第十六章 名もなき候補者
「彼女の名前が分かりました」
美咲が、捜査本部に駆け込んできたのは、渡辺涼への聴取から一夜明けた朝だった。窓の外は、久しぶりに晴れ渡った青空が広がっていたが、フロアの空気は相変わらず張り詰めたままだった。
「渡辺さんの証言、どこまで裏が取れた」
田中は、コーヒーを一口飲みながら尋ねた。
「彼が提供したログと、こちらで独自に解析した提案リストのデータは、完全に一致しています」
美咲は答えた。
「渡辺さんは、少なくとも今の時点では、うそをついていないと考えていいと思います」
「高橋美緒さんに関するデマを最初に投稿したとされる人物――当時の高校の同級生です。名前は、佐藤ひかり、当時十六歳。現在は十九歳になっています」
田中は資料を受け取った。免許証の写真とみられる画像には、どこにでもいる、ごく平凡な若い女性の顔が写っていた。特別な悪意も、特別な強さも感じさせない、普通の顔だった。むしろ、少し内気そうな、控えめな笑みを浮かべた写真だった。
「本人の現況は」
「都内の専門学校に通いながら、アルバイトをしています。事件当時の証言によれば、佐藤さん自身は、直接美緒さんをいじめていたわけではないようです。ただ、SNS上で『万引きしてるのを見た』という趣旨の投稿を最初にしたのが、彼女だったとされています」
「専門学校では、何を学んでいる」
「保育士の資格取得を目指しているようです」
美咲は言った。
「担任教員の話では、真面目に出席し、成績も悪くないとのことでした」
その報告を聞きながら、田中は、佐藤ひかりという人物の輪郭が、少しずつ、しかし確実に、一人の生きた人間として立ち上がってくるのを感じていた。
「その投稿は、事実だったのか」
「いいえ」
美咲は首を振った。
「後の調査で、佐藤さんの見間違い、あるいは別人との勘違いだったことが分かっています。佐藤さん自身も、投稿の翌日には『勘違いだったかもしれない』と訂正の投稿をしていました」
「訂正していたのか」
「はい。ですが、最初の投稿ほどの拡散力はなく、多くの人の目には触れませんでした。それに――」
美咲は言葉を選ぶように続けた。
「訂正の投稿をした後も、佐藤さん自身も、周囲から『デマを流した張本人』として、かなりの誹謗中傷を受けています。事件後、彼女自身も転校を余儀なくされています」
「転校先でも、平穏には過ごせなかっただろうな」
田中は、資料をめくりながらつぶやいた。
「はい。当時のクラスメイトの証言によれば、転校先でも、しばらくの間、彼女の過去を知る誰かによって、陰口が広まっていたそうです」
美咲は言った。
「加害者として拡散された過去は、簡単には消えないものなんですね」
田中は、資料の中の平凡な顔を見つめたまま、しばらく動けなかった。
加害者でありながら、同時に被害者でもある。この事件の構造は、あまりにも単純な善悪二元論を拒み続けていた。田中は、その複雑さの前で、自分自身の中にある「加害者を罰したい」という単純な衝動が、いかに事態の本質を見誤らせるものであるかを、改めて痛感していた。
「審判DAOの提案リストにおける、佐藤ひかりへの投票状況は」
伊藤がモニターを操作した。折れ線グラフが、じりじりと上昇を続けていた。
「二十四時間前と比較して、投票数が三倍近くに増えています」
伊藤は険しい表情で言った。
「まだ実行のしきい値には達していませんが、このペースなら、あと二日から三日で到達する計算になります」
「保護する必要がある」
田中は即座に言った。
「彼女の現在の居場所を特定し、警護をつける」
「もう手配を進めています」
美咲がうなずいた。
「ただ、問題があります」
「なんだ」
「本人に、この状況をどこまで伝えるべきか、判断が難しいんです。彼女は、自分がかつて誤情報を流したことへの負い目を、いまだに強く抱えています。もし今、『あなたがネット上の私刑の対象に選ばれかけている』と伝えれば……」
「精神的に追い詰められる可能性がある、ということか」
「はい」
田中は、しばらく黙って考え込んだ。窓の外の青空とは対照的に、田中の心の中には、重い雲がかかったままだった。
保護するべき対象に真実を告げることが、かえって新たな危害になりかねない――そのジレンマは、これまでこの事件で何度も繰り返されてきた構図と、同じ形をしていた。真実を知ることと、それに耐えられることの間には、常に大きな隔たりがある。
「彼女には、まず『あなたの安全に関わる可能性がある事案が発生している』とだけ伝える。詳細は、こちらで状況をコントロールできる段階になってから、慎重に説明する」
「わかりました」
田中は、資料の中の佐藤ひかりの写真を、もう一度見つめた。
この一枚の顔が、これから始まろうとしている攻防の中心に立たされている。彼女もまた、七年前の自分と同じように、軽い気持ちで指先を動かしただけの、一人の未熟な人間に過ぎなかったはずだった。
「絶対に、彼女だけは守る」
田中の言葉に、美咲は静かにうなずいた。その決意は、単に職務上のものではなく、田中自身の過去への、静かな贖罪の意志でもあった。
その日の午後、田中は、佐藤ひかりの現況について、さらに詳しい調査結果を求めた。彼女の専門学校での交友関係、アルバイト先での人間関係、そして、彼女が今も密かに続けているという、あるボランティア活動についての情報が、次々と美咲の元に集まってきた。
「彼女、月に一度、児童養護施設でのボランティアを続けているそうです」
美咲が報告した。
「三年前の事件以来、ずっと。理由を尋ねられた時、『誰かの役に立ちたかった』とだけ、答えていたそうです」
その報告を聞き、田中の胸に、複雑な感情が広がった。佐藤ひかりという一人の人間は、三年間、誰にも気づかれないところで、静かに自分なりの償いを続けてきたのだ。その事実は、彼女が「加害者」という一言では到底括れない、一人の人間であることを、田中にまざまざと突きつけた。
「伊藤、投票の進捗を、今後は十分おきに報告してくれ」
田中は言った。
「一秒でも早く、異変に気づけるようにしておきたい」
「了解した」
伊藤は、疲れた声で答えながらも、すぐにモニターに向き直った。
捜査本部の空気は、これまで以上に張り詰めていた。全員が、それぞれの持ち場で、見えない敵と向き合い続けていた。
「田中さん」
美咲が、少しためらいながら言った。
「もし、彼女を守り切れたとして……その先は、どうなるんでしょうか。審判DAOそのものが止まらない限り、また別の『名もなき候補者』が現れるんじゃないですか」
田中は、その問いに、すぐには答えられなかった。窓の外の青空を、しばらく黙って見つめるしかなかった。
「美咲」
田中は、ようやく口を開いた。
「お前は、この仕事を始めた時、何を守りたいと思っていた」
唐突な問いに、美咲は少し驚いた顔をした。
「……ごく普通に暮らしている人たちの、日常です。交番勤務の頃、ささいなトラブルで泣きながら相談に来る人たちを、何人も見てきました。あの人たちが、また明日を安心して迎えられるようにすることが、私の原点でした」
「それなら、今回も変わらない」
田中は言った。
「一人でも多くの『佐藤ひかり』を守ること。それが、今、俺たちにできる、唯一の答えだ」
美咲は、その言葉に、小さくうなずいた。だが、そのうなずきの奥には、まだ拭いきれない不安の影が、確かに残っていた。
伊藤が、二人のやり取りを聞きながら、静かに口を挟んだ。
「田中さん、警護の手配と並行して、彼女に近づこうとする不審なアクセスがないか、俺の方でも監視を強化しておく。名前と現住所が割れている以上、悪意ある人間が個人情報をさらすリスクも、ゼロじゃない」
「頼む」
田中はうなずいた。
「あらゆる可能性に、備えておく必要がある」
捜査本部の空気は、これまでとは違う緊張感を帯び始めていた。守るべき対象が、初めて、明確な「個人」として立ち現れたからだった。
田中は、佐藤ひかりの通う専門学校の所在地を確認し、警護班への連絡を急いだ。同時に、彼女の家族構成や生活状況についても、可能な限り詳しく把握しておく必要があった。もし彼女を保護する際に、家族を巻き込む可能性があるなら、その対応も事前に考えておかなければならない。
「彼女は、一人暮らしのようです」
美咲が、調査結果を報告した。
「実家とは、事件以来、距離を置いているようです」
その報告に、田中は、佐藤ひかりが背負ってきた孤独の深さを、改めて思い知らされた。




