13【失ったモノ】
後日談。
結論から言うと、瓮は抱えていた例の問題を見事解決してみせた。
陸上競技に対して自分なりに思うところがあり、もうやめたいという本心を、親に打ち明けたらしい。
それを聞いて両親は、拍子抜けするほどあっさりと認めてくれたそうだ。
瓮が陸上競技のことで悩んでいたのは、とっくに分かっていたらしい。ただ、人格的な悩みではなく、アスリートとしての悩みだと思い込んでいたがために、過度の応援という結果に繋がってしまっていた。
瓮の言葉を聞き終えた両親は、涙して謝ったという。気付いてあげられなくてごめんね、と。
これを聞いた俺は、なるほど思いやりの化身のような娘が育つわけだと勝手に納得してしまった。
ちなみに陸上部は、やめていない。惜しまれながら、マネージャーになった。
さて……この顛末だけを聞けば、めでたしめでたし。児童文学のように終わることもできただろう。
現実はしかし、絵本のようにはいかなかった。瓮が失ったものが判明したのだ。
元陸上部エースにして校内のスター、羨望の眼差しを受け続けてきた瓮爽羽。陸上競技に愛されながらも、とうとう自分から恨むらくは愛することが出来なかったあいつは、『走る』という概念を、あの日から失っていた――走れなくなった。
ところで、巷にはこういう病がある――『青い鳥症候群』。
自身の抱く理想的人生と、現実における社会や環境とのギャップ。その乖離に苛まれ、病的な精神状態へ陥ることを指す。
例えば、ここにいなければ絶対にもっと自分に合った交友関係が築けるはず、とか。今の相手よりもっと幸せにしてくれる誰かが、探せば間違いなくいるはず、とか。
つまり現状に満足できない状態。今の環境を捨てれば良いことが待っているに違いない、なんていう心理状態。要するにそういうのを何の根拠もなく、理想たる青い鳥の形で追い求めてしまうこと、そのさまが青い鳥症候群と呼称される。
瓮は理想を追いかけ、怪異に行き合った。青い鳥を追いかけ、現実に行き合った。しかし現実を見て、青い鳥を得た。大惑不解とは、よく言ったものだ。
つまるところ狗神は、いずれにせよ瓮から陸上競技の可能性を奪う存在であったと言えよう。
しかし、なし崩しか否かでは、同じ結果でも意味合いが異なることだろう。自助努力によって彼女は成し遂げたのだから、それは大いに寿ぐべきだ。
そして思う。未だ変わらずに、瓮の周りには前と同じくして取り巻きは絶えないわけだから、きっと青い鳥よろしく、幸せっていうのは案外すぐ目の前に転がっているものかもしれない、なんて。
⭐︎
――そんな話を俺はこの日、例の場所の越後へ話しに行った。もちろん、デリケートな部分は伏せてあるし、今回の一部始終をざっくり説明したに過ぎない。
「――へーぇ、もうその手にあった歯形は治ったの?」
ベンチの上でキョトンと見てくる越後に手を見せる。
「ほら、もうすっかりだ。たぶん一日もかかってないな。言っちゃあライオンに咬まれたと言っても差し支えないレベルだったんだぞ。それが歯形のアザに、気づきゃ変わっちまうなんてさ」
「ふーん、良かったじゃない。でも残念だねぇ、お耳」
「ああ、ケモ耳な。そーなんだよ、もっと感触を覚えていたかったけれど、何せモメてる最中だったから」
なんて手を開閉しながら記憶を辿ってみる。
「もう一回頭触らせて貰えば? そしたら当時の記憶が蘇るかもよ?」
「できるわけないだろそんなこと。そりゃあ、ちょっと人より信頼関係ができたとは、烏滸がましくも思っちゃっているけれど、『よ、ちょっと頭触りたいんだけど、いい?』みたいなこと気軽に言っていいレベルの仲にはなってないんだよ」
「ええー? そうかなぁ」
「そうだろ、なんでそう思ったむしろ。疑問の余地すらないわ」
「んー、それだけのことやってくれた人だし。私だったら、別に拒否しないけどな。
ていうかね、女の子の心にはスイッチがあるんだよ」
「スイッチ?」
「それが押されると、基本的になんでもオッケーなんだよね。いや、オッケーになっちゃうんだよね」
「なんだその便利なスイッチ。どこにあんだよ、今押してやろうか」
「いやね、だけどまぁそのスイッチが押せないわけなんですよ、だいたいは。
暗い部屋でスイッチ探すの難しいのと一緒でさ。だから、押そうと努力をしてくれた人を、その努力のあり方を吟味していくんだよね。
とは言いつつも、最終的に押させて良いかどうかは自分で決めるわけなんだけど、まれに気づかないうちに押されちゃってるパターンがあって。まぁそれが? たぶん剣見君……キミなのだとワタシ、イマ思ってマス」
「なぜ最後、カタコト」
「それって彼女にとって恋の始まりじゃんって、だから私は言ってるんだよねぇ」
自慢じゃないが俺は、これまでの人生で恋と断言できるような経験は一度たりともない。
女性に興味が無いとか、僻んで恋を否定しているとか、そういうのでは別にない。興味があるし、そりゃ年頃なのだからおっぱいやら何やらも、健全な男子が持つ程度には大好きである。ただ……恋となるとそういうのとは違うのだろうから、じゃあどういうことかというと、そこで俺はいつも行き詰まる。
――恋とはなんぞや?
「あんま分からんけどそういうの。まさか、そんなことは起こらんだろうよ。
あーそだ。それで思い出したんだけど、本当のことを話そうと思っててさ、あいつに。嘘ついたまんまだと、なんだかむず痒くて」
「えなぜ? 私のこと、まだ片思いしてても別に良いんだよ?」
「どうせさせるなら両思いにしろ! だいたい俺が、お前に片思いしてる想像がまずできないな。つまり、逆立ちしてもあり得ない」
「んじゃあ、三点倒立ならあり得る?」
「おい、点が多ければ良いのはテストと試合だけなんだよ、無闇やたらに点を増やすんじゃない」
「あはは! まぁぁ、瓮さんっていう子はあれだね。馬鹿真面目だったんだ」
「それな。俺が苦手なタイプだったり、実はしたんだよ」
「たしかに、剣見君には実直なキャラよりも、抜けてたり風変わりだったり、一癖あるようなキャラの方が相性良さそうだもんね」
「その言い方はそれでなんか……なんだ、ゲテモノ好きみたいな感じで得心しかねるな」
「目玉焼きに中濃ソース、サラダにフルーツ、そういうのを好みそうな気がするんだよねぇ」
「普通に目玉焼きには塩。サラダにフルーツは……家で出されるのは確かに入っちゃいるけれど、別に好きって訳じゃないな」
「あらま、ハズレだったかぁ。私はね、マヨネーズ」
「目玉焼きに?」
「うん」
「それ、美味しいの?」
「美味しく無かったらやってないよ?」
そんな不可思議そうな顔をされても。
「まあ」
「ところでさ。走れなくなったっていうのはさ、どういうことなの? そこだけ少し分からなかったんだけど。なんかすぐに息切れしちゃうとか?」
「いや、そんな更年期のオッサンみたいなんかじゃなくって、ほんとに走れないんだよ。
見せてもらったんだけど、脚がもつれて転びそうになるんだよな」
「想像つかないなぁ、それは大変というか残念だねえー」
「そうなんだよな、あいつこれからずっと走れないのかって思うと、やっぱ代償はおっきいわな」
「それでも、ちゃんと助かったところはあるしね。平気でしょ、歩くことはできるし! なら歩いてどこまでも行けるよ。
さて、剣見君」
「なんだよ、改まって」
「本当にお疲れ様でしたっ、代わりに褒めてつかわそー!」
無邪気に笑って、俺の頭を撫ぜる越後。
「……やめんか」
「いーじゃん! 減るもんじゃないし、素直になりなさいっ」
まぁ、たまにはこういうのも悪くないか。というか、こんなことされるのは子供の頃以来だ。大人になるっていうことは、頭を撫でられる機会がなくなるということ、なんて言えるのかもしれない。
なら、俺は越後にとってはガキなのだろうか。




