第十一章 創設者アドレス
第二の処刑から三日が経った。捜査本部には、殺伐とした空気の中にも、わずかながら前進の兆しが見え始めていた。坂本茂は一命を取り留めたものの、意識不明の重体のまま集中治療室にいた。その事実は、捜査本部の誰にとっても、慰めにはならなかった。むしろ、確実に次の被害者が現れるという予感を、より強くさせただけだった。
この三日間、田中はほとんど自宅に戻っていなかった。仮眠室の簡易ベッドで数時間だけ眠り、目覚めるとすぐに捜査資料に向き直る。そんな日々の繰り返しが、彼の体力と精神を、確実に削り取っていた。それでも、田中の目に宿る光だけは、日を追うごとに鋭さを増しているように、美咲には見えた。
「絞り込めた」
伊藤が会議室に入ってくるなり、そう言った。目の下のくまは、もはや常態化していたが、その声には確かな手応えがあった。手にした紙コップのコーヒーは、すでに冷めきっているようだった。
「審判DAOのコントラクトがデプロイされたのは、半年以上前だと話した。あの時点まで遡って、デプロイに使われたウォレットアドレスの取引履歴を、根気よく追っていった」
「匿名の取引所を経由してたんじゃなかったのか」
田中が尋ねる。
「ああ。だが、完全犯罪なんてものは、こと暗号資産に関しては、まず存在しない。ブロックチェーンは全ての取引を永久に記録し続ける。時間さえかければ、必ずどこかに、現実世界との『接点』が見つかる」
伊藤はモニターに取引履歴のフローチャートを表示した。複雑に枝分かれする矢印の連なりが、まるで血管図のように広がっていた。田中は、その複雑な図を見つめながら、この数ヶ月間、伊藤がどれほどの時間をこの解析に費やしてきたのかを、改めて実感した。
「デプロイに使われたウォレットは、最初の入金元をたどると、七か月前、ある国内の暗号資産取引所の口座に行き着く。その口座の本人確認情報――KYCデータの開示を、裁判所を通じて要請した」
「もう結果が出たのか」
「昨夜、開示された」
伊藤は一枚の書類を差し出した。
そこに記載されていた名前を、田中は声に出して読んだ。
「――木村和也」
「四十四歳、都内在住、会社員」
伊藤は続けた。
「独自に少し調べたが、三年前に、当時中学二年生だった息子を亡くしている。いじめの様子を撮影した動画がSNS上で拡散され、それを苦にした結果とみられる、という報道が当時あった」
「勤務先は」
「中堅の建設資材メーカーだ。事件後も、退職はしていないらしい。同僚の証言では、事件前とは別人のように、寡黙になったという」
伊藤は言った。
「毎日、決まった時間に出社し、決まった時間に退社する。表向きは、何の変哲もない会社員として、この三年間を過ごしてきたようだ」
田中は、その名前をしばらく見つめていた。会議室の空気が、また一段と張り詰めていくのを感じた。
「岡本亮の件とは、別の事件だな」
「別件だ。だが、構図はよく似ている。誰かの軽率な拡散行為が、一人の人間を追い詰め、そして誰もその拡散者たちを法的に裁くことができなかった」
美咲が静かに口を挟んだ。
「木村和也の息子さんをいじめた側の生徒たちは、その後どうなったんですか」
「少年法の壁もあって、実名の報道はされていない。木村自身が、加害者側の生徒やその保護者を相手取って民事訴訟を起こそうとした形跡はあるが、途中で取り下げられている」
「なぜ」
「分からない」
伊藤は首を振った。
「示談が成立したのか、あるいは別の理由があったのか、公開情報からは読み取れない」
美咲が、資料をめくりながら付け加えた。
「木村の妻は、息子さんが亡くなった翌年に、離婚しています。理由は公表されていませんが、悲しみへの向き合い方の違いが、夫婦の間に埋めがたい溝を作ったのかもしれません」
「一人で抱え込んでいた、ということか」
田中はつぶやいた。
「その孤独が、この計画に彼を向かわせた可能性は、十分にあると思います」
美咲は言った。
田中は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。曇り空の下、遠くにビル群のシルエットがかすんで見えた。
「木村和也の現在の所在は」
「勤務先は分かっている。都内のIT関連企業だ。ただし――」
伊藤は少し言いにくそうに続けた。
「ここ最近、有給休暇をまとめて取得していて、自宅にも会社にも、ここ数日姿を見せていないという情報がある」
「逃亡の兆候か」
「あるいは、別の場所に潜伏して、次の準備をしている可能性もある」
田中は、しばらく黙り込んでから言った。
「木村の交友関係を洗ってくれ。遺族会や、ネット上の被害者支援グループ、そういったコミュニティに、彼が関わっていた形跡がないか」
「もう当たっている」
美咲が言った。
「一つだけ、それらしいものが見つかりました。『声なき声の会』という、SNS上の誹謗中傷被害者遺族の非公式な集まりです。表向きは、支援団体としてカウンセリングや情報交換を行っている、ごく普通のコミュニティに見えます」
「メンバーは」
「会の性質上、詳細なメンバーリストは表に出ていません。ただ、いくつかのSNSアカウントの相互フォロー関係から、少なくとも七、八名の常連メンバーがいると推測されます」
美咲は、その中の一つのアカウントを指し示した。プロフィール画像は、桜の木の写真だった。名前は、実名を伏せたハンドルネームになっていた。投稿の頻度は決して多くなく、時折、季節の花の写真とともに、短いつぶやきが添えられているだけだった。
「このアカウントの投稿履歴をたどると、三年ほど前から、『娘を失った』という趣旨の発言を繰り返しています。地域や時期から見て――」
美咲は、資料の一点を指でなぞった。
「岡本さんの事件とは別の、もう一つの事件と一致する可能性があります。SNS上のデマによって『万引き犯』のレッテルを貼られ、自ら命を絶った、当時十六歳の女子高生の事件です」
田中の背筋に、冷たいものが走った。
「その事件の、遺族は」
「父親は、都内の中学校に勤務する教師だと見られます」
美咲は言った。
「ただ、このアカウントだけでは、実名までは特定できていません」
会議室の空気が、また一段と重くなった。木村和也という一人の名前が、より大きな輪郭を持ったグループの存在を、静かに浮かび上がらせようとしていた。あと一歩で、その中心にいる人物の名前に手が届く――そんな予感が、田中の中で確信に変わりつつあった。
「木村を確保する。それが最優先だ」
田中は言った。
「彼を通じて、必ずこの輪の中心にたどり着ける」
伊藤は無言でうなずき、再びキーボードに向き直った。会議室の壁時計が、静かに時を刻み続けていた。
美咲は、木村和也の顔写真を、もう一度じっと見つめた。ごくありふれた、どこにでもいそうな中年男性の顔だった。輪郭に疲労の色は見えるものの、凶悪な犯罪者を思わせる特徴は、どこにも見当たらない。
「こういう人が、こんなことをするんですね」
美咲が、ぽつりとつぶやいた。
「こういう人だからこそ、なのかもしれない」
田中は答えた。
「特別な悪人じゃない。ただの父親が、子供を守れなかった悔しさを、抱えきれなくなっただけだ」
その言葉に、美咲は何も返さなかった。ただ、資料をファイルに閉じる手が、いつもより慎重だった。
その夜、捜査本部には、千葉県警への協力要請の準備が進められていた。木村の潜伏先と目される地域一帯の地図が、大型モニターに映し出され、捜査員たちが、それぞれの担当区域を確認していく。田中は、その様子を見渡しながら、この事件がいよいよ、新たな局面に入ろうとしていることを実感していた。
高橋悟という名前は、まだ完全には確定していない。だが、その存在の輪郭は、もはや誰の目にも明らかなものになりつつあった。
その夜遅く、田中は自宅に戻る前に、もう一度、岡本亮と高橋美緒、二つの事件のファイルを見比べた。時期も場所も違う二つの悲劇が、同じ一つの絶望から、同じ一つの仕組みへとつながっていく様は、田中にとって、これまでのどんな事件にもない、異様な感覚を呼び起こした。人の悲しみは、時に、思いもよらない場所で、静かに共鳴し合うのかもしれる。
翌朝、田中は早朝から千葉県警との合同捜査会議に臨んだ。木村和也の潜伏先を絞り込むための情報共有が、慎重に進められていく。会議室には、これまでにない数の捜査員が集められ、事件の規模の大きさを、静かに物語っていた。
「必ず、今日中に確保する」
田中は、会議の最後に、そう宣言した。その言葉には、これ以上の犠牲者を出さないという、強い決意が込められていた。




