電波 第9話
綾乃は重い足取りで廊下を歩いていた。
さっきのエレベーター。
あのノイズ。
あの声。
そして、“黒い影”。
全部、気のせいとは思えなかった。
だが警視庁でそんなことを言えば、頭がおかしいと思われる。
綾乃は無意識に携帯電話を握りしめた。
画面は消えている。
だが、さっき表示された《CONNECTED》の文字が頭から離れない。
その時。
総監室の奥から、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
女性の声だった。
「あははっ、だからそれ絶対サボってたでしょう?」
「失礼だな。ちゃんと現場にはいた」
男の声。
どこか気怠そうで、やる気のない喋り方。
綾乃は眉をひそめた。
聞き覚えがある。
「あの……」
恐る恐る総監室の入り口から中を覗く。
そこには。
警視庁前でぶつかった男――火宮拓哉がソファにだらしなく座っていた。
ネクタイは緩み、資料は机に散乱。
警視庁とは思えないほど緊張感がない。
その向かいでは、一人の女性が笑っていた。
黒髪のショートヘア。
知的な雰囲気。
スーツ姿。
だが普通の秘書には見えない。
視線が鋭すぎる。
『……いた』
綾乃は思わず顔をしかめた。
『さっきの最悪男……』
その時。
女性が綾乃に気づく。
「あら?」
柔らかな笑み。
だが目だけは綾乃を観察していた。
「何か御用ですか?」
綾乃は慌てて背筋を伸ばす。
「あ、あの! 下の受付で、こちらへ来るよう言われまして……!」
女性は少し驚いたように瞬きをした。
「あなたが神崎綾乃さん?」
「は、はい!」
女性は火宮へ視線を向ける。
火宮は雑誌を読みながら、興味なさそうに呟いた。
「へぇ……こいつか」
「こいつって何ですか!」
綾乃は思わず言い返す。
火宮はちらりと綾乃を見る。
その目は眠そうなのに、妙に鋭かった。
「元気だな、新人」
「あなたがやる気なさすぎるんです!」
女性は吹き出した。
「ふふっ……面白い子」
その時だった。
総監室奥の扉が開く。
重厚な空気が流れ出る。
現れたのは、警視総監・糠田だった。
五十代後半。
厳つい顔。
だが、その目には妙な疲労感がある。
糠田は二人を見るなり低い声で言った。
「二人とも、中へ入ってくれ」
そう言うと、再び部屋へ戻っていく。
綾乃は一瞬固まった。
「え……二人?」
火宮は面倒臭そうに立ち上がる。
「呼ばれてるぞ」
「いや、何であなたまで……」
「知らん」
絶対知ってる。
綾乃はそう思った。
火宮は欠伸をしながら総監室へ入っていく。
女性秘書はそんな綾乃へ微笑みかけた。
「大丈夫」
「最初はみんな、そういう顔するから」
「……最初?」
女性は意味深に笑う。
「自己紹介がまだだったわね」
「私は篠崎美紀」
「S.P.D.の管理補佐をしてるの」
「……S.P.D.?」
綾乃の表情が曇る。
地下三階。
特殊資料対策室。
嫌な予感しかしない。
美紀は小さく肩をすくめた。
「まあ……簡単に言えば」
「“普通じゃない事件”を扱う部署よ」
その瞬間。
ザ……
綾乃の携帯電話が微かに震えた。
綾乃の顔色が変わる。
だが美紀だけは気づいたように目を細めた。
「……あなたも聞こえた?」
「え……?」
美紀は笑顔のまま答えない。
だが、その空気が一瞬で変わった。
軽い雑談の空気ではない。
まるで何かを確信したような目。
その時。
総監室の中から糠田の怒鳴り声が響いた。
「火宮ぉ!!また勝手に捜査資料持ち出したな!!」
「借りただけです」
「返してないだろうが!!」
綾乃は呆然とした。
美紀は小さくため息をつく。
「……相変わらずね」
だがその目は、少しだけ笑っていた。
そして綾乃はまだ知らない。
この部屋へ入った瞬間から、
自分が“普通の事件”へ戻れなくなることを。




