12.
夜が大分深まり見せていた、そんな頃。
(ふう……)
宿屋となっている銀の雫亭二階、その中の一室に、卓に酒壜とランプを置き肴もなく一人ちびちびとやるリロイの姿があった。むろんいつもの厚ぼったい外套は脱ぎ、上衣とズボン姿となった、かなりリラックスした状態である。
「うーん、リロイ様、食べすぎ……」
その隣、二つあるベッドの内の一つで、既にティコが穏やかに寝言混じりの寝息、立てていた中。
(結局、アリソンが言った通りほとんど収穫はなかったか……だが、後はどうする?)
……むろんその頭の中では、先程からずっと答えのない問題への物思い、つらつら飽きもせず続けていて。
すなわち今は他でもなくガルフをどうやって解放するか、その一点ばかりが気になって仕方なかったのだ。つまりあの家臣は牢獄で自分がどれだけ叫んでも、まるで起きる気配見せなかった訳であり。
(まさかあいつには何らかの魔法、掛けられている?)
当然ながらその異常とも取れる光景は、そんな疑念もふと湧き出させる。
魔道士としての経験、かつ鋭い洞察から。
もっともでは本当にそれが事実だった場合、かえって問題は更なる混迷の極み、深めていく可能性が高かったものの。
(それだと、魔法の方にも対処しないと)
ただでさえ事態はやたら面倒、五里霧中な状況迎えていたというのに。
いまだそれらを解決へ導く道筋、まるで見つかることなく。
しかも肝心のサーナムス、かつての関係頼りとして会いに行った友は、しかし案に相違してというか予想通りというか、いずれにせよまったくこの件に関して取り合ってもくれず。
むしろその言葉の端々から、自分のこと邪魔に思っているのが明らかだったくらいであり。
当然、霧の谷の領主の、揺るぎない義務として。
そう、結局こうした困難で身動き取れなくなった状況下においては、ティコの提案通り一旦ここを離れた方がまだマシだったのかもしれなかった。
まさに急がば回れ、と古来より言われているが如く。
発想の転換とでもいうべき。
「ん?」
特にまだ、さほど急ぐ必要がない以上……。
だが、そうした頭悩ませる諸々の事象がゆえに、だろう。
問題山積、余りにも、そうもはや無謀とも思えるほど頭働かせ過ぎ、ついには発煙までするかと思われた、……しかしその時。
一瞬の間、その静寂をついて――。
(! 今のは?)
刹那ふいにリロイの鋭敏になったセンサーは、扉の外から何やら怪しげな音がしたのを僅かに感じ取り、
それは廊下を密やかに進む、何者かの足音であったか。
それも複数の。
――明らかに存在を消そうとしている。
「ちい、面倒な……」
ゆえに舌打ち混じりにそう小さく零すと、次の瞬間その身体は素早く、闇夜の獣の如く席から立ち上がっていたのだった。
◇
眩しいくらいに輝き放つ、長い金髪。その下には紅色の、しかしどこか自分とは異なる色合い持った優しげなアーモンド形の瞳。むろん肌は歳に似合わず雪花石膏の如き真白さで、そのスラリとした全身を緩やかな淡緑色のワンピ―スで優雅に覆っている……。
(母さん……)
むろんそうして目の前に立っているのは、アリソンにとって掛け替えのない人物に違いなく。
自分にひたすら惜しみない愛を与え、
何より、どんな恐るべき危険からも常に守ってくれた。
そう、文字通り全身全霊で。
ゆえに少女はそんな相手がすぐ傍に、しかしそれでいてなぜかどうしても手の届かない場所にいることにはたと気づくや、途端胸の中に余りにも切ない思いが駆け抜けていったのを感じ、
「母さん!」
ついには大きな声を出して、何とか彼女の元へ駆け寄ろうとしたのだった。
もちろんそうすれば母はにっこり微笑んで向こうから近づいてきてくれたかもしれないし、また何より、焦慮により気持ちが慌ただしくなってしまった少女は、是が非でもそうせざるを得なかったのだから。
とにかく、その手を取るために。――そして、それをもう、何があっても決して離さないために。
エリザベト・クーデリウス。
最愛の、加えて最も尊敬すべき人物である、自分の母親の細い手を。
はたしてそれが今の自らに出来る、唯一で精一杯の行ない、いや償いであった以上――。
すなわちもう彼女と会えなくなってから、大分久しく。
その安否、余りに気になって仕方がなかった程。
……思い出したくもないあの不穏な夜に、してはならない契約を交わしてしまった、それ以来。
最悪の禁忌。
「エリザベト母さん!」
だが、それゆえに。
「! え?」
相手との距離を縮めようとしたアリソンがそうして悲痛な思い抱えたままさらに声を大きく、激しくした、その時。
それは目を疑う光景だったというべきか。
いずれにせよやっと愛する人と会えたというのに、それから間もなくして。
「そんな!」
天国すら彷彿とさせる、周囲には白い光が充満した、何とも不可思議な空間の中。
実際手を、しかと伸ばしたのにも関わらず。
突如としてそんな母の姿が朧にぼやけ出し、
さらにゆっくり、ゆっくりと霧の中に包みこまれていくように、しかし当の本人は物も言わず、しかも表情一つ変えずスッと消え始めると、
「ウソ、待って。どこ行くの?!」
そのあまりの惨い事象に、刹那少女はたまらずとうとう絹を裂くような叫び声、辺りへ響かせざるを得なかったのである。
「母さん!」
どこまでも、その切なる思い、届かせようとして。




