第九章 高騰
事件発生から四日目の未明、二人目が消えた。
東京都内在住、元刑事の坂本茂、六十一歳。
坂本の名前が浮上したとき、捜査本部には一瞬、異様な緊張が走った。彼は現職時代、ある殺人事件の捜査を担当し、状況証拠のみから一人の男を「有力な容疑者」としてマスコミにリークした経歴を持っていた。結果的にその男は不起訴となり、後に真犯人が別の事件で逮捕されたことで、当初の見立てが誤りだったことが判明する。しかし坂本自身が処分を受けることはなく、定年まで勤め上げ、今は悠々自適の年金生活を送っていた。
当時の捜査資料をひもとくと、坂本のリークは、事件の早期解決を焦った末の、明確な功名心に基づくものだったことがうかがえた。「これで手柄を立てられる」という趣旨の発言を、当時の同僚が聞いていたという証言も、内部の懲戒記録には残されていた。だが、警察組織内部の身内意識が、その証言を表に出すことを許さなかった。
田中は、その懲戒記録を読みながら、警察という組織そのものへの、複雑な感情を禁じ得なかった。身内を守るための沈黙が、結果として、一人の人間の運命を狂わせ、そして今、坂本自身を、この恐ろしい事件の標的にする遠因になっている。組織の論理と、個人の正義感の間には、時に、埋めがたい溝が存在するのかもしれなかった。
誤って容疑者扱いされた男は、その後も長く「疑わしきは罰せず」を信じない世間の目にさらされ続け、転居を繰り返す人生を送ることになった。当時の新聞記事には、坂本の名前は一切出てこない。「捜査関係者によると」という匿名の一文の裏に、彼の存在は完全に隠されていた。
「うちの身内が、標的になった……」
捜査会議室で、その一報を聞いた中川部長の声には、これまでにない動揺があった。彼にとって、坂本の名前は決して他人事ではなかった。同じ組織に身を置く者として、警察という看板の裏にある「個人の過ち」が、こうして白日の下にさらされる事態を、彼は誰よりも恐れていたのかもしれない。
「坂本の件は、上層部にも激震が走っている」
中川は、苦渋の表情で続けた。
「かつての同僚たちの間では、『次は自分かもしれない』という不安が広がり始めている」
「それは……」
田中は言葉に詰まった。
「分かっている。今、俺たちが優先すべきは、坂本の救出だ。組織の保身は、二の次だ」
中川は、自分自身に言い聞かせるように、そう言い切った。
「坂本の失踪が確認されたのは昨夜二十三時頃。今朝五時前、審判ライブの新しいセッションが始まりました」
美咲が報告する。
「配信タイトルは『審判ライブ #002』。対象は坂本茂で間違いありません」
「拉致の手口は、山本の時と同じか」
田中が尋ねた。
「はい」
美咲はうなずいた。
「防犯カメラの映像を見る限り、実行犯は複数名。手際も良く、プロというより、金銭目的で雇われた実行役という印象です。設計者自身が直接手を下しているようには見えません」
「つまり、システムを作った人間と、実際に手を汚す人間は、別だということか」
「その可能性が高いです」
美咲は言った。
「もしそうなら、頭を押さえても、末端の実行役まではたどり着けないかもしれません」
三、 加熱する「悪」の消費
「トークンの動きは?」
田中が伊藤に尋ねた。
伊藤の表情は硬かった。
「異常だ。#001の時よりも、はるかに速いペースでトークンが動いている。取引所の売買データを見る限り、開始から一時間で、前回の総量に匹敵するトークンが新規発行されてる」
「なぜだ」
「理由は二つ考えられる」
伊藤は言った。
「一つは、単純に事件の知名度が上がったこと。#001を見逃した層が、今度は乗り遅れまいと参加している」
「もう一つは?」
「――元刑事という属性が、より多くの人間の怒りに触れやすい対象だったこと」
田中は奥歯をかんだ。誤認逮捕、冤罪リーク、権力の濫用。警察官に対する不信は、社会の中に常に一定の熱量を持ってくすぶり続けている。坂本という対象は、山本大輔以上に「分かりやすい悪」として消費されやすい存在だった。
中川が、絞り出すように言った。
「坂本の家族には?」
「まだ、詳しい状況は伝えていません」
美咲が答えた。
「奥様は数年前に他界されており、現在は一人暮らしでした。近隣住民への聞き込みでは、温厚な人物として知られていたようです」
「お子さんは」
「息子さんが一人、地方に住んでいます」
美咲は続けた。
「連絡を取ろうとしていますが、まだつながっていません」
「早くつながるといい」
中川は、疲れた声で言った。
「こんなニュースを、本人以外の口から聞かせるわけにはいかない」
田中は、坂本の息子が、これから受け取ることになる知らせの重さを想像し、胸が締め付けられる思いがした。遠く離れた場所で、平穏な日常を送っていたであろう一人の男の人生も、この事件によって、これから大きく揺さぶられることになる。
「連絡がつき次第、丁寧に説明してくれ」
田中は言った。
「家族にとっては、どんな事実であれ、突然すぎる知らせになる」
「温厚、か」
田中はつぶやいた。
「配信の向こう側にいる人間にとっては、その温厚さすら、演技にしか見えないんだろうな」
田中は、坂本の自宅マンションの写真を見つめた。ベランダには小さな家庭菜園があり、プランターにはミニトマトの苗がきちょうめんに並んでいた。定年後、平穏な余生を送っていたであろう一人の老人の日常が、そこには確かに存在していた。
その平穏さと、彼がかつて誰かの人生を狂わせたという事実は、田中の中で、うまく一つに重ならなかった。人は誰しも、加害者としての顔と、隣人としての顔を、同時に持ち得るのかもしれなかった。その当たり前の事実が、今はひどく重く感じられた。
「大口保有者、ANONYMOUS_WHALEの動きは?」
伊藤はモニターを切り替えた。件のウォレットアドレスが、新たな取引を行っていた。
「今回も、開始直後から大量にトークンを買い増している。しかも今回は、これまでよりさらに積極的に、特定の選択肢――エスカレーション側に投票を重ねている」
画面に表示された選択肢の投票状況が、リアルタイムで更新されていく。
選択肢A:警察内部の不正を告白させる(謝罪配信)
選択肢B:過去の被害者への謝罪と賠償を強要する
選択肢C:――(伏字)
選択肢Cのバーが、他の二つを大きく引き離して伸びていた。
「止められないのか」
田中は伊藤に詰め寄った。
「取引所に要請して、このウォレットの取引を凍結することは」
「要請はもう出している」
伊藤は言った。
「だが、このウォレットが使っている取引所の一部は、海外の規制の緩い業者だ。凍結までに時間がかかる。それに――」
「それに?」
「たとえこのウォレットを止めても、他の何万という小口の保有者の合計が、しきい値を超えつつある。今回の対象に関しては、たった一つの大口保有者だけの問題じゃなくなってる」
モニターの中で、投票の進捗バーが着実に伸び続けていた。
田中はその数字の羅列を見つめながら、初めて明確な恐怖を感じた。
これは、誰か一人を逮捕すれば止まるものではない。
何万人もの、名前も顔も持たない指先が、じわじわと一つの結末に向かって、機械のように合意を積み重ねていく。
止める手立てを、誰も、まだ持っていなかった。フロアの空気は、まるで真綿で首を締められるような、じわじわとした緊迫感に満ちていた。誰かが小さくせきばらいをする音すら、やけに大きく響いた。
五、 届かぬ手と100万人の視線
「田中さん」
美咲が、震える声で言った。
「このままだと、坂本さんは……」
田中は答えなかった。答えられなかった。ただ、モニターの中で伸び続ける進捗バーを、拳を握りしめたまま、見つめ続けるしかなかった。
美咲の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。それは坂本個人への同情というより、この状況そのものへの、やり場のない怒りと無力感の表れのように、田中には見えた。彼女は交番勤務時代、市民から寄せられる小さな相談事一つ一つに、真摯に向き合ってきた人間だった。目の前で誰かが助けを求めているのに、何もできない――その状況ほど、彼女にとって耐え難いものはないのだろうと、田中は思った。
伊藤が、キーボードをたたく手を止めずに、低い声で言った。
「田中さん、正直に言う。今の俺たちの技術力じゃ、この配信の発信元を、リアルタイムで特定することはできない。せめて、事後の解析だけでも、次の手がかりにつなげるしかない」
「分かってる」
田中は答えた。
「今、俺たちにできることを、一つずつやるしかない」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるためのものでもあった。無力感に飲み込まれそうになる自分を、田中は、何とかその一言で、かろうじてつなぎ止めていた。
美咲は、涙を拭うと、再びキーボードに向き直った。彼女の指先は、震えながらも、止まることなく動き続けていた。その姿を見て、田中は、この若い部下の中にある芯の強さを、改めて感じ取っていた。
「田中さん」
美咲が、顔を上げずに言った。
「私達、絶対に、この鎖を断ち切りましょう」
田中は、無言でうなずいた。窓の外では、まだ夜が明ける気配を見せていなかった。
その時、モニターの前に張り付いていた別の捜査員が、緊張した声を上げた。
「田中さん、視聴者数が、百万人を超えました」
フロア全体に、重い沈黙が広がった。百万という数字が意味するものの大きさに、誰もが、事の深刻さを突きつけられていた。




