第十八章 小林彩の告白
小林彩から再び連絡が入ったのは、佐藤ひかりとの面会から二日後の夜だった。
その二日間、田中は小林の存在を、頭の片隅から追いやることができずにいた。彼女の足取りに感じた、あの弔いに行くような気配の正体を、田中は突き止めたいという思いと、それを知することへの恐れの両方を、同時に抱え続けていた。
今度は、前回のような取材者としての体裁ではなく、ただ「話したいことがあります」とだけ書かれた、短いメッセージだった。文面の端々に、これまでとは違う、切迫した空気がにじんでいた。
田中は、一人で指定された場所――前回とは別の、人気の少ない公園のベンチに向かった。街灯の光が、まばらに落ちる並木道を歩きながら、田中は、この数日間の出来事を、頭の中で整理していた。
小林はすでに座っていた。街灯の下、その表情は、これまで田中が見た中で、最もしょうすいしていた。両手は膝の上で固く組まれ、時折、指先が震えているのが見えた。
「田中さん」
小林は、田中が隣に座るのを待って、切り出した。
「私、あなたにうそをついていました」
「知っている」
田中は、感情を抑えた声で答えた。
「あなたが、ただの取材者ではないことは」
小林は、驚いたように田中を見た。
「いつから」
「最初からだ。取材者にしては、あの投稿を見つけるのが早すぎた。あなた自身が、そのコミュニティの中に、何らかの形で関わっていなければ、たどり着けない情報だった」
小林は、乾いた笑みを浮かべた。
「さすがですね」
「聞かせてくれ。あなたと、この事件との関係を」
小林は、しばらく夜空を見上げてから、話し始めた。雲の切れ間から、いくつかの星が瞬いていた。
「私には、妹がいました。四つ下の、沙耶という妹です」
「過去形、なんだな」
「五年前に、亡くなりました」
小林は、感情を押し殺した声で続けた。
「大学のサークル内でのトラブルがきっかけで、事実とは異なるうわさを流され、SNS上で激しい誹謗中傷を受けました。最終的に、大学を退学し、実家に戻り……その半年後に」
小林は、言葉を最後まで言わなかった。田中も、あえて先を促さなかった。夜風が、二人の間を通り抜けていった。
「沙耶は、絵を描くのが好きな子でした」
小林は、ふいにそう付け加えた。
「美大を目指していたんです。あの子の部屋には、今も、描きかけのキャンバスが置いたままになっています。両親は、それを片付けることが、どうしてもできないみたいで」
「サークル内のトラブルというのは」
「ささいなことだったんです」
小林は、拳を握りしめた。
「恋愛関係のもつれと言えば、それだけのことです。でも、うわさは、事実とはまるで違う形に、どんどんゆがめられていきました。妹が『複数の男性と同時に交際している』という、根も葉もない話が広まって」
その話を聞きながら、田中は、この事件で明らかになってきた、いくつもの悲劇の共通点に気づかされた。真実よりも、面白い物語の方が、常に速く、広く伝わっていく。その残酷な法則の犠牲者が、この国のあちこちに、数えきれないほど存在しているのだろう。
小林が背負ってきたものの重さが、その一言だけで、田中にも伝わってきた。
「妹の事件を追っていく中で、審判DAOのコミュニティにたどり着きました。最初は、純粋に、ジャーナリストとして事件の背景を調べるつもりでした。でも」
「でも?」
「彼らの言葉を読んでいくうちに、気づいたら、私自身も、トークンを買っていました」
田中は、小林の横顔を見た。
「あなたも、投票していたのか」
「はい」
小林は、隠すことなく認めた。
「山本大輔の件、坂本茂の件、どちらにも、私は小さな額ですが、投票しています。エスカレーションの選択肢に」
「投票した時、どんな気持ちだった」
「正直に言えば……気持ちよかったんです」
小林は、苦しそうに言葉を絞り出した。
「妹を苦しめた人間たちに、直接手を下せなかった代わりに、誰かを裁くという行為そのものに、快感を覚えている自分がいました。それが、どれほど危険なことか、今なら分かります」
田中の中に、複雑な感情が渦巻いた。怒りとも、失望とも、あるいは奇妙な理解とも言えるような、名付けようのない感覚だった。
「なぜ、正直に話す気になった」
「佐藤ひかりさんの件を知ったからです」
小林は、初めて涙声になった。
「彼女の背景を調べていくうちに、彼女もまた、妹と同じように、一つの投稿の重さに、何年も苦しめられ続けている人間だと分かりました」
小林は、ベンチの上で、両手で顔を覆った。
「私は、妹を苦しめた人間たちを、ずっと憎んできました。でも、佐藤さんの件を知って、初めて気づいたんです。私自身もまた、あのシステムに投票することで、誰かにとっての『匿名の加害者』の一人になっていたんだって」
その告白を聞きながら、田中は、自分自身の七年前の投稿を思い出さずにはいられなかった。憎しみの連鎖は、決して他人事ではない。それは、この事件に関わる誰の中にも、多かれ少なかれ、息づいているものだった。
「小林さん」
「私は、正義のつもりでした」
小林は、震える声で続けた。
「でも、実際にやっていたことは、妹を追い詰めた人間たちと、本質的には同じでした。検証もせず、相手の事情も知らず、ただ画面の向こうの誰かに、自分の怒りをぶつけていただけだった」
田中は、しばらく何も言わずに、小林の告白を聞いていた。公園の外を、時折、車の走行音が通り過ぎていった。
「あなたの持っているトークン保有量、そしてこれまでの投票履歴の詳細を、捜査資料として提出してもらえますか」
「はい」
小林は、涙を拭いながら答えた。
「それが、私にできる、せめてもの償いだと思います」
「もう一つ、聞きたい」
田中は言った。
「ANONYMOUS_WHALEについて、コミュニティ内部から、何か情報はないか」
小林は、少し考えてから答えた。
「一つだけ、気になるうわさがあります。フォーラム内で、一部のメンバーが、このアドレスは、過去の『処刑対象者』の関係者――もしかすると、山本大輔や坂本茂を支援する側の人間が、報復目的で買い集めているのではないか、と推測しています」
「報復目的……」
「もしそうだとすれば」
小林は、恐怖のにじんだ声で言った。
「彼らの狙いは、審判DAOの理念を破壊し、暴走させることそのものかもしれません。正義を掲げるシステムを、内側から腐らせて、社会全体に『やっぱり私刑なんて、こんなものだ』と思わせるために」
田中の脳裏に、これまでの断片が、また一つ、不穏な形でつながっていくのを感じた。
「小林さん、最後に一つ」
田中は言った。
「あなたは、これから先、どうするつもりですか」
「分かりません」
小林は、小さく首を振った。
「でも、記者としてでも、当事者としてでもなく、ただの一人の人間として、この事件の結末を、最後まで見届けたいと思っています」
その言葉には、これまでの取材者としての距離感とは違う、何か覚悟に似たものが宿っていた。田中は、それ以上何も言わず、ただ黙って肩に手を置いた。
公園を出る間際、小林は振り返り、田中にこう尋ねた。
「田中さん、あなたは、この事件が終わった後、何を守れたと思いたいですか」
田中は、その問いに、しばらく答えられなかった。
「一人でも多くの人間の、これからの人生だ」
ようやく、田中はそう答えた。
「加害者であれ、被害者であれ、この事件に関わった全ての人間が、これ以上、誰かの手によって一方的に裁かれることのない未来を」
小林は、その言葉に、わずかに微笑んだ。それは、これまで田中が見たことのない、つきものが落ちたような表情だった。
公園を後にする小林の背中を見送りながら、田中は、この事件に関わる人間たちの誰もが、それぞれの形で、何かを償おうとしていることに、思い至った。高橋は娘のために、渡辺は姉のために、そして小林は、亡き妹のために。その償いの連鎖の中に、いつの間にか、田中自身の姿も重なりつつあった。
署に戻った田中は、小林から提供されたトークン保有履歴のデータを、伊藤に引き渡した。この記録が、ANONYMOUS_WHALEの正体を突き止める、新たな手がかりになる可能性があった。
「これで、また一歩前進できるかもしれない」
伊藤は、データを受け取りながら、疲れた声で、しかし確かな手応えを込めて言った。
田中は、その言葉にうなずきながらも、心のどこかで、この事件がまだ、最も困難な局面を迎えていないことを、予感していた。




