31【笹野目莉音 下】
後日談。
あったはずのサルボボは忽然とあの日、姿を消した。付喪神も、そしてオシエドリも、人が倒れる不可解な事象も失せ、俺たちは何事も無かったかのように日常へ戻り、学生の本分である定期試験を終えた。
そして二年生は、皆が待ち望む……と言っても俺はそこまで望んじゃいないが、修学旅行を目前に控える六月中旬。
莉音はというと、あのあと翌日まで目を覚ますことは無かった。眠り姫の如く。
幸徳池は、そうなるかもしれないことを予め伝えていたため、あの時みたいに紫苑が慌てて助けを乞うてくるなんてことはなかった。
ところが、のちに紫苑から聞いたことに俺は驚きを禁じ得ないでいた。サルボボのことを、莉音は全く覚えていなかった……と言うのだ。
莉音はサルボボについての一切の記憶を、あれからどうやら失ってしまったらしい。儀式も何のために行ったのかは、朧げな様子だったという。無論、過去に紫苑がサルボボを手作りしたことも、喧嘩をした後に縫い直してくれたというエピソードも、全ては忘却の彼方。
つまり、幸徳池の言う失うものは『大切な記憶』だった……ということになろう。あれだけ守ろうとした大切な『なにか』を、莉音はまったく忘れてしまったのだった。
そんなある日のこと、俺は莉音から呼び出される。
改まって今ごろに何の用事だろうかと、放課後にあの神社へ足を運ぶのだが、莉音はそこで律儀にも出会い頭に手土産をよこしてくるのだから、俺は餅が喉に詰まったような変な声を出してしまった。
「へ!? っんな……なんで?」
「その顔イラッとくるんでやめてください。これはお礼です。幸徳池先輩の分もあるんで、渡してくれますか」
「……マジで? なんか悪いな」
そんな子だったっけ? と思う胸の内は、どうやら見透かされたようだ。
「あの、失礼なこと考えてませんひょっとして? そこまで恩知らずでも恥知らずでもないですから。ちゃんと、言葉以外でも感謝を示すくらいします」
「あ、ああ……でもそれなら、幸徳池にも直接会って渡してやればいいのに。なんなら呼ぼうか?」
「いいです。わたし、あの人苦手なんで」
うわ、幸徳池が言いそうなことを言う。とは言え、幸徳池本人もたぶんそう思ってるだろう。
「じゃあ渡しとくよ。でもへぇ、何が入ってるの?」
オシャレな柄の紙手提げ。パステルカラーの巾着の中身は、ぱっと見では分からなかった。タグには俺宛と幸徳池宛。
「いまは見ないで良いです。帰ったら開けてください」
「ふーん、そっか。ありがたくもらっとこう」
「ありがたく貰ってください」
そして俺たちは何を言うこともなく、記憶に新しいけれどどこか懐かしいベンチへ。
「紫苑から、ちょっと話は聞いてたけど。あれから、変わりないか?」
「無いですよ、なんにも無いです」
「そっか。はぁ……でも良かったよ、大変なことになんなくって。あんときはヒヤヒヤしてたんだぞ。
まぁ、記憶が抜けちまってるのは良いのか悪いのか。いや、大事な記憶を失っちまうのは、やっぱ悲しむべき事なのかもしれないけれど。勝手にそれが、やるせなく感じたりしててさ……」
「……」
不意に黙り込む莉音。
「莉音?」
「あの……剣見先輩」
改まって何かと思うも、次の言葉で俺は愕然とさせられる。
「サルボボのこと、嘘ですから」
「は……?」
「わたし、サルボボと付喪神のこと全部覚えてるんで」
「うええっ!?」
「リアクション、オーバー過ぎません? だいたい、覚えてるからこうしてお礼してるんですよ」
おかしげに目を細めるけれど、あまりのカミングアウトに俺の思考はショート寸前、もちろん笑えやしない。
「な……待って分からん。なになに、嘘だろ。いや……嘘なのか。嘘だったのかよ、忘れちまったってのがそもそも!」
「はい、全部覚えてます。紫苑が作ってくれた、サルボボ。それが付喪神になってしまったこと。和室で私がやったこと。ちゃんと覚えてるし、分かってるんです」
「ええ……もうわかんねーよお前。じゃなんで紫苑に忘れたなんて嘘を?」
「んん、なんででしょうね。まぁ……なんですか。リセットしたかったんだと思います、たぶん。
紫苑あとからいろいろ気にするんで、いっつも。ならいっそ、今回に至るまでの根本を全部、無かったことにしてしまえばって。
まぁもちろん全く無かったことになんて、できるはずもないのは分かってますけど。それでもいくらかのケジメにはなるのかなって。
過去を引っ提げてないで前に進む、みたいなことを考えちゃったんです。
だから剣見先輩、このこと紫苑には内緒ですから。守ってださいよ、前みたいにキチッと」
「おいおい……じゃあ失ったものとか実は何も無かった、みたいなことになるわけ?」
莉音はスッと立ち上がり、揚々と伸びを見せる。
「さあー? なんなら、なに失ったと思いますー?」
「いやいや。昼に何食べたと思う? みたいな感じに言われても」
「もしかしたら、失ってないかもしれませんけどね。どうでしょうね、秘密です。ふふっ」
玉手箱みたいな女子だ。いや、どちらかと言えばブラックボックスか。
「あとサルボボのことですけど、たぶん剣見先輩の考えている通りです。わたし中学の時に夢で、赤い猿を見るようになって」
「あ……俺にもあの日、見えたんだそれ。
やっぱサルボボは、お前にとって特別だったんだな」
「はい。今ですから話してしまうと、夢の中であの赤い猿は私のことをジッと見ているだけで、当時はわりと怖かったんです。
あと、自転車置き場でオシエドリでしたっけ? 結局、普通の鳥じゃなかったなんて、なんだか哀れんだ気持ちが損した気分ですけど、それを襲う姿を現実的に見てとうとう畏怖すべきものになった、みたいな感じだったんです。でも、同時に私の持ってるサルボボなんだって、直感的に分かった。
それから、あの猿は夢の中で様子がおかしくなって。身体が何かに蝕まれていくように、どんどん欠けていくんですよ。それで、声も聞こえるようになって、そんなときに猿は初めて言ったんです、壊しなさい……って。
はじめは意味が分からなかったけど、サルボボのことだったんですよね。
思い返せば夢を見たときって、いつも何かで滅入ってたり悩んでたり、あとは怪我をしたときだったんです。
でも夢を見たあと、そういうのは何故かスッキリとしていたし、怪我もすごく早く治ってしまったり……まぁだから、そういう事だったんじゃないかって思いました。
サルボボが、守ってくれてたんだって気付いたわけですけど、半信半疑だったから。
確信できたのは、とうとう部屋で儀式を準備しているときって感じだった。いろいろ話してたじゃないですか、あの人が」
「俺らの話、聞いてたのか」
「聞こえては、いましたよ。起き上がることが出来なかっただけで。で、サルボボが幸徳池先輩に壊されちゃうって聞いて、それは私が私自身をたぶん許せなくなるから、どうしてもそれだけは私がやるべきと思って。
向き合って確かめたかったし、伝わるなら伝えたいことだってあったし、気づけば体が動いてたって……そんな感じ」
「なるほどな……」
「とは言え、わたしは最後の最後まで自分のことも紫苑のことも、信じきれずに二の足を踏んでた。
サルボボをどうすべきなのか、付喪神にどう向き合うべきか、躊躇してばかりいたその結果があの日なんです」
「それでも、最後の最後には一歩と言わず、何歩も踏み出したじゃんか」
「肩を借してきた誰かさんのおかげですね」
「その誰かさんは、きっと散々だったろうな」
「貴重な体験したんじゃないですか、でも」
よく言うぜ、全く。
「まぁま……貴重には変わりねーのか」
「正直、嬉しかったんですよ。私の体もですけど、思いっていうか決意もしっかり支えてくれたのは。
話して良かったって、あの時こそ思いましたからね」
「そりゃ何よりだ」
「だから剣見先輩……どうも、お世話になりました——」
警戒心が服を着たように、仏頂面を始終見せていたあの莉音が、こうも爽やかで穏やかとも言える笑みを、一介の女子高生らしく向けてきたことは、胸に迫るものがあった。
そして、こんな顔をできるような人生をこれからも送っていけよ。なんて、ちょっと先輩ぶった気持ちを持った俺はこう返す。
「ま、頑張ったな——」
⭐︎
さて、その日の夜。自分の名前が記された紙タグを取ってパステルカラーの巾着を開いてみたわけだけれど、その中身を目に入れた瞬間、俺は思わずクスリと笑ってしまった。
いったい、何が入っていたと思う? お菓子じゃなかったが、おかしなものではあった。
「なんだよ、うまいじゃん」
それはサルボボだった、青色の。同封されていた一枚の便箋には、誰から聞いたか知らないけれど、こんなことが書いてあった。
『青色は勉強運に効果あるらしいです。勉強に困ったら言ってください。二年生の範囲も、もうやってるので』
「なんだそりゃ、そこまで困っちゃねーよ」
このサルボボも何年と持ち続けていけば、やがては俺を守ってくれる付喪神でも憑くのだろうか。だとして、莉音と同じような目に遭ったとすれば、俺はいったいどう立ち回るだろう?
そう考えると、こういう何かの節目を経て人から贈られた物というのは、造作も無く壊すことなんて出来るわけもなく、そこには躊躇する気持ちの一つも生まれて当然だと思えた。それを莉音は、自ら受け入れてやり遂げたわけだから、ひょっとすれば物凄い胆力の持ち主かもしれん。
ちなみに後日、幸徳池にもサルボボがてっきり渡ってるのかと思って、何気ない会話の流れでポロッと話題にしてしまったのだけれど。あいつが貰っていたのはサルボボではなく、小洒落た焼き菓子だったらしい――




