第十四章 停止スイッチ
居間の空気は、先ほどよりも張り詰めていた。仏壇に灯された線香の煙が、細く、まっすぐに立ち上っている。高橋は、その煙をちらりと見やってから、再び田中に向き直った。
「高橋さん」
田中は、努めて冷静な声を保ちながら続けた。
「では、今すぐこのシステムを止めてください」
高橋は、初めてわずかに目を伏せた。
「それが、できないのです」
「あなたが設計者なんでしょう」
「設計者だからこそ、できません」
高橋は静かに言った。
「審判DAOには、意図的に、管理者権限――いわゆる『停止スイッチ』を実装しませんでした」
その言葉を口にした高橋の表情には、後悔とも誇りともつかない、複雑な色が浮かんでいた。まるで、自分自身の決断の重さを、改めてかみ締めているかのようだった。
田中は、その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。危険なシステムを作った本人が、それを止める手段を、自ら手放していたというのか。
「なぜ、そんな危険なものを」
「刑事さん、想像してみてください。もし私たちに停止スイッチがあったら、どうなっていたと思いますか」
田中は黙って続きを促した。
「警察に踏み込まれ、拘束され、脅され、あるいは家族を人質に取られれば、私たちは容易に『止めます』と言わされていたでしょう。それでは、このシステムは、誰か一人の弱さに、すべてが委ねられてしまう。それでは、これまでの構造――一人の加害者を止められれば、また別の加害者が現れる、という構造と何も変わりません」
「だから、自分たちすら止められないようにした」
「その通りです」
高橋はうなずいた。
「私たちは、自分たちの手から、意図的に『止める権利』を奪いました。これは、覚悟の証です。私たちがどんなに苦しくても、どんなに間違いに気づいても、もう後戻りできない」
「その覚悟を、他人の命を賭けて示す権利が、あなたたちにあったと思うか」
田中は、静かだが強い口調で言った。
高橋は、その問いに、しばらく答えられなかった。
「……なかったのかもしれません」
ようやく、高橋は絞り出すように言った。
「でも、あの時の私には、それ以外の方法が、どうしても見つけられなかった」
田中の中で、何かが静かに冷たくなっていくのを感じた。
「では、あなたたちは、すでに『間違い』に気づいているということですか」
高橋の表情に、初めて明確な陰りが差した。
その陰りは、これまでの確信に満ちた語り口とは明らかに異質のものだった。まるで、長年かけて積み上げてきた論理の建物に、初めてひびが入った瞬間を、田中は目撃しているようだった。
「……最初の対象、山本大輔。二人目、坂本茂。彼らは、私たちの基準――法で裁かれなかった明確な悪という基準に、間違いなく合致していました。ですが」
「ですが?」
「最近、システムの中で、奇妙な動きが見え始めています」
「奇妙な動き、とは」
「トークンの保有量に、著しい偏りが生まれ始めています。特定の、巨大な保有者が、対象者選定のプロセスに、明らかに介入しようとしている」
ANONYMOUS_WHALEの名が、田中の脳裏をよぎった。
「あなたたちは、それが誰か知っているんですか」
「いいえ」
高橋は首を振った。
「私達にも分かりません。設計上、私達にも他の保有者の身元を特定する権限はありません。皮肉なことに、私達が『自分たちですら止められない』ようにした仕組みが、今、私達自身の理念とは全く異なる方向へと、システムを引きずり始めている」
「いつから、その兆候に気づいていた」
「二週間ほど前からです」
高橋は答えた。
「最初は、ささいな違和感でした。提案リストの順位が、予想外の順番で入れ替わる。それが、日を追うごとに、明らかな異常として現れ始めました」
「なぜ、もっと早く、俺たちに知らせなかった」
田中は、思わず語気を強めた。
「怖かったんです」
高橋は、絞り出すように言った。
「自分たちが作ったものが、自分たちの手を離れていくという事実を、認めることが。認めてしまえば、これまでの三年間の全てが、無意味になってしまう気がして」
「その大口保有者が、次に選ぶ対象は」
高橋は、深い沈黙の後、震える声で言った。
「分かりません。ただ、直近の提案リストに、これまでとは明らかに毛色の違う名前が挙がり始めています」
「毛色が違う、とは」
「これまでの対象は、社会的に一定の批判を浴びた、いわば『公的な悪』でした。しかし直近の提案には――」
高橋は言葉を選ぶように、慎重に続けた。
「まったくの無名の、一般個人の名前が含まれ始めています」
田中の背筋が凍りついた。
「まさか」
「はい」
高橋は、初めて、その顔に隠しきれない恐怖をにじませた。
「娘のデマを最初に流した人物――当時まだ十六歳だった、ごく普通の女子生徒です。彼女の名前が、提案リストに上がっています」
「あなたたちが、望んだ対象なのか」
「違います」
高橋は、強く首を振った。
「私は、彼女を許したわけではありません。しかし、当時未成年だった彼女を、このシステムの対象にすることだけは、絶対に避けたいと考えていました。彼女もまた、あの匿名の群衆の熱に巻き込まれた、一人の未熟な人間に過ぎなかったからです」
「許していないのに、対象にすることは避けたい、というのは、矛盾していないか」
田中は、あえて指摘した。
「矛盾しているかもしれません」
高橋は、苦しげに答えた。
「でも、憎むことと、裁くことは、別のことのはずです。私はいつからか、その区別すら、自分の中で曖昧にしてしまっていたのかもしれません」
「なのに、システムは、あなたの意思を無視して、彼女を狙おうとしている」
高橋は、深く、深く頭を下げた。
「刑事さん。私は今、初めて、自分が何を作ってしまったのか、本当の意味で理解し始めています。私達は、正義の名のもとに、誰にも止められない怪物を、自らの手で生み落としてしまった」
その声には、これまでの確信に満ちた語り口とは全く違う、深い動揺と恐怖がにじんでいた。田中は、この数分間で、目の前の男の内側で何かが音を立てて崩れていくのを、まざまざと感じ取っていた。
「私達が望んだのは、決して、こんなことではなかった」
高橋は続けた。
「私達が対象に選んだのは、常に、法の網の外側で、何の罰も受けずにいる人間たちだけでした。それなのに、今、システムは、私達の理念の外側にいる人間――ただ未熟だっただけの、一人の少女にまで、その矛先を向けようとしている」
「止める術は、本当に何もないのですか」
「コードを実装した仲間の渡辺が今、必死に方法を探しています。でも、彼自身が、半年以上かけて作り上げたコードの中に、自分たちの手で、逃げ道を一切残さなかった。それが、今になって、私達自身を追い詰めています」
「助けてください」
高橋は、絞り出すように言った。
「彼女だけは、どうか、助けてください」
その言葉を受け、田中はその場で、監禁致死幇助の容疑による緊急逮捕の手続きを取った。高橋は、一切の抵抗を見せずにそれに応じた。
「私は、逃げも隠れもしません」
高橋は、静かにそう言って、両手を差し出した。
「これから先、私にできることがあるなら、何でもします」
以後、高橋は勾留された状態のまま、取調べという形で捜査に協力し続けることになった。起訴に向けた正式な手続きは、事件全体の解明を待って進められることになる。
手錠をかけられながら、高橋は最後に、仏壇の方を一度だけ振り返った。娘の写真に向けられたその視線には、謝罪とも、決意ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。田中は、その横顔を、黙って見つめ続けていた。
パトカーに乗せられる直前、高橋は田中に、静かにこう告げた。
「刑事さん、一つだけ、教えておきます。私達が最初に作成した対象者のリストには、山本さんと坂本さんの他に、あと五人の名前がありました。全員、法の網をすり抜けた人間たちです。ただ、システムが暴走を始めてからは、そのリストの意味も、もう分からなくなっています」
田中は、その言葉を、深く胸に刻み込んだ。まだ見ぬ五人の存在が、この事件の裾野の広さを物語っていた。
高橋を乗せたパトカーが走り去った後、田中は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。仏壇に飾られた美緒の写真が、まだ田中の脳裏に焼き付いていた。この事件は、単なる一人の異常者の犯行ではなく、この社会が積み重ねてきた無数の小さな怠慢と沈黙の、集大成のようなものなのかもしれない――そんな思いが、田中の中に、静かに広がっていった。
美咲が、車の準備が整ったことを告げに来た。二人は、無言のまま、高橋家を後にした。




