第十九章 綻び
田中が独自に美緒の事件の再調査を始めたのは、小林彩の証言を受けてからだった。
小林の告白は、田中の中に、ある予感を残していた。この事件に関わる誰もが、それぞれの立場で、物語を単純化して受け止めているのではないか――加害者は絶対悪として、被害者は絶対的な純粋さとして。その単純化こそが、審判DAOという仕組みを成立させている、見えない燃料なのではないか。その予感を確かめるために、田中は、まだ誰も疑っていなかった美緒の事件そのものに、もう一度、目を向けることにした。
三年前の当時の捜査記録、学校側の調査報告書、周辺の証言――既に閉じられていた事件のファイルを、田中は一つ一つ、丁寧に洗い直していった。資料室の片隅で、ほこりをかぶったままの段ボール箱を開け、当時の関係者の証言調書を一枚ずつ読み進めていく作業は、地道で、根気のいるものだった。
この作業は、本来であれば、もっと若い捜査員に任せてもよかった。だが、田中は、あえて自分自身の手でこれを行うことにこだわった。美緒という一人の少女の人生の最後の日々を、他人任せにすることは、田中にはどうしてもできなかった。
「見つけたか」
美咲が、資料を抱えて田中の机にやってきた。
「何かあったのか」
「当時、美緒さんの通っていた高校のスクールカウンセラーが作成した、非公式なメモが見つかりました。正式な調査報告書には含まれていない、担当カウンセラー個人の記録です」
田中は資料を受け取った。手書きの文字で、きちょうめんに日付とともに記された面談記録だった。ページの端が少し黄ばみ、長年しまい込まれていたことがうかがえた。
該当する日付のページを、美咲が指し示した。
「事件の二週間前――つまり、佐藤さんの投稿が拡散する前の面談記録に、気になる記述があります」
田中は、その一文を読んだ。
『美緒さん、最近クラス内の人間関係について相談。特定の生徒(Aとする)が、万引きをしているといううわさを、他の生徒から聞いたとのこと。美緒さん自身は、そのうわさを信じておらず、Aをかばう発言を繰り返している。「もしうわさが広まったら、Aが可哀想」と話していた』
「これは……」
田中の声が低くなった。
「はい」
美咲はうなずいた。
「つまり、美緒さん自身は、事件のわずか二週間前、別の生徒――『A』についての万引きのうわさを、すでに把握していたことになります」
「佐藤ひかりの投稿は、美緒さんを万引き犯だと誤認したものだった。だが、この記録によれば、そもそも最初に万引きのうわさが立っていたのは、美緒さんではなく、別の生徒だった可能性がある」
「そう考えられます」
美咲は、慎重に言葉を続けた。
「つまり――美緒さんは、自分がそのうわさの対象として誤認される可能性を、事前に、ある程度察知していたのかもしれません」
「なぜ、美緒さんは、その誤解を、周囲に説明しなかったんだろうか」
田中は、資料を手にしたまま、しばらく考え込んだ。人はなぜ、自分を犠牲にしてまで、他者を守ろうとするのだろうか。その心理は、田中自身にも、完全には理解しきれないものだった。
「一つの仮説ですが」
美咲は言った。
「メモの記述にある通り、美緒さんは、本当の『A』をかばおうとしていたのかもしれません。もし自分が『違う、万引きしたのはAだ』と説明すれば、今度はAが標的にされてしまう。美緒さんは、それを避けたかったのではないでしょうか」
「自分が誤解を受け入れることで、友人を守ろうとした……」
田中の胸に、重い痛みが広がった。資料室の蛍光灯が、静かに点滅していた。
「美咲、お前はこの仮説を、どれくらい確信している」
「カウンセラーのメモだけでは、確定的なことは言えません」
美咲は正直に答えた。
「でも、この面談記録の後、美緒さんの様子について、担任教師が『何か思い悩んでいる様子だった』と記録しています。時期的にも、内容的にも、つじつまが合います」
田中は、その言葉にうなずいた。状況証拠としては、決して弱くないと感じられた。
高橋が語ってきた美緒の物語は、「何の落ち度もない娘が、理不尽なデマによって一方的に命を奪われた」という、あまりにも純粋な悲劇だった。だが、この記録が示す真実、もう少し複雑だった。美緒自身が、ある種の自己犠牲的な沈黙を選んでいた可能性がある。
「高橋さんは、このことを知っているのか」
「分かりません」
美咲は首を振った。
「このカウンセラーのメモは、非公式な個人記録として扱われ、当時、遺族への開示対象にはなっていなかったようです」
田中は、深く息を吐いた。
「これを高橋さんに伝えるべきか」
「難しい判断です」
美咲は言った。
「もし高橋さんがこれを知れば、娘さんの死の物語が、これまで信じてきたものとは違う形に見えてしまうかもしれません」
「それでも」
田中は、静かに、しかし確かな声で言った。
「事実は事実だ。俺たちが、都合よく隠すことはできない」
田中の脳裏に、高橋が語った言葉がよぎった。
――これは私が作った怪物ではありません。私はただ、この社会の中に、もともと存在していた怪物のための、扉を開けただけです。
その言葉の根底にあった、「娘は純粋な被害者だった」という物語そのものに、綻びが生じようとしていた。
もし高橋が、この事実を知ったとき、審判DAOという仕組みを支えてきた彼の確信は、どう揺らぐのだろうか。田中には、まだ、その答えが見えなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
正義を求める怒りの根底にある物語もまた、時に、当事者自身によって、無意識のうちに単純化され、純化されている。美緒の死は、決して軽いものではない。だが、その悲劇の輪郭は、高橋が信じてきたものよりも、はるかに複雑で、はるかに人間的だった。
田中は、この発見が持つ意味の重さを、改めてかみ締めた。悲しみは、時として、その人を支える物語を必要とする。だが、その物語が単純であればあるほど、それは同時に、暴走の燃料にもなりうる。美緒の死という悲劇を、より複雑な、より人間的な形で理解し直すことこそが、この事件を止める、もう一つの鍵になるのかもしれなかった。
「田中さん、もう一つ」
美咲が、資料の別のページを開いた。
「このメモを書いたカウンセラーの方に、連絡を取ってみました。当時のことを、詳しく覚えているそうです。もしよろしければ、明日にでも、話を聞きに行けます」
「頼む」
田中はうなずいた。
「美緒さんが本当に守ろうとしていたものが何だったのか、少しでも多く、知っておきたい」
窓の外は、いつの間にか日が暮れかけていた。資料室の片隅に積まれた段ボール箱の山は、まだ半分も片付いていなかった。
美咲が資料をまとめ始めた時、田中はふと、彼女に尋ねた。
「美咲、お前はどう思う。もし美緒さんが、あの日、Aをかばわずに真実を話していたら、彼女は今も生きていたと思うか」
美咲は、しばらく考え込んでから答えた。
「分かりません。でも、もし美緒さんが真実を話していたら、今度はAさんが、同じように追い詰められていたかもしれません。この事件には、『これが正解だった』という道が、最初からどこにも存在しなかったんじゃないでしょうか」
その言葉は、田中の胸に、重く響いた。この国のどこかで、同じような選択を迫られている誰かが、今も静かに苦しんでいるのかもしれる。そう思うと、田中は、この事件の根の深さを、痛感せずにはいられなかった。
資料室を出る前、田中は、美緒の遺影のコピーを、もう一度だけ見つめた。その穏やかな笑顔の奥に隠されていた優しさと強さを、田中は、これから先、決して忘れないだろうと思った。
廊下を歩きながら、美咲が静かに言った。
「田中さん、高橋さんに、いつ、このことを伝えますか」
「時期を選ぶ必要がある」
田中は答えた。
「今の彼にとって、これは、これまで信じてきたもの全てを揺るがす事実だ。伝え方を誤れば、彼の心が、完全に折れてしまうかもしれない」
二人は、それ以上言葉を交わさないまま、それぞれの持ち場へと戻っていった。
田中は、自席に戻ると、カウンセラーの記録を、もう一度最初から読み返した。美緒という一人の少女が、三年前のあの日々、どれほどの葛藤を抱えながら、友人を守ろうとしていたのか。その心の内側を想像すればするほど、田中の胸には、言葉にならない痛みが広がっていった。
この事実を、いつ、どのように高橋に伝えるべきか。その判断は、これからの捜査の行方を左右する、重要な分岐点になるだろうと、田中は静かに悟っていた。




