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コンセンサス ―合意という名の絞首台―』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第十章 自動執行

午前七時四十二分。

投票の進捗バーが、選択肢Cのしきい値に達した。


その数分前から、伊藤は「あと五パーセント」「あと三パーセント」と、まるでカウントダウンのように残り票数を読み上げ続けていた。誰かがその数字を止めてくれと願うように見つめる中、伊藤の声だけが、事務的な正確さで進捗を刻み続けた。


フロアにいた誰もが、モニターから目を離せずにいた。美咲は、両手を強く握りしめ、祈るような表情でその瞬間を待っていた。田中もまた、これまでの人生で経験したことのない種類の無力感に、全身を支配されつつあった。


捜査本部のモニターに映る配信画面に、一瞬、変化があった。コメント欄の流れが止まり、画面全体に短いローディング表示が挟まれる。まるでネットショッピングの決済処理が完了するときのような、あまりにも事務的な演出だった。


《選択肢Cが可決されました》

《処理を実行します》


誰かがマイクに向かって指示を出す声も、司会者のあおり文句も、そこには存在しなかった。ただ、コードが自らの規則に従って、次の画面を呼び出しただけだった。


田中は、その瞬間の空気を、生涯忘れないだろうと思った。


捜査本部にいた誰も、声を発しなかった。美咲は口元を手で覆い、伊藤はキーボードの上で指を止めたまま動かなくなった。中川部長は、モニターから目を逸らさず、しかし瞬きすら忘れたような表情で立ち尽くしていた。壁際に控えていた若い捜査員の一人は、思わず目を伏せ、それでもすぐにまた画面に視線を戻した。誰もが、見たくないのに、見ずにはいられなかった。


画面越しに、拘束された坂本の表情が変わるのが見えた。それまでは、どこか虚勢を張るような、あるいは「自分は元警察官だ、こんな脅しに屈しない」というような硬さがあった。だがその硬さが、ローディング画面の数秒間で、完全に崩れ落ちた。


「――待ってくれ」


坂本の声が、配信のマイクを通して響いた。それは、これまでの人生で一度も出したことのないような声だった。長年、犯罪者を追い詰める側にいた男の声とは思えない、剥き出しの、動物的な恐怖の声だった。


その先に何が起きたのか、捜査本部の記録には、必要最小限の事実のみが残されることになる。配信は、その後十数分にわたって継続され、視聴者数はピーク時に百二十万人を超えた。コメント欄には、悲鳴のような困惑と、それを上回る量の、もはや言葉と呼べるかどうかも怪しい興奮の羅列が流れ続けた。


田中は、その一部始終を見届けることができなかった。


途中で目を逸らしたからではない。刑事としての職務上、記録として直視する必要があると分かっていながら、それでも、モニターの前で一度、拳を握りしめてうつむいた。爪が掌に食い込む感覚だけが、やけに鮮明だった。


「……止められなかった」

美咲の声が震えていた。

「私たちは、ただ見てるしかなかった」


美咲の肩が、小さく震えていた。彼女がこれまで交番勤務で培ってきた「誰かを助ける」という職業的な誇りが、今、目の前で無残に踏みにじられているようだった。


田中は答えなかった。答えられなかった。


自分たちがやってきたことは、間違っていなかったはずだった。取引所への要請、技術解析、ウォレットの追跡――どれも、迅速に、可能な限りの手段を尽くしたつもりだった。


だが、結果として、田中たちは配信を見つめる百二十万人の視聴者と、同じ場所に立たされていた。画面の向こうで進行する暴力を、ただ見ていることしかできなかった、という一点において。


配信が一時的に終了したのは、午前八時十一分だった。最後の画面には、次のメッセージが表示されていた。


《審判ライブ #002 終了》

《次の審判まで、しばらくお待ちください》


まるで、テレビ番組の次回予告のような、あまりにもへいたんな一文だった。その落差――起きたことの重さと、表示された文字の軽さとの落差が、フロアにいる誰の胸にも、深く突き刺さった。


伊藤が、震える手でキーボードをたたいた。


「トランザクションログを見る限り……このコードは、感情もためらいも持たない。しきい値に達した瞬間、機械的に、書かれた通りの処理を実行しただけだ。それが恐ろしいのは――」


「なんだ」

田中が絞り出すように言った。


「この仕組みを設計した人間は、自分たちの手を汚さずに、何万人もの指先だけで、これを実行させることに成功したってことだ。誰か一人を捕まえても、責任の所在がどこにあるのか、法律的にすら、簡単には言えなくなる」


田中は、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。


脳裏には、数日前に削除したはずの、七年前の自分の投稿がよぎった。


軽い指先。合意。責任の所在の希薄化。


それは、いま目の前で起きたことと、地続きの場所にあるものだった。田中は、自分の中にあるその糸を、断ち切りたいと強く思った。だが、思うだけでは、何も変わらないということも、同時に理解していた。


中川部長が、長い沈黙の末に口を開いた。その声は、いつもの威厳を保とうとしながらも、どこかかすれていた。


「これは、もう単なる事件じゃない」


その声は、部屋にいる誰もが、すでに理解していることを、改めて言葉にしただけだった。


「これは、この国のどこかで、静かに育っていた何かが、ついに姿を現しただけなんだ」


窓の外では、いつも通りの朝が始まっていた。通勤する人々の波、コンビニの制服を着た店員、スマートフォンの画面に目を落としながら歩く学生たち。駅前のロータリーには、いつもと変わらないけんそうがあり、信号待ちの人々の列があり、遠くから聞こえる踏切の音があった。


その日常の中に、この事件のことなど何一つ知らないかのように振る舞う人々がいる一方で、彼らの多くが、今朝の通勤電車の中で、何気なくニュースアプリを開き、審判ライブの続報を目にしていることを、田中は知っていた。


そして、その中の何人かは、すでに小さなウォレットアドレスを作り、数千円分のトークンを、静かに買い足しているのだろうということも。


坂本の安否は、その日の昼過ぎになっても確認できなかった。搬送先の病院からの一報を、田中は、覚悟を決めた表情で待ち続けることになる。


捜査員たちは、防犯カメラの映像を頼りに、都内近郊の廃工場やレンタル倉庫を一軒ずつ当たり続けていた。だが、拉致から配信、そして配信終了までの一連の流れがあまりにも迅速だったため、犯行現場の特定には、想像以上の困難が伴った。田中は、部下たちの疲弊した顔を見るたび、自分に何ができたのかを、繰り返し自問せずにはいられなかった。


その日の午後、田中は一人、屋上に上がった。都心の空は、どこまでもへいたんに晴れ渡っていた。この平穏な空の下で、これほどの暴力が進行しているという事実が、田中には、どうしても現実のものとして受け止めきれなかった。


ポケットの中のスマートフォンが震えた。中川部長からの着信だった。


「状況は」

中川の声は、いつになく硬かった。


「まだ、坂本さんの安否は確認できていません」


「マスコミが、嗅ぎつけ始めている」

中川は言った。

「今夜中に、正式な会見を開かざるを得なくなるかもしれない」


「それは……」


「分かっている」

中川は、田中の懸念を先回りするように言った。

「会見を開けば、この事件は、もう後戻りできないほど、社会全体を巻き込むことになる。だが、隠し続けることも、もう限界だ」


電話を切った後、田中はしばらく、屋上の手すりに寄りかかったまま、動けなかった。この事件が、これからどれほどの規模に膨れ上がっていくのか、その全貌は、まだ誰にも見えていなかった。


夕刻、田中が屋上から戻ると、フロアには、これまでとは違う種類の緊張感が漂っていた。中川部長が予告した通り、大手メディア数社から、一斉に取材依頼が入り始めていた。広報担当者たちが、対応に追われる声が、廊下にまで響いていた。


「田中さん」

美咲が、疲れた声で言った。

「これから、もっと大きな渦に巻き込まれていくんですね」


「ああ」

田中はうなずいた。

「だが、渦の中心にいる限り、俺たちにしか見えないものもあるはずだ。それを、絶対に見逃さない」


窓の外に広がる夕焼けを見つめながら、田中は、これから始まる長い戦いに向けて、静かに気持ちを引き締め直した。


この日の夜、坂本茂の家族から、正式な行方不明者届が提出された。ようやく連絡のついた息子が、地方から急遽駆けつけ、書類に署名していた。その筆跡は、震えるようにゆがんでいた。


田中は、その書類を受け取りながら、この事件によって奪われようとしているものの重さを、痛感した。

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