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  作者: 左猫右雛
第一章
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10/39

10【瓮 爽羽 上】

 (もたい)の家は、団地。部屋はC棟406。

 瓮にラインを送ってみたが、やはり既読にはなっていない。電話も果然(かぜん)繋がることはなかった。

 しかし、訪ねてしまえばきっと母親が出て来るだろう。瓮は一人っ子のようだし。家人さえ出てくれば、あとは説明が必要な配布物などがあると言って通してもらえばいい。

 とは言え、このとき俺はとある筋から瓮に関する重要な情報を入手していた。瓮は俺に対して音信不通を決め込んでいるが、陸上部のラインには抜かりなく返事をしていたということだ。これ即ち、そうやって返せるだけの余裕はあるということ。同時に、俺に対しては思惑をもってわざと返していない、という意味になる。

――ピンポーン。

 このあと何度か鳴らすもダメだった。

「あ……」

 だがここで俺はようやく思い込みに気付くのだった。

 平日の夕方だ。瓮以外に家人がいるという前提で来てしまったが、母親が必ずこの時間帯にいるとは限らないでないか。買い物とか、共働きとか大いにあり得るはず。なんなら、瓮本人が不在だという可能性ですらそこにはあったと言える。

「さて……」

 ならば、と俺はスマホを取り出した。

『さっき(とばり)公園(この団地の前)で鳥が怪我してて、とりあえず保護したんだけど』

 そんなメッセージを送りつけてやった。

 これで釣れればさすがに笑ってしまいそうだ。というか、良心の呵責(かしゃく)的な意味ではむしろ笑えない。たぶん引っ掛かりはしないだろうから、二段目の方策を講じることになるだろう――なんて思っていたが。

――ガチャンッ!

 勢いよく開いた扉、鼻を抜ける瓮の匂い。ニット帽に部屋着姿の瓮が、見開いて固まった。

「へっ!? どうして剣見がここに……」

「さっきの、嘘なんだ。悪いな」

「は……なに、ウソってなんで。あぁ、そういうこと」

 真意をすぐに察してくれた。むしろ、返事を怠っていた自分が招いた結果であり、負い目を感じる仕草こそ見せてきた。

 つまり風邪は、真っ赤な嘘だ。ではなぜ嘘をついたのか。それは、彼女の姿を見ると明白だ。

 リビングに通された俺は唖然とさせられる。

「マジかよ……これ」

 外に出るから寝癖でも隠そうとして、慌ててニット帽を被ってきたのだろうと思っていた。が、それは違った。

 リビングの椅子で向き合った彼女の頭には獣の耳が、ぴんと天に向けて立派に生えていたのだ。

「今朝起きた時にはもう……親にはなんとか風邪で通した」

「……リアルけも耳」

 ふさふさで柔らかそうだ。漫画やなんかじゃ見たことはあるけれど、実際に見ると筆舌に尽くし難いものがある(良い意味で)。

 とても触ってみたいが、そんなデリカシーの無いことは到底できまい。こんなに可愛い見た目をしちゃってはいるが、いま起こっている事態は何せ、全くもって可愛げが無いことなのだ。

 つまりこれは、幸徳池の言っていた『結びつき』なるものと見て、概ね差し支えないのかもしれなかった。

 獣寄りになってしまったというのは、イコールして怪異よりになってしまった、と言い換えられる。

 しかしそれでも、最終的なデッドラインとなる『首に出る傷』は見た限り無い。

「あれから傷は、増えたりしたか?」

「それは平気。前とあんま変わってない」

 無かった症状が新たに加わっただけ。

 強い結びつきを持つと剥がすときに失うものが出る、みたいな話だったが、これはどうか。良い兆候でないのは確かだが、幸徳池がいないと具体的にはサッパリだな。

 というか、この怪異現象もそうなのだが。俺にはもっと気になることがあった。

 この家の『おかしさ』――である。

 壁に飾られた輝かしい写真や、メダル、賞状の数々。所狭しと並ぶ、陸上競技に関する専門誌、トレーニング本。冷蔵庫に貼られた細かな食事制限日程や、懇切丁寧そうなメニュー表(ここからだとよく見えないが、カロリーとか栄養素のバランス内訳っぽい)。ドラッグストアのように並ぶサプリメント。そしてリビングのサイズには、あまり似つかわしくない大きさのトレーニング器具。

 それだけ見れば、高校陸上競技界におけるスターの家庭なのだから、別段あることはおかしくないのかもしれない。おかしいのは、それらが『ある』ことではなくて、それだけしか『無い』というところで、それを異様だと俺は感じていた。

 俺の家なんかはリビングに、姉が放置した雑誌だったり、母が途中で投げ出したダイエット器具だったり、海外赴任で普段は家を空けている父が使っていた無駄に幅をとる足湯マシンだったり……俺からすると何の価値もない不要品と捉えることができるものが、やはり色々あるわけだ。

 そんなふうに、家人の気配はどうしたって共有空間には感じられるものなんじゃないだろうか。

 しかしここはどうだろう?

 目につくもの全てが、陸上競技に関するものばかりで、生活感とか暮らしぶりみたいなものが毛ほども窺えない。例えるなら、アスリートの合宿部屋だ。少なくとも家庭というニュアンスは似つかわしくない空間が、そこに広がっているように思えた。

 仮に、一人暮らしの家として招かれたなら、こうまで違和感を持つことはなかっただろう。

 だが事実、ここは紛れもない一家三人の一世帯であり、彼らが共に住まう家。表札からも窺える通り。

「剣見……これ、やっぱマズかったりする? ウチどうなるの……?」

 獣耳をさっきからしきりに触っている。俺も触りたい。この世に今あるどんなものより、たぶん俺は触ってみたい。そのためならお金だって(いと)わない覚悟だ。

「悪いけど、俺には分からないよ。幸徳池ならまだしも、俺は見えるだけでそっちの知識は無いからな」

「そっか。まぁ、言ってたもんね……」

「ていうか心配したぜ。要らぬ憶測まで、おかげでしちまったし。耳はともかく、それ以外無事そうなら取り越し苦労だったかね」

「……ごめん、そうだよね。心配しいっぽいしね剣見って。

 でも、急に怖くなって……どうしたらいいか、誰かに会うのもさ。今朝これに気付いて、そこからは時間がすごく長く感じるんだ。変な話もう何日も、こうしているような、気分で。

 でも、こうなってみてからさ……気付くこともあったんだよ。因果……って、いうのかな。

 剣見。ウチさ――」

 続く言葉を出すより先に、彼女は立ち上がる。

「あぁ……喉、渇かない? ちょっと待ってて。飲み物、入れてくるから。幸いお母さんもパートでさ。よる、に……帰ってくんだ」

 そう言うと、重い足取りでキッチンへ。

 大事な話を前に心の準備をしたいがため、わざと中座(ちゅうざ)した気がしないでもない。妙に強張った顔をしていたし。

 このあと、『やっぱり儀式が怖いよ』なんて、らしくもない台詞を吐かれたらどうしようか。だとすれば、万難(ばんなん)を排して連れて行こう。それこそ、病院を嫌がる犬を連れて行く如し。

――パリン!

 いきなりガラスの割れた音がしたことで、俺は咄嗟にキッチンを見る。というか、瓮を見た。

「おい、大丈夫か?」

 返事は無い。ビックリして固まっているようだ。割れたであろうものを拾う仕草も見せず、ただ突っ立つ。

 行ってみれば、足元にはガラスの破片がいくつか散らばっていた。飲み物を入れようとしたグラスを落としたらしい。オレンジジュースが床に少し飛び散っている。

「おいおい……瓮、大丈夫か? 危ないから動くなよ。ガムテとかある?」

「っ……ああ、ある……はぁ、はぁ」

 様子がおかしい。

「ん、おい瓮?」

 馬鹿だった。いま目の前にいるのは、瓮であるのは間違いないが、同時に怪異そのものに近くなった存在とも言えるのだから、もっと早く警戒すべきだった。

 それは一瞬のこと――手首に走る激痛で理解した。

「へぐっ!? う()っ、でええぇーーッ!!」

「グルルルウ……!!」

 噛みつかれた――歯を、牙をたてて。否、『咬みつかれた』と、国語的には表現すべきか。

「痛いってーんだよッハナセェ……ッ!!」

「ガウウウウっ……」

 瓮爽羽では、もはやなかった。目は血走り、牙で獰猛(どうもう)に咬みつく姿がそこにはあった。

 というかわりとマジでヤバい。このままだと肉がもってかれる。

「痛いッつってんだくそがァーッっ!」

 殴ろうとした左腕を、しかし俺はすんでのところで止めた。

 普通じゃない姿とはいえ、目の前の少女は紛れもなく瓮本人。そんな瓮の顔を……言い換えれば、思春期の少女の顔を殴りつける行為に、俺はたぶん本能的に躊躇ってしまった。

 だから、噛みつかれた右腕を押し当てるようにして壁へ叩きつけ、獣耳を力の限り、あさっての方向に引っ張りあげた。

「んぎゃあ……うッ……」

「よしっ……!」

 手首から牙は抜け、静かに流れる血は床に。

 瓮の身体は嘘のようにすーっと力を失い、口に似合わぬ牙もまた、萎むように普通の歯へ戻っていった――人に、戻ったようだった。

「はぁ、はぁ……勘弁しろよ、ウォーキングデッドか畜生」

 狗神って感染したりしないだろうな、なんて少し不安になる。

「おい瓮……平気か?」

「……」

「おいって……!」

 頬を叩いてみる。やや目が(うつ)ろではあったものの、瞳孔が開いているわけでもない。どうやら意識は、ちゃんとありそうだ。

「ウチ……ごめ、ん。ごめん……」

 静寂のなか、壁にもたれた瓮の顔は下に向く。弱々しく震える肩は凍えるように、溢れた涙は俺が落とした血の色を、ポツリポツリと薄めていった。

 しかし、今しがたの『ごめん』という言葉は、俺を怪我させたことに対してではきっとないだろう。これから起こることに対して、始まってしまうことに対して、その謝りを先に入れてきたという気が、俺にはした。

 そんな予感は、やはり的外れではなかったようで、瓮はそこで独りごちるように語り始める。

 それは瓮爽羽の抱える、俺の知らない……いや、誰も知らないであろう独白。もしこの物語において、主人公が罪を感じていたのならば、『自白』と、言い換えることがひょっとすればできたかもしれない――

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