第十二章 木村和也
木村和也の身柄が確保されたのは、その二日後、千葉県内の古い貸別荘だった。
付近の防犯カメラの解析と、携帯電話の基地局情報を突き合わせた結果、捜査員が踏み込んだ部屋には、複数台のノートパソコンと、大量の紙資料が散乱していた。木村本人に抵抗の意思はなく、静かに両手を差し出したという。
部屋の隅には、小さな仏壇のようなものが設けられており、少年の写真が一枚、飾られていた。捜査員がそれに気づいた時、木村は初めて表情を動かし、「触れないでください」とだけ、低く言ったという。
貸別荘の室内には、他にも、息子の遺品と思われる品々――サッカーボール、色あせたスパイク、そして丁寧にファイリングされた学校の作文――が、きちょうめんに保管されていた。捜査員たちは、それらの品々を前に、しばらくの間、言葉を失ったという報告が、田中の元にも届いていた。
取調室で対面した木村は、田中が想像していたような、憎悪に燃えた人物には見えなかった。
むしろ、ひどく疲れ切った、初老に近い雰囲気の男だった。目の下には深いクマがあり、話す声にも張りがなかった。着ているシャツの襟元は少しくたびれており、きちょうめんな性格を思わせるきちょうめんさと、生活の余裕のなさが、同時ににじみ出ていた。
「息子さんのことは、お悔やみ申し上げます」
田中がそう切り出すと、木村は初めて顔を上げた。その目には、驚きとも諦めともつかない、複雑な色が浮かんでいた。
「……その言葉を、警察の人から聞くのは、三年ぶりです」
「そうですか」
「息子が死んだ時、担当してくれた刑事さんは、事件性はないと判断してすぐに離れていきました。『いじめの実態解明は教育委員会の管轄なので』と。それ以来、警察という組織に、何かを期待したことは一度もありません」
木村の声には、怒りというより、諦めに似た静けさがあった。それは長年かけて研磨された、鈍い刃のような静けさだった。
「息子さんに、何があったんですか」
田中は、あえて尋ねた。
木村は、しばらく沈黙した後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「中学二年生の頃から、クラスの数人に、ささいなことでからかわれるようになっていました。最初は、本人も『大したことじゃない』と言っていました。でも、ある日、着替えの様子を盗撮した動画が、クラスのグループチャットに流出したんです。それが、あっという間に、学年中に広まりました」
「学校側の対応は」
「表面上は、加害生徒への指導が行われたことになっています。でも、実際には、口頭での注意程度で終わりました。動画は、削除されないまま、しばらくの間、生徒たちの間で共有され続けていたそうです」
木村は、そこで一度、言葉を切った。深く息を吸い、再び口を開いた時には、その声はわずかに震えていた。
「息子は、それから学校に行けなくなりました。部屋にこもりがちになり、私たち夫婦も、どう接していいか分からないまま、時間だけが過ぎていきました。そして、ある朝……」
その先は、言葉にならなかった。田中は、それ以上、無理に聞き出すことはしなかった。
「審判DAOについて、話していただけますか」
木村は、しばらく沈黙した後、小さくうなずいた。
「隠すつもりはありません。もう、隠す意味もない」
「あなたが、デプロイに使われたウォレットの持ち主だということは、すでに分かっています」
「はい。私が、最初の資金を用意しました」
木村は淡々と続けた。
「といっても、私自身は技術的なことは何も分かりません。ただ、預金の一部を、指定された方法で暗号資産に換え、決められたアドレスに送金しただけです」
「指定した人物は」
木村はそこで、初めて言葉を濁した。視線が、テーブルの木目の上をさまよった。
「それは……申し上げられません」
「木村さん」
田中は身を乗り出した。
「今、あなたがかばおうとしている相手のせいで、これまでに二人の人間が、あなたの息子さんと同じように、取り返しのつかない苦しみを負わされています」
「同じ、ではありません」
木村の声に、初めて強い感情がにじんだ。
「山本大輔も、坂本という元刑事も、少なくとも法の裁きを逃れた側の人間です。私の息子は、何一つ悪いことをしていない、ただのいじめの被害者でした」
「だからといって、あなた方のやったことが正当化されるわけではない」
「分かっています」
木村は目を伏せた。
「分かっています、それは。でも――」
言葉が続かなかった。田中は、木村が涙をこらえているのだと気づいた。取調室の蛍光灯の下で、その肩は小さく、しかし確実に震えていた。
「三年間、私は、息子を追い詰めた人間たちが、何一つ罰を受けずに、普通に学校に通い、普通に大学に進学し、普通に人生を続けていくのを、ただ見ているしかなかった」
木村の肩が、小さく震えていた。
「息子は、サッカーが好きな子でした」
木村は、ふいに、そんなことを語り始めた。
「下手くそでしたけど、それでも毎週末、公園で練習していました。将来は、地元のクラブチームに入りたいと言っていました。あの動画が拡散される前は、本当に、どこにでもいる普通の中学生だったんです」
田中は、何も言わずに、その言葉に耳を傾けた。取調室という場所で、こうした個人的な思い出話を聞くことはまれだった。だが、木村にとって、この告白は、もはや取り調べへの供述ではなく、誰かに息子の存在を覚えていてほしいという、切実な願いのように、田中には感じられた。
「刑事さん、あなたに聞きたい」
木村は顔を上げ、田中を見据えた。
「もし、あなたの子供が同じ目に遭ったとして、あなたは、法律という仕組みだけを信じて、静かに三年間、耐えられますか」
田中は、すぐには答えられなかった。
脳裏に、七年前の自分の軽率な投稿がよぎった。あの投稿の先に、誰かの木村和也がいなかったと、田中は言い切ることができなかった。取調室の空気が、重く、粘りつくように感じられた。
「答えられない、ということは」
木村は静かに続けた。
「あなたにも、分かっているということでしょう」
「木村さん」
田中は、努めて冷静な声を保った。
「あなたの苦しみは、想像することしかできません。それでも、私は刑事として、これ以上の犠牲者を出させるわけにはいかない。審判DAOを設計した中心人物について、話していただく必要があります」
木村は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「――一つだけ、教えます。ただし、これが最後です」
「聞かせてください」
「私達の中に、最初に『これをやろう』と言い出した人間がいます。技術も、資金も、私達の中では誰よりも持っていなかった。でも、誰よりも、この仕組みの『設計思想』を強く信じていた」
木村は、その名前を口にする前に、一度、深く息を吸った。長い沈黙が流れ、田中は急かすことなく、その言葉を待った。
「中学校の教師です。娘さんを、SNSのデマで亡くしています」
「名前を」
「高橋悟。私達は、彼のことを――『先生』と呼んでいました」
木村はそこまで言うと、まるで大きな荷物を下ろしたかのように、深く息を吐いた。
「先生は、いつも言っていました。『私達は報復者じゃない。合意の場を作っているだけだ』と。最初は、その言葉に、救われる思いがしました。憎しみだけで動いているんじゃない、正しいことをしているんだと、思い込むことができたから」
「今は、違うと」
「分かりません」
木村は、乾いた笑みを浮かべた。それは笑顔と呼ぶにはあまりにも痛々しい表情だった。
「もう、何が正しいのか、私にも分からなくなっています。ただ、これ以上、誰かが傷つくのは、見たくない。それだけは、はっきりしています」
田中は、その言葉を、静かに受け止めた。取調室の窓の外では、いつの間にか陽が傾き始めていた。
「もう一つ、聞かせてください」
田中は言った。
「高橋さんは今、どこに」
「分かりません」
木村は首を振った。
「私達は、お互いの居場所を、あえて詳しく知らないようにしていました。誰か一人が捕まっても、他のメンバーに影響が及ばないように」
「用意周到だな」
「先生の指示でした」
木村は言った。
「彼は、こうなることを、最初から想定していたんだと思います」
取調べを終え、留置場へと戻される木村の後ろ姿を、田中はしばらく見送った。丸まった背中には、三年間背負い続けてきた重さが、そのまま刻み込まれているように見えた。
取調室を出た田中は、廊下で待っていた美咲に、聴取の内容を簡潔に伝えた。
「先生、か」
美咲はつぶやいた。
「呼び名からして、彼らにとって高橋という人物が、どれほど大きな存在だったかが伝わってきますね」
「ああ」
田中はうなずいた。
「探して、その『先生』が、今どこにいるのかも、まだ分からない。すぐに、高橋悟の身元照会を進めてくれ」
美咲はうなずき、足早に立ち去った。田中は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、木村の最後の言葉を、頭の中ではんすうし続けていた。
数時間後、高橋悟の住民票、そして三年前の娘の事件に関する当時の報道記事が、田中の机に届けられた。写真の中の高橋は、まだ若々しく、教師然とした穏やかな笑顔を浮かべていた。この写真の男が、これほど大きな仕組みを作り上げるに至った経緯を思うと、田中は、改めてこの国の抱える闇の深さを、痛感せずにはいられなかった。
「行くぞ」
田中は、資料を手に立ち上がった。
「高橋悟の自宅に向かう」




