第十五章 エンジニアの告白
渡辺涼の身柄が確保されたのは、高橋との対話から二日後のことだった。
高橋自身が、渡辺の潜伏先――都内のシェアオフィスの一室を、捜査に協力する形で明かした。抵抗する様子はなかった。むしろ、渡辺は捜査員が踏み込んだ時、モニターの前に座ったまま、ただ静かにうなずいたという。部屋の中には、エナジードリンクの空き缶が幾つも積み重なり、彼がこの数日、ほとんど眠らずにコードと向き合い続けていたことを物語っていた。
取調室に現れた渡辺は、田中がこれまでイメージしていた「システムエンジニア」という言葉の印象そのものだった。痩せ型で、目の下に濃いクマがあり、話す時に視線を合わせることが少ない。だが、いざ技術の話になると、その口調は驚くほど明瞭になった。まるで、コードについて語ることだけが、彼にとって唯一の安全な避難場所であるかのようだった。
「高橋さんから、話は聞いていると思います」
渡辺は言った。
「僕が、審判DAOのコントラクトを実装しました」
「あなたは、なぜこの計画に加わったんですか」
渡辺は、少し間を置いてから答えた。
「僕自身は、木村さんや高橋さんのように、直接の遺族というわけではありません。でも、姉が――」
言葉を切り、渡辺は目を伏せた。
「姉が、五年前に、ネット上の誹謗中傷が原因で、心を病みました。今も、まともに外出ができません。犯人は特定できませんでした。複数の匿名アカウントによる、集団的な攻撃だったので」
「どんな攻撃だったんですか」
「姉は、当時勤めていた会社で、ささいな行き違いから、SNS上に一方的な悪評を書き込まれました。事実無根の内容でしたが、拡散のスピードには誰も抗えなかった。姉は会社を辞め、実家に戻り、それ以来、ずっと自室にこもったままです」
渡辺の声は、淡々としていたが、その奥には、抑えきれない痛みがにじんでいた。
「姉を傷つけた人間たちの一人も、特定できませんでした。警察に相談しても、『発信者情報の開示には時間がかかる』の一点張りで」
田中は、その言葉に、何も反論できなかった。実際、開示請求の手続きには、被害者の心が壊れていく速度に、到底追いつかない時間がかかる。それは、田中自身がこの仕事を通じて、何度も痛感してきた現実だった。
「姉さんは、今も自室に?」
田中は、静かに尋ねた。
「はい」
渡辺はうなずいた。
「もう五年になります。時々、部屋の外から、姉が誰かに謝っているような声が聞こえることがあります。誰に謝っているのか、僕には分かりません。多分、姉自身にも分かっていないんだと思います」
渡辺という青年が、どれほど深い無力感を抱えながら、この五年間を生きてきたのかを、田中は改めて思い知らされた。
「それで、彼らの計画に技術提供を」
「最初は、正義感からでした」
渡辺は静かに言った。
「木村さんや高橋さんの話を聞いて、僕にできることがあるなら、力になりたいと思いました。停止スイッチのない設計というアイデアも、実は、僕が提案したものです」
「あなたが?」
「はい」
渡辺はうなずいた。
「高橋さんたちは、最初、もっと慎重な、管理された仕組みを考えていました。でも僕は、それでは意味がないと思ったんです。人間が最終的な判断を握っている限り、必ずどこかで、権力や恐怖に屈する瞬間が来る。それなら、いっそ、誰にも止められない仕組みにしてしまえば――」
「もう一つ、聞かせてください」
田中は言った。
「配信の画面に表示されていた『GODEYE』という名前は、何なんですか」
渡辺は、初めて小さく、苦しそうな笑みを浮かべた。
「僕です。正確には――僕が、システムが自動的に配信を開始する際に表示する、アカウント名として登録しました」
「あなたが、GODEYEなのか」
「いえ」
渡辺は静かに首を振った。
「僕は、その名義を最初に登録しただけの人間です。あの名前に、僕個人の人格を持たせたくなかった。誰か一人の名前が矢面に立てば、いずれそこで、すべてが止まってしまう。だから僕は、自分の名前の代わりに、『見ている者の目』という意味だけを込めて、あの名前を登録しました。あれは、僕の名前じゃない。トークンを持つ何万人もの視聴者、その全員の目のつもりでした」
渡辺の声が、そこで初めて揺らいだ。
「……そう考えたことを、今は、心の底から後悔しています」
「なぜですか」
「システムを稼働させてから、僕は毎日、トランザクションログを監視していました。最初のうちは、確かに高橋さんたちの理念通りに機能していました。法で裁かれなかった、明確な悪人だけが対象になっていた」
「それが、変わったのは」
「二週間ほど前です」
渡辺は言った。
「一つの巨大なウォレットアドレスが、突如として大量のトークンを買い集め始めました。最初は、単なる投機的な興味だと思っていました。でも、そのアドレスの投票行動を分析していくうちに、ある違和感に気づいたんです」
「違和感とは」
「このアドレスは、明らかに、対象者選定のアルゴリズムそのものを研究し尽くしています」
渡辺は、モニター用のタブレットを取調室に持ち込むことを許可され、画面をスクロールさせながら説明を続けた。
「提案リストへの介入のタイミング、他の小口保有者の投票心理を誘導するようなコメント欄での発言パターン――これは、単なる一人の悪意ある視聴者の仕業とは思えません」
「組織的な関与を疑っているということですか」
「はい」
渡辺はうなずいた。
「しかも、この大口保有者の資金の動きを追うと、審判DAOが最初に注目を集めた直後――つまり、山本大輔の件が拡散したタイミングと、ほぼ同時に、大規模な資金移動が始まっています。まるで、最初から、この配信が話題になることを見越していたかのように」
田中の中で、これまでの断片的な情報が、少しずつ一つの形を取り始めていた。
「渡辺さん、あなたの推測を聞かせてください。このANONYMOUS_WHALEは、何を目的にしていると思いますか」
渡辺は、しばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「僕らは、法で裁かれなかった悪を裁くために、このシステムを作りました。でも、このウォレットの持ち主は――」
渡辺の声が、微かに震えた。
「僕らが作った『合意という名の仕組み』そのものを、乗っ取ろうとしているように見えます。正義のためではなく、もっと別の――おそらくは、純粋な支配欲、あるいは娯楽としての、群衆操作の実験として」
その言葉が、会議室の空気を凍りつかせた。
「もしそうだとしたら」
美咲が声を絞り出した。
「次に狙われるのは、社会的な悪人とは限らない」
「その通りです」
渡辺はうなずいた。
「このウォレットの持ち主にとって、対象者が本当に『裁かれるべき悪人』かどうかは、もはや関係ないのかもしれません。ただ、この巨大な群衆の意思を、自分の思うままに動かせること自体が、目的になっている可能性があります」
田中は、拳を握りしめた。
悲しみから生まれた報復のシステムが、今や、誰か別の悪意によって、乗っ取られようとしている。
審判DAOという扉を開けたのは高橋たちだった。だが、その扉の向こうから何を招き入れることになるのか、彼ら自身にも、もはやコントロールできなくなっていた。
「渡辺さん」
田中は言った。
「最後に、一つだけ聞かせてください。あなたは今、後悔していますか」
渡辺は、長い沈黙の後、涙をこらえるように答えた。
「毎晩、後悔しています。でも、後悔だけでは、もう何も止められない。僕にできることがあるなら、何でもします。姉を苦しめた人間たちへの怒りは、今も消えていません。でも、その怒りのために、また別の誰かが苦しむことだけは、絶対に見過ごせません」
渡辺は、両手で顔を覆い、しばらく肩を震わせていた。田中は、その姿を、黙って見つめ続けるしかなかった。
取調べを終えた後、田中は捜査本部に戻り、渡辺の証言を美咲と伊藤に共有した。三人は、これまでに集まった情報を、改めて時系列に沿って整理し直した。高橋、木村、渡辺という三人の創設メンバー、そして正体不明のANONYMOUS_WHALE。事件の輪郭は、少しずつ、しかし確実に、その全貌を現しつつあった。
「次は、あの少女の特定を急ぐ」
田中は言った。
「高橋さんが最も守りたいと願っている相手だ。俺たちが先に見つけ出さなければならない」
伊藤が、キーボードをたたきながら言った。
「渡辺の証言から得た情報を元に、当時の高校の卒業アルバムや、SNS上の相互フォロー関係を洗い出してみる。時間はかかるが、必ず見つけ出す」
「頼む」
田中は言った。
「今度は、俺たちが、誰かを守る番だ」
その言葉に、フロア全体の空気が、わずかに引き締まった。守るべき対象が明確になったことで、捜査員たちの士気は、これまでとは違う種類の緊張感を帯び始めていた。




