第二十二章 資金の壁
株式会社トレンドフォージへの強制捜査には、緊急の裁判所令状を要した。
残り時間は、四時間半を切っていた。捜査員たちが六本木にある同社のオフィスに到着した頃には、すでに社員のほとんどが退社していた。オフィスは、いかにも今どきのIT企業といった内装で、観葉植物とガラス張りの会議室、壁一面に貼られたSNSのトレンドランキングのプリントアウトが、蛍光灯の光を反射していた。だが、代表取締役――相良雅人、四十二歳は、まだフロアに残っていた。
田中が踏み込んだ時、相良はモニターの前に座ったまま、驚くほど落ち着いた表情でこちらを見た。デスクの上には、複数のモニターが並び、リアルタイムのSNSトレンド分析ツールと思われる画面が、絶え間なく数字を更新し続けていた。
「警察の方ですね。想定していました」
その物言いに、田中は苛立ちを覚えた。まるで、これから起きることの全てを、すでに織り込み済みであるかのような、余裕を感じさせる態度だった。
「審判DAOのトークン、ANONYMOUS_WHALEと呼ばれるウォレットについて、話を聞かせてもらう」
「否定はしません」
相良は、あっさりと言った。
「弊社のマーケティング戦略の一環として、あのプロジェクトのガバナンストークンを、大量に取得しています」
「戦略の一環、というのはどういう意味だ」
相良の言葉に、田中の声が険しくなった。
「今この瞬間も、一人の女性が、あなたの『戦略』によって、命の危機にさらされている」
「誤解されているようですが」
相良は、みじんも動じずに言った。
「私達は、彼女の身に何が起きるかについて、直接的な決定権を持っているわけではありません。私達がしているのは、あくまで、公開されているガバナンストークンの、合法的な市場取引です」
「合法的、だと」
「はい」
相良はうなずいた。
「暗号資産の売買自体は、日本国内において合法です。私達は、トークンの価格変動を予測し、適切なタイミングで売買を行っているに過ぎません。投票行動そのものは、あくまで、私達を含む無数の保有者一人一人の、自由な意思です」
「あなたが、特定の対象への投票を、意図的に加速させているという証拠がある」
田中は、押収した取引ログの一部を、テーブルの上に置いた。
「これを見てくれ。あなたのウォレットから、佐藤ひかりへの投票に、繰り返し大量のトークンが投じられている。時間的なパターンからも、意図的な操作であることは明白だ」
相良は、その資料に視線をくれただけで、表情を変えなかった。
「弊社は、市場のトレンドに追従しているだけです」
相良は、まるで用意していたかのように、よどみなく答えた。
「注目度の高い対象――より多くの人々の感情を動かす対象に、より多くの資金が集まる。これは、市場の当然の帰結です。私達は、その流れを『先読み』しているに過ぎません」
田中は、拳を握りしめた。
「あなたにとって、一人の人間の命は、何だと思っているんだ」
相良は、初めて、わずかに表情を動かした。それは反省の色ではなく、むしろ、当惑にも似た表情だった。
「刑事さん、誤解しないでいただきたい。私は、佐藤ひかりという女性に、個人的な恨みも、悪意も、何も持っていません。彼女が誰であるかすら、正直、興味がありません」
「なら、なぜ」
「データです」
相良は、淡々と言った。
「審判DAOという現象は、人間の集団心理がどのように動き、どのように熱狂し、どのように残酷になり得るかを、これまでにない精度で可視化しています。この行動データは、広告業界にとって、喉から手が出るほど欲しい情報です。何が人を動かすのか。何が『バズる』のか」
「具体的に、何に使うつもりだった」
美咲が問いただした。
「様々な用途が考えられます」
相良は、淡々と答えた。
「炎上を未然に防ぐための予測モデル、逆に、意図的に話題を作り出すためのシミュレーション。企業のブランディング、政治広告、あらゆる分野で応用が利きます。人間の集団がどこで沸騰し、どこで冷めるのか――そのしきい値を正確に知ることは、莫大な価値を持ちます」
「人間を、実験動物みたいに扱っているんだな」
田中は、吐き捨てるように言った。
「実験動物、という表現は好みませんが」
相良は、初めて僅かに眉根を寄せた。
「否定はしません」
「だとしても、なぜ、これまでのように分かりやすい悪人を対象にし続けなかった」
田中は問い詰めた。
「なぜ、佐藤ひかりのような、一般人にまで対象を広げようとした」
「明確な悪人を裁く配信は、もう二回やりました」
相良は、あくまで淡々と答えた。
「同じパターンの繰り返しは、市場を飽きさせます。次に何が来るか読めない、賛否が真っ二つに割れるような対象の方が、はるかに大きな注目と、はるかに大きな価格変動を生む。彼女のように、加害者でもあり被害者でもあるという、割り切れない立場の人間ほど、議論は白熱し、トークンは動く」
相良の声には、罪悪感の欠片も感じられなかった。
「あなたたちは、人間の悲劇を、商品として売っているのか」
「言葉を選んでいただければ、そうなります」
相良は、あくまで平静だった。
「ですが刑事さん、これは弊社だけの特殊な行いではありません。この国の、いや、世界中のメディアやプラットフォーム企業が、多かれ少なかれ、同じことをしています。悲劇は、注目を集める。注目は、広告収入になる。それだけのことです」
田中は、相良の目を見据えた。そこには、憎悪も狂気も見当たらなかった。ただ、恐ろしいほどへいたんな、事務的な計算だけがあった。
「トークンの取引を、今すぐ停止しろ」
「それは、できません」
相良は小さく首を振った。
「先ほども申し上げた通り、私達は合法的な市場取引を行っているに過ぎません。裁判所の正式な差し止め命令がない限り、応じる法的義務はありません」
美咲が、手元の資料を差し出した。
「相良さん、あなたは以前、大手広告代理店に勤務されていましたね。そこを退職して、この会社を立ち上げた」
「よくお調べですね」
相良は、初めて微かに眉を動かした。
「なぜ、独立を」
「大きな組織の中では、本当に面白いデータは、いつも誰かの承認待ちで腐っていく」
相良は言った。
「私は、もっと速く、もっと直接的に、人間の欲望と行動の相関を見たかっただけです」
田中は、令状に記された文言を、素早く確認した。捜索差押えの権限はあっても、暗号資産取引そのものを直ちに停止させる法的根拠は、この令状には含まれていなかった。
「相良さん」
美咲が、横から口を挟んだ。
「あなたのお子さんは、今、おいくつですか」
その質問に、相良は初めて、明らかな動揺を見せた。
「……娘が一人います。まだ小学生です」
「もし、あなたの娘さんが、いつか、誰かの悪意ある投稿によって、こんな風に追い詰められることがあったら。あなたはそれでも、これを『データ』だと言い切れますか」
相良は、しばらく沈黙した。その沈黙は、これまでの彼の平静さの中で、初めて生まれた小さな亀裂のように、田中には見えた。
「……それは、話が別です」
相良は、ようやくそう答えた。だが、その声には、これまでのような揺るぎない自信は感じられなかった。
「話は、別じゃない」
田中は、静かに、しかし力強く言った。
「あなたが今、商品として扱っているデータの向こう側には、あなたの娘さんと同じように、誰かに愛され、誰かの日常を生きている、一人の人間がいる。それを忘れた瞬間、あなたは、あなたが嫌悪しているはずの群衆と、何も変わらなくなる」
相良は、何も答えなかった。ただ、視線を、モニターの中の取引履歴へと、静かに逸らした。
「伊藤」
田中は、背後に控える伊藤を振り返った。
「時間は」
伊藤は、腕時計に目を落とした。
「残り、三時間五十分」
法の網の外側で、無情に、時間だけが過ぎていた。
オフィスを出た田中と美咲は、車に乗り込みながら、しばらく無言だった。相良の冷徹な論理は、田中の中に、これまでのどの容疑者とも違う種類の嫌悪感を残していた。憎しみや悲しみに突き動かされた高橋たちとは対照的に、相良には、人間的な感情の揺らぎが、驚くほど希薄だった。
「田中さん」
美咲が、ゆっくり口を開いた。
「相良のような人間が、この社会にどれだけいるんでしょうか」
「分からない」
田中は答えた。
「だが、少なくとも一人、俺たちの目の前にいる。それだけで、十分に厄介だ」
車は、次の目的地――トレンドフォージの資金の流れを追うため、金融庁との合同捜査本部へと向かっていった。
車内で、美咲が低い声で言った。
「田中さん、相良のような人間が、これからも現れ続けるんでしょうか」
「おそらく、な」
田中は、窓の外を流れる夜景を見つめながら答えた。
「悲しみも、憎しみも、そして人間の弱さそのものも、金になると分かった瞬間、必ず誰かがそれを利用しようとする。俺たちにできるのは、その一つ一つを、根気強く潰していくことだけだ」
美咲は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、フロントガラスの向こうに広がる夜明け前の空を、静かに見つめ続けていた。
金融庁との合同捜査本部に到着すると、そこにはすでに、専門知識を持つ職員たちが、待機していた。暗号資産取引の凍結要請、海外取引所への国際協力要請――やるべきことは山積していたが、残された時間は、あまりにも少なかった。
「できることから、全部やる」
田中は、集まった職員たちに向かって、力強く宣言した。その声には、これまでの疲労を吹き飛ばすような、強い決意が込められていた。




