第二十一章 法の外側
「六時間」
中川部長は、その数字を復唱すると、深く息を吐いた。緊急招集された対策会議室には、サイバー特捜だけでなく、捜査一課の幹部、そして法務担当の職員までもが顔をそろえていた。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーカップと、開かれたままのノートパソコンが、雑然と並んでいた。誰一人として、椅子に深く座り込む余裕を持てずにいた。
「六時間後に何が起きるのか、正確には分かっていません」
中川は続けた。
「ですが、これまでの経緯を踏まえれば、最悪の事態を想定して動く必要があります」
「法的な選択肢を、もう一度整理してくれ」
法務担当の職員が、資料を読み上げた。
「まず、審判DAOのスマートコントラクト自体を、法的な意味で『停止』させる手段は、現行法上、存在しません。これは、契約の相手方が存在しない、コード自体を被告にすることができないという、根本的な限界によるものです」
「では、何ができる」
法務担当の職員は、さらに続けた。
「もう一つ、検討すべき論点があります。仮に審判DAOのトークン保有者全員を、共同正犯として立件しようとした場合、その対象は数万人規模に及びます。現実的に、全員を訴追することは不可能です。ですが、主導的な役割を果たした人物――創設メンバーと、意図的にシステムを操作した大口保有者については、明確な刑事責任を問うことができるはずです」
「その線で進める」
田中は言った。
「末端の一人一人を裁くことより、この仕組み全体を機能不全にすることの方があ、今は優先度が高い」
「第一に、拉致監禁の実行犯――現場で物理的に佐藤さんを拘束し得る人物の特定と検挙。第二に、審判DAOへの資金供給ルートの遮断。トークンの購入自体を困難にすることで、投票の進行速度を落とすことは、理論上可能です」
「第三の選択肢はないのか」
田中が尋ねた。
法務担当の職員は、少し言いよどんでから答えた。
「一つだけ、極めて例外的な手段があります。緊急事態における、通信の遮断要請です。ただし、これは表現の自由やプライバシー権との兼ね合いで、極めて高いハードルがあります。裁判所の理解を得るだけでも、通常なら数日を要する手続きです」
「六時間しかない」
田中は言った。
「承知しています」
職員はうなずいた。
「それでも、最速で動きます」
職員は、すでに裁判所への緊急連絡を試みていた。深夜であっても対応可能な当直の裁判官を探し出し、事案の緊急性を説明する準備が、着々と進められていた。
「六時間で、どちらが間に合う」
田中が問うた。
「実行犯の特定は、現時点で手がかりがありません」
美咲が答えた。
「高橋さんたちも、実行の現場そのものには関与していないと供述しています。おそらく、別の実行部隊が存在します」
「資金遮断の方は」
「伊藤さんが、複数の取引所に緊急要請を出しています」
美咲は続けた。
「ただし、海外の一部の取引所は、令状の効力が及ばない、あるいは対応に時間がかかる可能性があります」
中川は、こめかみを押さえた。
「六時間で、我々にできることは限られている、ということか」
「一つだけ」
田中は言った。
「ANONYMOUS_WHALEの動きを止めることができれば、状況は変わります。投票の急加速は、明らかにこの一つのウォレットによって引き起こされている。この大口保有者さえ特定できれば、法的な圧力をかけることができます」
「特定できたとして、それが海外法人だったら、どうする」
中川が鋭く尋ねた。
「その可能性も、当然考慮しています」
田中は答えた。
「ですが、少なくとも国内から資金が動いているなら、国内法での対応が可能になります。伊藤の解析次第です」
会議室の隅で、若手の捜査員が、震える声で発言した。
「あの……もし本当に、佐藤ひかりという一般市民が狙われているのだとしたら、彼女以外にも、同じように『候補者』として名前が挙がっている人間が、他にもいるということですよね。その人たち全員を、俺たちは守り切れるんでしょうか」
その問いに、部屋の空気が、また一段と重くなった。誰も、すぐには答えられなかった。
「今は、目の前の六時間に集中する」
田中は、努めて平静な声で言った。
「その先のことは、この六時間を乗り越えてから考える」
その答えが、十分な回答になっていないことは、田中自身が一番よく分かっていた。だが今は、それ以上のことを、誰にも約束できなかった。
「その特定作業は」
その時、会議室のドアが勢いよく開き、伊藤が飛び込んできた。ノートパソコンを抱え、息を切らしている。
「田中さん、見つかった」
「WHALEの正体か」
「まだ確定じゃない。だが、有力な手がかりだ」
伊藤はノートパソコンを開き、画面を掲げた。
「このウォレットが資金を引き出す際に利用している取引所の一つで、過去に一度だけ、本人確認のためのメールアドレスが、別のオンラインサービスの登録情報と一致していた痕跡が見つかった」
「誰だ」
「民間の、マーケティング会社だ」
伊藤は言った。
「『バズる』ことそのものを商品として扱う、SNS上のトレンド分析とインフルエンサー仲介を専門にしている会社らしい」
会議室に、微妙などよめきが広がった。
「報復でも、正義感でもなく――ビジネスとして、この仕組みに介入しているということか」
田中は、信じがたい思いでつぶやいた。
「可能性が高い」
伊藤は険しい顔でうなずいた。
「考えてみれば、筋が通ってる。審判DAOのトークンは、公開されているブロックチェーン上で、自由に売買できる。話題性が高まれば高まるほど、トークンの価格は乱高下する。もし、その値動きを事前に予測し、あるいは意図的に作り出せる立場にいる人間がいたら――」
「価格操作で、利益を得られる」
田中は、言葉を引き継いだ。
「それだけじゃない」
伊藤は続けた。
「この会社は、おそらく、投票の過熱そのものを、SNS上のトレンド分析データとして商品化している可能性がある。何が人々を熱狂させ、何が拡散し、何が『買われる』のか――審判DAOは、彼らにとって、またとない実験場だったのかもしれない」
田中の中に、これまでとは質の違う怒りが湧き上がった。
悲しみに突き動かされた高橋たちの報復は、少なくとも人間的な痛みに根ざしていた。だが、もしこの推測が正しいなら、目の前で進行している暴力は、単なる金もうけの道具として、誰かに冷静に、事務的に、利用され尽くしているだけだった。
「会社名は」
田中は、低い声で尋ねた。
伊藤は、画面をスクロールし、一つの社名を指し示した。
「株式会社――トレンドフォージ」
「聞いたことのない名前だな」
中川が眉をひそめた。
「表向きは、中堅のデジタルマーケティング会社です」
伊藤は続けた。
「大手企業のSNS運用代行や、インフルエンサーとのタイアップ企画を請け負っている。少なくとも、公開されている事業内容には、何一つ違法性はありません」
「その会社が、なぜこんなことに関わっている」
田中は言った。
「それを、これから突き止める」
伊藤は、キーボードをたたきながら手を止めなかった。
「代表者の名前、資本関係、取引先――全部、洗い出す」
中川は、深く息を吐いてから、部屋全体を見渡した。
「六時間だ。全員、持ち場に戻れ。一分一秒も無駄にできない」
会議室にいた全員が、一斉に立ち上がった。椅子を引く音が、フロアに重なり合って響いた。田中は、窓の外に広がる、まだ明けきらない空をちらりと見た。この六時間の中で、何を成し遂げられるのか、今はまだ、誰にも分からなかった。
廊下を歩きながら、美咲が田中に並んだ。
「田中さん、トレンドフォージという会社、本当に、ただのビジネスとしてこれをやっているんでしょうか」
「分からない」
田中は答えた。
「だが、動機が何であれ、今、俺たちが止めなければならない相手であることに変わりはない」
二人は、それぞれの持ち場へと、足早に散っていった。刻一刻と減っていく残り時間だけが、この後の展開を支配する、唯一絶対の変数だった。
中川部長は、対策会議室に一人残り、上層部への報告書を作成し始めていた。この事件が、どのような結末を迎えようとも、その全ての責任は、最終的に自分が負うことになる。その重圧を、彼は誰にも見せない形で、静かに引き受けていた。
廊下を歩く田中の耳に、あちこちの電話が鳴り響く音が届いた。全ての音が、残り時間の少なさを、容赦なく告げているように聞こえた。
伊藤は、自分のデスクに戻ると、すぐさまトレンドフォージという会社について、可能な限りの公開情報を集め始めた。設立年、資本金、役員構成、取引先――一つ一つのデータが、この会社の輪郭を、少しずつ浮かび上がらせていった。
「田中さん、見つけた」
伊藤が、しばらくして声を上げた。
「相良雅人の個人的な経歴が、いくつか出てきた。大手広告代理店出身、その後独立。専門は、行動経済学を応用したマーケティング戦略らしい」
「行動経済学、か」
田中はつぶやいた。
「人の心の動きを、数字として扱うことに、長けた人間ということだな」
その言葉に、伊藤は険しい表情でうなずいた。この事件の裏に潜む敵の輪郭が、少しずつ、しかし確実に、その姿を現しつつあった。




