよっか。ちょっと冷めちゃったかな。ごめんね」
このあといくらか喋った後、五月女もとい倉本(結局、最後まで倉本とは呼んでなかった)と別れたのだが、どうやらあいつは不幸を確かに手放し、しっかりと幸せを掴んでいたらしい。
迎えに来た彼氏と一緒に、定時制高校へと登校していったのだ。
その彼氏は俺なんかより出来た人で、親の稼業を継いでもう働いているのだとか。でも高校には行きたかったから、仕事の終わりに行ける定時制高校を選んだのだそうだ。そして二人は出会った。
俺もそんなことを知ったからか、少し心の曇りが晴れたような気分でいたのだが、その帰り道、図らずもある人物にバッタリ出会い暗雲立ち込める。買い物帰りの莉音であった。そこで、インフルエンザなのに出歩いてどうのこうのと、散々お説教を喰らう羽目になってしまったのだ。いったいどこから俺の個人情報が漏れているのか気になったが、とてもじゃないが出所を問える雰囲気でもなく、俺は粛々と当然のご指摘を受け止める他なかった。
そんなわけで、終わってみれば何のことはない、独白が九割を占める雑談だったのかもしれない。五月女は前に進む。そんな姿に引っ張られるようにして、俺もまた前に進む――




