夢幻の如く
天正十年(一五八二)五月、安土城―
ある日のこと、信長は眠れない夜を過ごしていた。
頭はぼーっとしていたが、かといって眠ることもできず、夢か現かわからぬ世界にいるような気がした。
(久々だなうつけ殿)
(……誰だ?)
突然、声がした。聞いたことのない声だったが、どこか懐かしい気がした。
(……貴様は、今川義元か)
(はっは、たしかに昔はそう名乗っていたな)
(なぜここにいる。俺を祟りに来たか?)
(なに、ただ遊びたくて来ただけだ。随分見ないうちに変わったのぉ、うつけよ)
(ふっ、生きている限り人は成長するものよ。死んだ貴様とは違ってな)
(そうじゃない、孤独に怯える様になったという意味で言っている)
(なにっー)
(昔はそんな奴ではなかった。独りで戦っていてもなにを恐れている様子もなかった)
(……)
(真の孤独を知ってしまったか、うつけよ)
(……)
(孤独というのは独りで生きていることじゃない。トモ、即ち己を知る者がいなくなるということだ)
(……)
(一族を失い、義弟を失い、晴信・景虎といったトモを失い、お前は独りになった)
(……)
(寂しいか? 信長、ならば儂が地獄へ案内してやろうか)
(……いや、それには及ばぬ)
(ほう)
(俺はたしかに孤独を知った。だが、そこで止まっては貴様らに申し訳が立たない)
(儂らにか)
(左様、特に義元、貴様を乗り越えた時から覚悟は決めていた。でなければあのまま俺は死んだ方が良かった)
(はっは、良い覚悟だ。……だが、無理はするなよ)
(……忝し、然らば一つ問う)
(なんだ)
(トモを殺めるは孤独になるが、トモに殺められるは…… 孤独か?)
(ふむ)
(……)
(そうよの、そりゃぁ……)
(……)
(孤独から解放され、世界を受け入れるであろう)
気がつくと、朝を迎えていた。
(……夢か)
虚ろな世界から抜け出したように、頭が冴えわたっていた。
(そうだ。俺は立ち止まっていてはならぬ……)
信長は決意した。昔、父の葬儀で抹香を位牌に投げつけた、あの時のように……
羽柴秀吉軍陣営―
備中高松城を攻囲していた秀吉は、毛利本隊の到着前に決着をつけるため、大胆な策に打って出た。
「堤防を築き、城を水に沈める」
官兵衛に調べさせたところ、高松城一帯は湿地となっていて、水はけの悪い土地であった。また、雨季が近づいている時期であったため、水攻めは秀吉の採れる中での最高の策であった。
秀吉は、兵卒や農民といった下士百姓すべての者に高額な報酬を約束し、俵などの堤防となる素材を集めた。
銭の使いどころというのを秀吉は良く知っていた。信長の下で銭の必要性を知り、そしていつしか自らが銭を動かせるほどまでに経済感覚を身に付けていた。やがて、銭は俵へと変わり、堤防へと変わった。その早さわずか二週間足らず、東南に三十五町余、高さ四間余、底部十五間余、上幅七間余の大堤防が築き上げられた。
そして梅雨の雨が川を増水させ、高松一帯へと注がれていく、瞬く間に高松城は湖上の城へと変貌した。
(上手くいったな、これで宗治が降伏してくれれば良いが……)
秀吉は高松城主・清水宗治へ降伏勧告を出した。
(後はそのまま毛利が和睦してくれれば……)
と、秀吉は毛利の和睦まで考え始めていた。無論、信長に命令はされていない。彼の独断である。
(……もう、儂は一人で毛利と対等以上に渡り合っている…… じゃから……)
その脳裏には、安土の男が浮かんでいた。
(じゃから…… 儂が終わらせてやるんさ……)
先月のこと―
「なぁ…… おみゃぁは信長様の天下、どう思う?」
秀吉は雑務を終えた後、友の蜂須賀正勝を呼んで話をしていた。
「どうって…… 急にどうした」
「いやな……」
普段の秀吉の明るさはそこにはなく、どこか思いつめた表情をしていた。まだ小者であった頃からの付き合いである正勝は、今までに見たことのない秀吉の顔に、心配と不安の混じった気持ちが湧いてきた。
「信長様は、これまで天下布武を掲げて走ってこられた。どのような苦境に立とうとも立ち止まることなく儂らを引っ張ってきた」
「そうだな、だがそれに付いていったお前も大したものだぜ」
「……かもしれんな、いや、自分でも良くわかる。小者だった頃と比べ、儂は随分とでかくなった」
秀吉は煙管を吸い始めた。南蛮渡来の珍品で、信長の真似がしたくて買ったものであった。
「でかくなって、そしたら、色んなものが見え始めてよ。ずっと信長様の背中しか見てこなかったが…… 最近になって、周りのものが見えるようになってきて…… それで……」
「それで?」
正勝は秀吉の話を真剣に聞いていた。いつもなら途中途中茶化すつもりだったが、とてもそんな空気ではなかった。
「見えてしまったんさ、信長様の御心と、その先にあるものが」
「……」
正勝は秀吉の言っている意味を理解してしまった。彼もまた半兵衛・官兵衛に劣らぬ智者であり、彼の目にも色んなものが見えていた。
「信長様は唐入りされるらしい。日ノ本に敵がいなくなれば、次は外の世界と戦をされるそうじゃ」
「……」
「立ち止まれないんさ、信長様は…… 立ち止まった瞬間、下の者にひっくり返される。下克上の世はそういうもんじゃ」
「……」
「じゃから未来永劫戦い続けねばならないんじゃ、既に信長様は乱世そのものになってしまわれた……」
「……」
「そうなる前に支えたかったんじゃがな…… 既に遅かったわ」
「……」
「なぁ、小六…… 儂はどうしたらええんじゃろ、ずっと信長様の背中を追い続けてきたのに…… 今は、信長様を救いたいし、乱世も終わらせたい」
「……」
「こんなむごい戦をする時代はもう終わらせたいんさ、でもよ、乱世を終わらせるっちゅうのは信長様を…… 救わねばならん。が、それはつまり……」
秀吉はそこまで言いかけて言葉を詰まらせた。自分がとても恐ろしいことを言おうとしているのがわかっているからである。
正勝は黙って話を聞いていたが、秀吉の目に浮かぶものを見て、口を開いた。
「俺はずっと美濃の豪族としてやってきたがよ。その間、色んな奴を見てきた。ただ食うために働いている奴、名を挙げたい奴、出世したい奴、世の中には色んな奴がいる」
「……」
「だがどの奴にも共通して言えるのは、どいつも欲深いことだった。周りから見たらその欲の大小はあるかもしれないが、常に今の自分より一歩先を手に入れたいって奴らばかりだった」
「……」
「俺はそれこそが人の本質だと思っている。どんなに欲のない奴と言われている人間でも、それは自分のための欲じゃないだけで、人のために欲深く動いているんだ。すなわち欲とは、その者の願う在り方なのだと俺は思う」
「……」
「だから…… 藤吉郎、お前がそれを欲したのなら、自然なことだ。 ……俺はどこまでも付いて行くぜ」
「……済まぬ…… いや、 ……ありがとう」
秀吉はこの時、一つの決意をした。
(信長様…… その深き業の車輪、儂が止めちゃる……)
水没した高松城を眺めながら、心は既に安土に向けられていた。
時は過ぎ、水没してからも耐えていた宗治から、降伏を受け入れる使者が来た。また、毛利の外交僧・安国寺恵瓊も取り次ぎ、毛利との和睦に相成った。
毛利があっさり和睦したのは、秀吉の胸中を察していたのかもしれない。
高松城主・宗治は小舟で城外に出てくると、その上で一指し舞った。それから腹を割いて自害、その様子を見ていた敵味方すべての者から称賛され、以降の武家作法として切腹が根付くようになっていく。
「毛利は降った。これより、安土へ帰還する」
秀吉は軍をまとめて安土へと引き返し始めた。運命の時が着実に迫っていた。
近江国・安土城―
織田信長は、武田征伐の功を労うため、徳川家康を安土へ招待していた。
饗応役は明智光秀に一任、光秀は京・堺の珍物を並べ、贅を尽くしたもてなしを三日も催した。
普段、質素倹約で知られる家康もこの時ばかりは、信長と光秀のもてなしを喜んだ。
信長もまた光秀の働きに、
『生便敷結構(信長公記)』
と、満足した。
その最中のある晩のこと、光秀は信長と二人で話をしていた。
「此度の家康のもてなし、貴様に任せて良かったぞ。光秀」
「ありがたき幸せ」
「もはや、余がおらんでも日ノ本は貴様と信忠で治められようの」
「……如何な意に」
「……貴様を日ノ本へ残し、余は唐へ入る」
「……!」
「信忠を支え、日ノ本を治めてみせよ」
「……失礼ながら」
「なんだ」
「私は、上様と共に唐へ行きたく願います」
「……馬鹿者が!」
バキッー
途端、信長は怒声を上げて光秀を殴った。
「これは主命だ。逆らうことは許さぬ」
「……しかし」
「しつこい、これは主命だ」
「……」
光秀はしばらく沈黙した後、
「……出過ぎた真似を致しました。申し訳ございませぬ」
と言って、頭を下げた。
「……もう良い、それよりハゲネズミの援軍へ行け、どうも毛利に手こずっているらしい。余に直々に来てほしいそうだが、先に貴様を派遣する」
「ははっ」
「貴様が行けばすぐにでも片が付こう、毛利領はハゲネズミと共に好きに切り取るが良い。そこらの統治を任せて、余は九州へと進撃し、そのまま唐へ入る」
「ははっ」
光秀はさらに深々と頭を下げて部屋を出ていった。物騒な音を聞きつけたほかの者たちが駆けてきていた。
「如何なさいました明智様」
「……いや、大事ない、徳川殿への接待に不備があった故、叱られていただけだ」
「は、はぁ……」
「それでは、羽柴殿の援軍に向かわねばならぬ故、失敬」
光秀はそう言うと、足早に帰っていった。その様子を見ていた信長の小姓・森蘭丸が信長のいる部屋へ入っていった。
「上様、明智様をお叱りになられたとか」
「……あぁ、唐入りの件で奴が供をしたいと言ったのでな、つい突き放してしまった」
「そうでございましたか、しかし何故突き放されたのです?」
「……奴を失えば俺は俺でなくなる。これより入る唐の道は険しき戦い…… 奴を巻き込みたくないのだ……」
信長は光のことを思い出していた。面子のために伊賀を侵略したが、引き換えに大事なものを失ってしまった。唐入りにおいても、同じ愚を犯したくなかったのである。
「……恐れながら申し上げますが」
「なんだ」
「左様に唐入りが険しい道なのでしたら、日ノ本に留まり、孫様をあやす好々爺の道を選ぶのもまた良いのではないでしょうか」
「……ならぬ」
「何故に」
「立ち止まることも即ち俺の死、日ノ本から敵がいなくなれば、俺は外に出てでも戦わねばならん」
「そういうものなのでしょうか」
「……あぁ、俺はどうやら乱世に浸かり過ぎたようだ…… 戦わぬ道を選ぶことができぬ」
「……おいたわしや」
「そう言うな、たとえ孤独で戦い続けようとも、俺が創造した天下は既に形ができている。後は……」
「後は?」
「俺を越えて先に進む者が現れるのを願うのみよ」
「……」
信長は既に悲愴な覚悟を決めていた。桶狭間で自分が義元を討った時と同じように、誰かが自分を越えて行くことを心のどこかで願っていた。
丹波国・八上城―
安土城を出た明智光秀は、八上で戦支度をしていた。その合間に、例の件について思い悩み、一人夜の闇の中で刀を振り回していた。
(信長様、あくまで孤独の道を歩まれるおつもりか……)
自分を突き放してまで、信長は独り戦おうとしている。それが寂しくて仕方がなかった。それに、光を失ったことの悲しみ、孤独になるというのは、こういうことかと光秀は初めて実感した。信長が遠くへ行く、信長も孤独になれば、自分もまた孤独になると思った。
(孤独になってまで唐入りする意味があるのか、仮に必要なことと考えても、それで乱世は終わらせられるのか)
信長が君臨しつづけるために、そして、禄の安堵を保つために、戦いつづけ、土地を切り取りつづけるのは、もはや避けられぬことであった。しかし、
(それは結局、乱世のままではないか)
日ノ本の外といえど、戦いつづけるのは即ち乱世、ましてや下手に負けでもしたら唐からの報復を国内で受けるかもしれない。そのまま信長がいなくなったとしても、信忠がその政策と業を受け継ぐことになるだろう。
(もはや、信長様は乱世そのものになられてしまわれた……)
光秀は刀を振るのを止め、静止した。俄かに雨が降り始める。
(……)
しばらく無の境地に至っていた。雨がひたひたと光秀の体を打ち付けた。
途端、
シャァッー
光秀は刀を一振りに、雨の雫を切り払った。
(時は今……、その天命、断ち切って見せる)
八上城に帰った光秀は重臣・明智秀満と斎藤利三を呼び寄せた。
「夜分遅くに何用でございますか、明日は中国へ出陣なれば、早うおやすみになられた方が……」
利三が眠そうな目をして部屋に入って来た。秀満もつづいて入って来た。
「……いや、中国には行かない」
「!? なにを仰せになられる!」
光秀の言に利三はカッと目を開いて驚いた。
「色々と考えた。我らの役目は毛利を討つことではない。上様を…… 信長様を止めなければならぬ」
「……!」
「上様は唐入りという無間の闇に、しかも御独りで入られようとしている」
「……」
「孤独とは寂しいものだ。友を失い、敵を失い、上様は多くを殺めることで、天下孤高の国主となられた。その因果が今、巡ってきているのだ」
「……」
「私には、それがとても悲しく見える。誰よりも日ノ本を思い、誰よりも乱世に立ち向かい、誰よりも我ら下士の者たちを引っ張ってきた上様が、すべてを手に入れたように見えて、その実を奪われ、天命という力に支配されようとしているのだ」
「……では如何になされますか」
黙って聞いていた秀満が口を開いた。
「上様を天命が与えし絶望から救い出すため、そして、日ノ本の乱世を終息させるため、我が上様に巣食いし魔を討たん」
「……それは!」
「めでたきことに候、我がこの乱世に求めた天命が、ようやっとわかった気がする」
「……しかし、それこそ乱世が深まるのでは?」
「はっは、構わぬ、真の静謐とは嵐の後に来るもの、今一度、少しの間だけ乱世を色濃くし、それを平らげることで、日ノ本を静謐にせしめん」
「……」
「協力してくれるか?」
「……なにを仰せになられます。我ら光秀様の家臣なれば、その高き理想に、光を見てこれまで従っておりました。それはこれからも変わりませぬ」
秀満はそう答え、利三も頷いた。
「……ありがたし」
ここに光秀は、信長の魔を討つことを決意した。
天正十年(一五八二)六月、京・本能寺―
安土を出立した信長は、以前より京の拠点としていた本能寺に宿泊した。ここで、信長は大々的に茶会を開き、能楽者を呼び寄せ、大いに楽しんだ。
(これが最後の光となろう。後は、無間の闇に身を投じん)
信長は最期の時を楽しむかの如く笑っていた。
明智軍陣営―
八上城を出た光秀は、秀満ら重臣以外には真意を告げず、未だ中国攻めの方針で軍を進めていた。そして、中国へ向かう道と、京へ向かう道の分岐路に立たされる。
「これよりこちらが中国への道、もう片方は京へ行く道にございます」
「……京へ」
「……は」
兵士は驚いた。自分たちは中国へ行くはずなのに、なぜ京へ行かねばならぬのか、主の胸中を知ることができなかった。
「京へ参る。これより不慮の儀、出来したため京へ参る」
「……それは如何な意に」
「……」
「……いえ、出過ぎた真似を致しました。我ら明智様の兵なれば、その手足の如く動く所存」
「わかった。では、これより馬に布を噛ませ、兵らは音の出ぬよう、最小限の防具に着替えよ。篝火は消し、夜行をする」
「……明智様……!」
それだけの備えをすること、即ち京へ向かうは戦うため、すべての兵が察したわけではないが、多くの者がその意味を理解した。
「我が手足なれば、口出し無用」
「……いえ、一つ言わせていただきます」
「……なんだ」
「我ら、明智様こそ、天下を治めるに相応しき者と心得ております。今日までの織田の飛翔は、すべて明智様の功によるもの、然らば、いかな道を歩まれようと、天と、我らが付いて参ります」
「……ありがたし」
光秀は申し訳なくなった。
信長を討ったところで、信長に巣食う魔は自分の身に宿るであろう。さすれば自分が天下を平定に導くこと能わず、それが能うのは、さらに自分を超えていく者であろうとおぼろげに思っていた。そんな自分を天下に相応しき主として付いてきてくれる。そう考えるといたたまれない気持ちであった。
(もし私に天命があるのならば…… あるいは能うかもしれぬ)
少しの希望と大きな不安を抱えながら、今の光秀にはただ信長を目指すことしかできなかった。
「敵は…… 本能寺にあり!」
本能寺―
信長は夢の中にいた。
(はっは、うつけよ、無間の闇に向かう覚悟が出来したか)
(……義元か)
(……本当にそれで良いのか?)
(構わぬ、俺は日ノ本の王だ。孤独に閉ざされ、虚偽と思えし運命に惑わされたとしても、日ノ本の明日を創造せねばならぬ)
(……なぜ、そこまで世に尽くすのだ)
(そうよの、俺はこの日ノ本を…… 乱世を愛しておる)
(愛だと?)
(左様、古い木は枯れていくが、そこから新たな命の息吹が芽生える。それは永劫繰り返され、紡がれていく、美しいとは思わぬか?)
(ふむ、そうよの)
(特に乱世は下克上の世、古きを駆逐し、新しき命を芽生えさせる格好の時代だ。美しき静謐は、醜き時代にこそ輝くもの、故に俺は乱世を愛している)
(だが、貴様がいつまでも王でいては……)
(古きは消えぬであろうな、俺も既に古い人間だ)
(では、何故)
(超えるべき壁は、駆逐すべき幹は、強大であらねばならぬ、それを超越した時にこそ、より大きな命が芽生えるというものだ)
(……そうか、ならば喜べ、今まさに貴様を超えようとするものが現れよう)
(なにっー)
(……あの世で待っておるぞ……)
―――
信長は目が覚めた。外の方でなにかがうごめいている音がする。
タッタッタッタッタ
一人駆けてくる音がした。ガラッと襖が開くと、森蘭丸の姿があった。
「明智光秀様…… ご謀叛!」
「……」
「既に寺周辺を囲まれてございます。早くお逃げを!」
「……是非も無し」
「……は」
「俺は、この時を…… 望んでいた」
「……!」
「もはや逃げること能わず、もし逃げたとあらば静謐を手に入れること能わず」
「……」
「蘭、お前は逃げろ、俺のわがままに付き合う必要はない」
「……嫌でございます」
「なにっ」
「私は常に上様と共にありたく願います。上様の下を離れるは、私にとって無間の闇でありますれば……」
「……ありがたし、ならば共に最後の花を咲かせようぞ!」
「はっ!」
信長は自ら弓を手に取って明智軍を迎え撃った。
乱世の王ここに極まれり、自ら久々に弓を取ったが、何人も寄せ付けず、さながら素戔嗚尊の如き、戦いぶりであった。
信長が奮戦していると、明智軍の中に光秀の姿が見えた。
(……光秀!)
(信長様……)
二人は離れた距離で目を合わせ、心の内で語り合った。
(光秀…… 俺が憎くなったか? それ故の謀叛か)
(然に非ず、ただ貴方様に巣食う魔を討ち、天下に静謐をもたらす一心で参りました)
(……ふっ)
ガッハッハッハ
途端、信長は天地に響き渡る大声で笑った。
周りの兵たちは戦闘を忘れ、信長の方を見る。
で、あるか! 大義である。天下の明日はうぬらに任せる。さらばだ!
「……友よ」
最後につぶやくようにそう言うと、信長は寺の奥へ入っていった。
「な、なにをしておる! あれこそ我らが討つべき敵! 追え! 追えー!」
呆然とする兵たちに秀満が檄を飛ばす。明智兵は寺に雪崩込もうとし、織田兵は必死に食い止めようとした。
(……)
光秀だけが未だ呆然としていた。そしてなにを思ったのか、包囲軍の外側へと帰っていった。
寺の奥へ入った信長は命令を出した。
「男どもは寺に火を放て! 我が首を見事守ってみせよ! 女子供は逃げるが良い、明智なら必ず助けてくれよう!」
そう言うと、信長は部屋に一人になり、敦盛の舞を踊り始めた。
人間五十年
下天の内を比べれば
夢幻の如くなり
一度生を享け
滅せぬもののあるべきか
踊り終わる頃には、部屋周辺は炎に包まれていた。
「そうか…… これが滅びかっ」
信長はここにきて大いに笑っていた。
「義元! 俺も知ることができたぞ! トモに超され、滅びゆく者の気持ちが!」
信長は天を見ながら、そう叫んだ。
「真、愉快よ! 常に孤独と思うてきたが、かくも世界が美しく見えるとはな、 下克上より多くの者を超えてきたが、ようやっと超えられる側になったわ!」
ガッハッハッハー
「これにて下克上、大いに堪能したわっ」
信長の笑い声は、寺の外にも聞こえていた。
すっかり本能寺は炎に包まれ、もはや何人も入ること能わず、明智軍の兵たちは次々と脱出してきた。
信長の声がする方を眺めている光秀の下に、秀満がやって来た。
「殿、申し訳ございませぬ、信長の首、獲ること能わず」
「……良い、上様は最期まで崇高であられた。それに、既に魔は我が手中にあり、首は要らぬ」
「……では、鬨の声を上げましょう」
「あぁ、そうしてくれ」
光秀は周りの兵たちを見渡すと、
「皆、良くぞ戦ってくれた。これにて魔王は滅び、我が日ノ本の王となった!」
と、宣言すると、秀満が次いで、
「皆の者、新たな王の誕生ぞ! 鬨の声を上げよ! えい、えい」
『応!』
「えい、えい」
『応!』
明智軍の鬨の声は信長の声に代わり、天地を響かせた。光秀は、再び信長のいた方へ視線を向けた。
「……信長様、さらばです」
その脳裏には、先ほどの信長の姿があった。つぶやくように言っていた信長の言葉は、光秀の心にだけ届いていた。
「友よ」
そうつぶやくと光秀は本能寺に背を向けて歩き出した。
寺の中には信長だった者が、炎に焼かれて横たわっていた。
炎の灯りと、明智兵の声だけが京の街を包んだ。
光秀がしばらく歩いていると、
バサッー
と、音がした。
(なんの音だ)
途端、一羽の鷹が光秀の周りを旋回し、空高く飛び上がって行った。
その空は、あの時と変わらない神々しい輝きを放っていた。




