第十七章 彼女の告白
佐藤ひかりへの接触は、警護担当の女性警察官を通じて、慎重に進められた。
接触に先立ち、田中と美咲は、彼女の専門学校での様子や、アルバイト先での評判について、可能な限り穏便な形で聞き込みを行っていた。担任の教員によれば、彼女は「真面目だが、どこか自分に自信が持てない印象の学生」だという。その評価は、田中がこれから対面する人物像を、より鮮明に浮かび上がらせるものだった。
アルバイト先のカフェの店長からも、似たような証言が得られていた。「いつも一生懸命だけど、どこか自分を責めているような雰囲気がある子」という言葉は、田中の胸に、静かに残った。三年間という時間は、彼女の中に、消えることのない影を落とし続けているようだった。
田中と美咲が、彼女のアルバイト先近くの喫茶店で対面したのは、投票数がしきい値に近づきつつある中での、時間との戦いの最中だった。窓の外には、夕方の柔らかい光が差し込み、店内には穏やかにジャズが流れていた。その穏やかな空気と、田中の胸の内にある緊迫感との落差が、やけに際立って感じられた。
佐藤ひかりは、田中が想像していたよりも、ずっと小柄で、ずっと不安げな表情をしていた。専門学校の制服らしきカーディガンを羽織り、かばんには、動物のキャラクターがプリントされた小さなキーホルダーがついていた。そのあまりにもささやかな日常の気配が、これから話される内容の重さと、あまりにも不釣り合いに感じられた。
警察から「安全に関わる可能性がある」とだけ告げられていた彼女は、席に着くなり、真っ先にこう尋ねた。
「あの……もしかして、審判ライブのことですか」
その一言だけで、田中は彼女がすでに、どこかでこの事件と自分との関連に気づいていることを悟った。
「なぜ、そう思われたんですか」
佐藤は、膝の上で両手を強く握りしめた。指先が、かすかに白くなっていた。
「三年前のこと、ずっと考えてました。高橋さんのこと。……美緒のこと」
彼女は、旧知の間柄であったかのように、美緒の名前を呼んだ。
「あなたと、高橋美緒さんは、友人だったんですか」
「友人、でした」
佐藤の声が震えた。
「小学校からの、ずっと」
佐藤は、かばんの中から、一枚の古びた写真を取り出した。まだあどけなさの残る二人の少女が、笑顔でピースサインをしている写真だった。
「これ、中学の修学旅行の時のです。ずっと、財布の中に入れています。捨てられなくて」
その写真を見つめながら、佐藤は、この三年間の生活を、ぽつりぽつりと語り始めた。事件の後、彼女は転校を余儀なくされ、新しい学校でも、いつしか「あのうわさを流した子」という陰口が広まった。高校卒業後は、地元を離れ、誰も自分を知らない土地で、新しい人生を始めようとした。それでも、ふとした瞬間に、美緒の顔が脳裏をよぎり、夜、眠れなくなることが、今でも度々あるのだという。
「毎年、美緒の命日には、お花を送っています。名前は書かずに。でも、届いているのかどうかも、分かりません」
田中は、その告白を、遮らずに聞いていた。加害者でありながら、同時に、これほど長く自分自身を罰し続けている人間を、田中はこれまで、あまり見たことがなかった。
「では、あの投稿は」
「間違いだったんです」
佐藤は、せきを切ったように話し始めた。
「あの日、コンビニで、美緒に似た子を見かけて、その子が商品をかばんに入れるのを見て……。焦って、深く考えずに投稿しました。『美緒ちゃんが万引きしてるところ見た』って」
「その後、訂正されていますね」
「はい。でも、遅かった」
佐藤の目から、涙がこぼれ始めた。
「翌日には、もう学校中に広まってて。私が訂正しても、誰も見てくれなかった。むしろ、私自身が『うその投稿を最初にした人間』として、たたかれる側になった」
佐藤は、震える声で続けた。
「美緒が亡くなったって聞いた時、私……頭が真っ白になりました。自分のせいだって、ずっと、ずっと思ってます。三年間、毎日、思ってます」
「高橋さんのご家族に、謝罪はされましたか」
「一度、手紙を書きました」
佐藤はうつむいた。
「返事はありませんでした。当然だと思います。私が、美緒を殺したようなものだから」
佐藤は、かばんの持ち手を、強く握りしめた。その手紙に何を書いたのか、田中には想像することしかできなかったが、その一枚の便箋に込められたであろう、痛切な後悔の重さだけは、痛いほど伝わってきた。
その言葉を聞き、田中は首を振った。
「あなたが美緒さんを殺したわけじゃない。デマを拡散し、それを面白がり、検証もせずにさらし続けた、何百人、何千人もの人間がいたはずです。あなたは、その最初の一つのきっかけを作ってしまった。それは事実です。でも、それだけで全ての責任があなたにあるわけじゃない」
「Wait、最初に投稿したのは、私です」
「そうです」
田中はうなずいた。
「だからこそ、あなたは、これまで三年間、その重さを背負い続けてきた。それに比べて――」
田中は、あえて言葉にした。
「あなたの投稿を面白がって拡散した何千人もの人間の中で、いま、あなたと同じように、三年間、その重さを背負い続けている人間が、一体どれだけいると思いますか」
佐藤は、涙を拭いながら、田中を見つめた。その目には、驚きと、かすかな安心が入り混じっていた。誰かにそう言ってもらえたのは、三年間で初めてのことだったのかもしれない。
「刑事さん、私……これから、どうなるんですか」
「今、あなたの名前が、ある危険な集団によって、望ましくない形で狙われています」
田中は、慎重に言葉を選びながら告げた。
「詳細は説明できませんが、あなたの身の安全を守るため、しばらくの間、警護をつけさせてください」
「私、罰を受けるべきなんでしょうか」
佐藤は、震える声で尋ねた。
「もし、その人たちが、私を……裁こうとしているなら、それは……仕方のないことなんでしょうか」
田中は、彼女の目をまっすぐに見た。
「いいえ」
田中は、はっきりと言った。
「あなたが受けるべき罰があるとすれば、それは法の下で、適正な手続きを経て決められるべきものです。誰かの手によって、勝手に、一方的に、視聴者の投げ銭の金額で決められるものでは、絶対にない」
佐藤は、しばらく田中の顔を見つめた後、小さく、しかし確かにうなずいた。そのうなずきには、これまでの不安の中に、わずかながら、前を向こうとする意志がにじんでいるように見えた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
佐藤が、消え入りそうな声で言った。
「もし……もし私が、あの日、投稿する前に、もう少しだけ立ち止まっていたら。美緒は、今も生きていたんでしょうか」
田中は、その問いに、すぐには答えられなかった。答えを持ち合わせていないのではなく、その問い自体が、あまりにも重く、あまりにも根源的だったからだ。
「その問いに、簡単に答えを出せる人間は、誰もいません」
田中は、慎重に言葉を選んだ。
「ただ、その問いを、これからも抱え続けることが、あなたにとって、意味のあることなのかもしれません」
喫茶店を出た後、田中は美咲に向かって言った。
「彼女を、絶対にリストから消させる」
「でも、システムには停止スイッチがないと」
「スイッチがないなら」
田中は、強い決意を込めて言った。
「別のやり方で、システムそのものを機能不全に追い込むしかない」
「具体的には、どうするつもりですか」
美咲が尋ねた。
「まだ分からない」
田中は正直に答えた。
「だが、コードで作られたものなら、コードの外側にある何かで、必ず崩せるはずだ。資金の流れでも、人間関係でも、あるいは、彼ら自身の良心でも」
夕暮れの街を歩きながら、田中は、佐藤ひかりの最後の問い――「もし、もう少しだけ立ち止まっていたら」という言葉を、何度もはんすうしていた。その問いは、彼女だけのものではなく、この事件に関わる全ての人間、そして田中自身にも、等しく突きつけられているもののように思えた。
署に戻る道すがら、美咲がふと口を開いた。
「田中さん、彼女、これからどうなるんでしょうか」
「分からない」
田中は答えた。
「ただ、少なくとも、俺たちが彼女を見捨てることだけは、絶対にない」
その言葉に、美咲は小さくうなずいた。夕暮れの空が、二人の頭上に、静かに暮れなずんでいった。
その夜、警護担当の女性警察官から、佐藤ひかりが自室でひっそりと泣いていたという報告が届いた。恐怖からなのか、それとも、初めて自分の苦しみを理解してもらえたという安心からなのか、報告書だけでは判別がつかなかった。田中は、その報告書を読みながら、彼女がこれから歩む道のりの長さを思い、目を閉じた。




