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コンセンサス ―合意という名の絞首台―』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第十三章 先生

高橋悟の自宅は、都内郊外の閑静な住宅街にあった。


最寄り駅から徒歩十五分、坂道を上りきった先にある、古くからの住宅地だった。周囲には同じような時期に建てられたであろう戸建てが並び、どの家の庭にも、長年手をかけられてきた植木や花壇があった。


この町は、時が緩やかに流れているように、田中には感じられた。その緩やかさの中に、高橋という一人の男が、三年間、どんな思いで暮らしてきたのかを想像すると、田中の胸は自然と重くなった。


木造二階建ての、決して新しくはないが手入れの行き届いた家だった。玄関先の小さな花壇には、季節の花がきちょうめんに植えられていた。表札には「高橋」とだけ、控えめな字で記されていた。周囲の家々と何一つ変わらない、ごくありふれたたたずまいのその家に、これほどの事件の中心人物が暮らしているとは、誰も想像しないだろうと、田中は玄関先で一瞬、そんなことを思った。


田中と美咲がインターホンを押すと、しばらくの間があってから、初老の男が姿を現した。


中肉中背、白髪の交じった短髪。着ているのは、洗いざらしたシャツとカーディガンという、どこにでもいる教師然とした服装だった。目元には深いしわが刻まれ、その奥の瞳は、驚くほど穏やかだった。


「高橋悟さんですね」


「はい」


田中が警察手帳を提示すると、高橋は特に動揺した様子も見せず、小さくうなずいた。


「お話は、伺うつもりでした。木村さんが、拘束されたと聞いていましたから」


その一言だけで、高橋がすでに全てを察していることが分かった。


「中でお話を聞かせていただいても?」


「もちろんです。どうぞ」


通された居間には、きちょうめんに整理された書棚と、仏壇があった。書棚には、教育関係の専門書と並んで、法律関係の書籍も何冊か並んでいた。おそらく、この三年間、独学で法律を学んできたのだろうと、田中は察した。


仏壇の中央には、一枚の写真が飾られていた。制服姿の少女が、少しはにかんだ笑顔でこちらを見つめている。


「娘さんですか」


「美緒です」

高橋は静かに言った。

「今年で、十九歳になるはずでした」


高橋は、写真立てに、そっと指先で触れた。その仕草には、三年間、毎日繰り返してきたであろう習慣の重みが感じられた。


「大学は、看護学部を目指していました。誰かの役に立つ仕事がしたいと、いつも言っていました」

高橋の声が、わずかにかすれた。

「あの子なら、きっと良い看護師になっていたと思います」


田中は、その写真から目を離さないまま、腰を下ろした。線香の香りが、部屋の中にかすかに漂っていた。


「高橋さん、審判DAOについて、あなたが中心的な役割を果たしていたという証言があります」


「否定はしません」

高橋は、驚くほどあっさりと認めた。

「むしろ、私自身の口から、きちんと説明したいと思っていました」


「では、伺います。なぜ、こんなことを」


高橋は、仏壇の写真に一度視線をやってから、田中に向き直った。その所作には、長年教壇に立ってきた人間特有の、落ち着いた重みがあった。


「刑事さん、あなたは『私刑』という言葉を使われるでしょう。私は、あえてその言葉を拒否したい」


「では、何だと」


「合意、です」


高橋の声は、あくまで穏やかだった。だが、その底には、揺るがない確信のようなものが感じられた。その口調は、まるで教室で生徒に大切な概念を説明する時のような、丁寧で、しかし揺るぎない響きを持っていた。


「私は、決して独裁的に誰かを裁こうとしたわけではありません。審判DAOの仕組みは、私一人の判断で対象者を決めるものではない。何万人という人々の、それぞれの意思が積み重なって、初めて一つの結論に至る。これは、民主主義の、一つの極限の形だと考えています」


「民主主義の名を借りた、暴力だ」


「暴力、でしょうか」

高橋は、まるで生徒に問いかけるような口調で言った。

「では、刑事さん、法律による裁判は、暴力ではないと言えますか」


「それは違う。裁判には、適正な手続きがある」


「その『適正な手続き』が、娘の死に何をもたらしたか、ご知ですか」


田中は言葉に詰まった。


「娘の美緒は、SNS上で『万引き犯』というデマを流されました。実際には、彼女は万引きなど一切していません。まったくの人違い、あるいは悪意による捏造でした。ですが、拡散のスピードに、訂正は追いつきませんでした。娘は、学校に通えなくなり、友人を失い、最終的に――」


高橋は、そこで初めて、言葉を切った。目を閉じ、深く息を吸い、再び開いた時には、感情の揺らぎは表面上、押し殺されていた。その一瞬の沈黙の中に、三年間という時間の重みが凝縮されているようだった。


「デマを最初に流した人間を、私たちは特定しました。しかし警察は『名誉毀損の立件は困難』という理由で、動きませんでした。私は、正規の手続きというものを、三年間、信じ続けました。裁判所、弁護士会、被害者支援センター、あらゆる窓口を訪ねました」


「それで」


「何も、変わりませんでした」

高橋は、そう言って、机の上で組んだ両手に力を込めた。

「弁護士からは、『名誉毀損の立証は難しい』と言われ、被害者支援センターからは、『まずは心のケアを優先してください』という、的外れな助言をもらいました。誰も、娘の名誉を回復するために、具体的に動いてはくれませんでした」


美咲が、控えめに口を挟んだ。

「弁護士費用の面での支援は、なかったんですか」


「ありました」

高橋はうなずいた。

「でも、費用の問題ではなかったんです。誰も、この国のシステムそのものが、ネットの暴力に対応できていないという事実に、真剣に向き合おうとしなかった。それが、一番、私を絶望させました」


高橋の声に、初めて明確な怒りがにじんだ。それは激しい叫びではなく、長い年月をかけて内側で結晶化した、静かで硬質な怒りだった。


「私は、法律を憎んでいるわけではありません。法律が持つ理念そのものは、正しいと信じています。しかし、この国の法律は、ネットワークという新しい暴力の速度に、まったく追いついていない。加害者は匿名の群衆に紛れ、被害者だけが、いつまでも実名のまま、傷をさらし続ける」


高橋は、そこで一度、深く息を吸った。窓の外から差し込む午後の光が、彼の白髪交じりの髪を、静かに照らしていた。


「刑事さんは、SNS上の誹謗中傷で、何人の人間が命を絶っているか、正確な数字をご知ですか」


田中は、答えられなかった。正確な統計など、存在しないのかもしれる。多くの場合、それは「誹謗中傷」ではなく、別の原因による自死として処理され、記録にすら残らないのだから。


「私も、正確には知りません」

高橋は続けた。

「誰も、数えていないからです。数えられないほど、この国では、当たり前に起きていることだからです」


「だから、自分たちで裁くことにした、と」


「裁く、という言葉も、正確ではありません」

高橋は静かに首を振った。

「私が作ったのは、裁く仕組みではなく、社会が本当は何を望んでいるのかを、可視化する仕組みです」


その一言に、田中は強い違和感を覚えた。


「可視化……」


「そうです」

高橋はうなずいた。

「審判DAOに、私は一切の強制力を持たせていません。トークンを買うかどうか、投票するかどうかは、完全に自由意思です。誰も、彼らに投票を強要していない。それなのに、何万人という人々が、自らの意思で、あのシステムに参加した」


高橋の目に、深い光が宿った。それは狂信のようでもあり、悲哀のようでもあった。


「刑事さん、これは私が作った怪物ではありません。私はただ、この社会の中に、もともと存在していた怪物のための、扉を開けただけです」


「あなたは、今も教壇に立っているんですか」

田中は、話の方向を変えるように尋ねた。


「いいえ」

高橋は静かに首を振った。

「娘が亡くなってから、半年ほどで休職し、そのまま退職しました。生徒たちの前に立つと、どうしても、娘の同級生たちの顔と重なってしまって。とても、続けられませんでした」


その言葉に、田中は初めて、目の前の男の中にある、教育者としての誇りと、それを失った喪失感の両方を垣間見た気がした。


田中は、その言葉の説得力に、内心たじろぐ自分を感じていた。高橋の理屈には、単純に否定しきれない、ある種の真実が含まれていた。それこそが、この事件の一番厄介な部分なのだと、田中は改めて思い知らされた。


美咲が、隣で手帳にメモを取りながら、小さく息を吐いた。その横顔にも、目の前の男を単純な「悪人」として割り切れずにいる、複雑な感情がにじんでいた。

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