第二十章 止められない
佐藤ひかりへの投票がしきい値まで残り一割を切ったのは、美咲がカウンセラーのメモを発見した、その翌日のことだった。
この数日、捜査本部には、仮眠を取る者すらほとんどいなくなっていた。折り畳みベッドが会議室の隅に並べられていたが、誰もそこに横になる余裕を持てずにいた。コーヒーの空き容器が、ゴミ箱からあふれそうになっていた。
差し入れの菓子パンの袋が、誰の手もつけられないまま、テーブルの端で萎びていた。極限まで張り詰めた緊張感の中で、食欲という日常的な感覚すら、誰の中からも失われつつあった。
捜査本部には、これまでにない緊迫した空気が漂っていた。伊藤はモニターの前に張り付き、投票の進捗をリアルタイムで監視し続けていた。壁に貼られたホワイトボードには、赤いマーカーで「残り時間」の目安が、書き換えられるたびに更新されていた。
「あと十二時間」
伊藤が、かすれた声で言った。
「このペースなら、明日の未明にはしきい値に到達する」
「何か手はないのか」
田中は問い詰めた。
「反対票を集めることは」
「理論上は可能だ」
伊藤は言った。
「別の候補が、佐藤ひかりを上回る票を得れば、優先順位が入れ替わる可能性はある。ただし――」
「ただし?」
「それは、別の誰かを、代わりにいけにえにするということになる」
田中は、拳を握りしめた。フロア全体に、重苦しい沈黙が広がった。誰もその選択肢を、口に出して支持することはできなかった。
「それだけは、絶対にできない」
田中は、はっきりと言った。
「誰かを守るために、別の誰かを犠牲にする――それでは、俺たちが止めようとしているシステムと、何も変わらなくなる」
美咲が、その言葉に、強くうなずいた。
「田中さんの言う通りです。私たちは、あの群衆とは違う方法で、佐藤さんを守らなければなりません」
伊藤は、しばらく黙り込んでから、静かに口を開いた。
「分かってる。ただの思考実験として言っただけだ。俺たちは、正攻法で、このしきい値を止める」
その時、逮捕後、勾留されたまま取調べに応じ続けていた高橋悟が、面会を求めているという連絡が入った。田中はすぐに向かった。
「刑事さん」
高橋の顔は、これまで見た中で、最もしょうすいしていた。
「渡辺君から、状況を聞きました。佐藤さんへの投票が、しきい値に近づいていると」
その顔には、拘留生活のやつれと、精神的な消耗が、はっきりと刻まれていた。三日前まで、確固たる信念を語っていた男の面影は、もはやほとんど残っていなかった。
「何か、システムを止める方法を知っているんじゃないか」
「知りません」
高橋は、絞り出すように言った。
「本当に、知らないんです。私達は、自分たちの手から、その権利を完全に奪い去った。今更それを後悔しても、コードは私達の後悔になど、一切反応しません」
「渡辺さんは何と」
「彼は今、コントラクトの脆弱性――バグのようなものがないか、必死に探しています。でも、もしそんなものが本当に存在するなら、僕らが設計段階で気づいていたはずだと。半年以上、あのコードを見つめ続けてきた彼が、そう言っているんです」
高橋は、両手で顔を覆った。
「私達は、自分たちの正義を絶対に裏切らせないために、絶対に止められない仕組みを作りました。その結果が、これです。自分たちの理念とは全く違う対象を、自分たちの意思とは無関係に、追い詰めようとしている」
「高橋さん」
田中は、重い決意を胸に、切り出した。
「あなたに、伝えなければならないことがあります」
高橋は、けげんな顔で田中を見た。
「美緒さんの事件について、新たな事実が見つかりました」
田中は、慎重に、しかし正確に、カウンセラーのメモの内容を伝えた。美緒が、事件の二週間前から、別の生徒に関するうわさを把握していたこと。そのうわさの対象をかばうように、自らが誤解を受け入れた可能性があること。
高橋の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……そんな」
高橋の声が震えた。
「美緒は、誰かを、かばっていた……?」
「あくまで、記録から推測される可能性の一つです。断定はできません」
「私は……」
高橋は、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「私は、娘は何一つ悪いことをしていない、ただ理不尽に選ばれただけの、純粋な被害者だと、ずっと信じてきました。だからこそ、私は――」
高橋の声が、かすれていった。両手が、力なく膝の上に落ちた。三年間、彼を支え続けてきた確信の柱が、今、音を立てて崩れ落ちていくのを、田中は目の当たりにしていた。
「私は、娘の名誉のために、この仕組みを作ったつもりでいた。でも、もし娘が、誰かをかばって、自ら沈黙を選んでいたのだとしたら……その優しさこそが、娘を守るべきだったものなのに、私は、その優しさを、憎しみに変換する装置を作ってしまった」
田中は、何も言わずに、高橋のどうこくに近い声を聞いていた。取調室の蛍光灯の光が、二人の間に、白く、冷たく降り注いでいた。
「私が信じてきた物語は、正しくなかったかもしれない」
高橋は、涙を流しながら言った。
「それなのに、その物語の名のもとに、私は佐藤さんという、娘と同じように、若さゆえの過ちを犯した少女を、今まさに、あの怪物の前に差し出そうとしている」
「高橋さん、今からでも、何かできることは」
「ありません」
高橋は、力なく首を振った。
「私達には、もう何も。ただ――」
高橋は、涙でぬれた顔を上げ、田中を見つめた。
「刑事さん。もし、私達にこのシステムを止める権利が残されていないのなら、あなた方警察に、それを止める方法を見つけていただくしかありません。技術でも、法律でも、あるいは――もっと別の手段でも」
その言葉は、皮肉なことに、これまで高橋がずっと拒み続けてきたはずの「法治」というものへの、初めての、そして痛切な信頼の表明だった。
捜査本部に戻った田中を待っていたのは、伊藤の険しい表情だった。
「田中さん、まずい」
「どうした」
「投票の伸びが、この一時間で急激に加速している。誰かが、大量のトークンを、一気に佐藤ひかりへの投票に投じ始めた」
モニターに映るグラフが、それまでのなだらかな上昇曲線から、突如として垂直に近い角度で跳ね上がっていた。
「ANONYMOUS_WHALEか」
「間違いない」
伊藤は、震える声で言った。
「このペースなら――」
「あとどれくらいだ」
伊藤は、画面の数字を見つめたまま、絞り出すように答えた。
「六時間。もって、六時間だ」
フロア全体に、これまでとは違う種類の緊張が走った。誰もが無言のまま、自分の持ち場に散っていった。壁の時計の秒針が、いつもよりずっと大きな音を立てているように、田中には感じられた。
美咲が、田中の隣に来て、静かに言った。
「田中さん、私達、間に合わせましょう」
その言葉に、田中は小さくうなずいた。返す言葉は多く必要なかった。この六時間で、これまでの捜査の全てが試されようとしていた。
中川部長が、フロア全体に響く声で、緊急対策本部の設置を宣言した。サイバー特捜だけでなく、捜査一課、組織犯罪対策部、そして金融庁との連携窓口までもが、一つの部屋に集められることになった。これまで個別に動いていた捜査の全リソースが、たった一つの目標――六時間以内にシステムの暴走を止める、という一点に、集約されようとしていた。
「全部隊、招集完了までの見込みは」
中川が尋ねた。
「三十分以内には」
美咲が答えた。
「よし」
中川はうなずいた。
「三十分後、作戦会議を開く。それまでに、各自、持ちうる情報を全て整理しておけ」
田中は、窓の外を見た。まだ夜は明けていなかったが、その闇の向こうに、微かな白み始めの気配が感じられた。この六時間が、これまでの人生で最も長い六時間になることを、田中は静かに覚悟していた。
美咲が、隣に来て、静かに言った。
「田中さん、佐藤さんは、今どこに」
「安全な場所に移送済みだ。だが、それだけでは、まだ足りない」
田中は言った。
「このシステムそのものを、止めなければ、彼女は一生、おびえ続けることになる」
伊藤が、疲れきった顔を上げて言った。
「六時間で、何ができるか分からない。でも、やれることは、全部やる」
三人は、それぞれの決意を胸に、それぞれの持ち場へと散っていった。




