第二十三章 群衆を止める群衆
「合法的な取引を、法で止められないなら」
トレンドフォージのオフィスを出た車中、田中は助手席の伊藤に向かって言った。
「別の力で、止めるしかない」
「別の力、とは」
「相良は言っていた。市場は、注目を集める方向に流れると。だったら――」
田中の頭の中で、一つの作戦が形を取り始めていた。
「相良たちの正体を、公にする」
「暴露する、ということですか」
伊藤が眉をひそめた。
「捜査情報を、勝手に外部に漏らすのは」
「正式な記者発表という形は取れない。捜査中の情報だからな」
田中は、スマートフォンを取り出した。
「だが、一人だけ、この情報を扱うにふさわしい人間を知っている」
電話口で、小林は一瞬の沈黙の後、静かに言った。
「分かりました。やります」
その声には、これまでの取材者としての慎重さとは違う、覚悟に似た響きがあった。彼女にとってこれは、単なるスクープではなく、自分自身が投票者の一人として関わってしまった事件への、けじめでもあるのだろうと、田中は思った。
三十分後、小林彩は、捜査本部からもたらされた情報――ANONYMOUS_WHALEの正体が、感情に一切左右されない、純粋な利益目的のマーケティング企業であるという事実を、匿名の情報源として、自身のSNSアカウントと、提携する報道メディアの緊急速報という形で、同時に発信した。
『審判ライブの「大口投票者」正体は、バズと悲劇を金に変えるマーケティング企業だった』
その一文は、これまで審判ライブを「正義の執行」として支持してきた層にも、あるいは単に娯楽として消費してきた層にも、強烈な衝撃をもって受け止められた。
自分たちが「正義」あるいは「エンタメ」だと信じて参加していたはずの投票が、実は、見ず知らずの企業の金もうけの道具として、意図的に誘導され、利用されていた。その事実は、多くの視聴者にとって、耐え難い屈辱として受け取られた。
コメント欄の潮目が、目に見えて変わり始めた。
『マジかよ、利用されてただけかよ』
『トークン全部売った』
『こんなの正義でもなんでもない、ただの投機商品じゃん』
『トレンドフォージ許さない』
伊藤は、モニターを凝視しながら、驚きの声を上げた。
「投票のエスカレーションが、鈍化し始めてる」
「効いてるのか」
「まだしきい値到達までの残り時間は縮まってるが、加速度が明らかに落ちてきてる。小口の保有者たちが、次々とトークンを手放し始めてる。相良たちの介入への反発から、佐藤ひかりへの投票を取り下げる人間も出てきてる」
田中は、モニターの中のグラフを見つめた。垂直に近かった曲線が、緩やかな弧を描き始めていた。
「群衆の怒りが、群衆の暴走を止めようとしている」
田中はつぶやいた。
「皮肉なものだな」
「まだ、油断はできません」
美咲が言った。
「相良たち自身が、保有トークンを手放していないなら、あの巨大な保有量そのものは、依然として脅威のままです」
伊藤は、画面をスクロールしながら、独り言のようにつぶやいた。
「これは、群衆心理の面白い実例だ。正義感で参加していた層と、面白半分で参加していた層、そして今回、裏切られたと感じて離脱していく層――それぞれの反応速度が、見事に可視化されている」
「伊藤、今は分析している場合じゃない」
田中がとがめるように言った。
「分かってる」
伊藤は、少し決まり悪そうに言った。
「ただ、こういう時こそ、冷静にデータを見なきゃいけないと思ってさ」
その時、伊藤のモニターに、新たな警告が表示された。
「田中さん、相良のウォレットが動いた」
「どっちだ」
「――売却してる」
伊藤は、信じられないという表情で画面を見つめた。
「トレンドフォージのウォレットが、保有していたトークンの大半を、一気に市場に放出し始めた」
「なぜだ、まだ利益を得られるはずだろう」
「分からない」
伊藤は首を振った。
「あるいは、企業としてのブランドイメージの毀損を、これ以上大きくしないための、損切りかもしれない。彼らにとっては、佐藤さんの安否よりも、株主や取引先からの評判の方が、はるかに重要なんだろう」
田中は、その分析を聞きながら、改めて相良という人間の底の見えなさを思った。正義感でも、悪意でもなく、ただ純粋な損得勘定だけで動く人間。その存在は、憎しみに囚われた高橋たちよりも、ある意味でずっと不気味だった。
その言葉の冷たさに、田中は、あらためて強い嫌悪を覚えた。
人の命をてんびんにかけていたのは、憎しみに囚われた遺族たちだけではなかった。もっと平然と、もっと軽やかに、人の苦しみを数字として扱う存在が、社会のすぐそばに潜んでいた。
「時間は」
田中は尋ねた。
伊藤は、時計とモニターを交互に見つめた。
「しきい値到達まで、まだ猶予がある。……このままなら、間に合うかもしれない」
わずかながら、希望の光が差し込んだ。だが田中の胸の中には、依然として消えない不安が残っていた。
美咲が、静かに口を開いた。
「田中さん、これで良かったんでしょうか。私たちは今、群衆の力を利用して、別の群衆の暴走を止めました。それって、結局、私たちも同じ土俵に立ってしまったということじゃ……」
田中は、すぐには答えられなかった。美咲の指摘は、田中自身の胸の中にもあった、拭いきれない違和感そのものだった。
「今は、それを考えている時間はない」
田中は、ようやくそう答えた。
「今、俺たちにできることを、やるしかない」
その言葉が、自分自身への言い訳のように響いたことに、田中は気づいていた。
伊藤が、モニターから顔を上げずに、独り言のようにつぶやいた。
「皮肉なもんだな。正義を気取る金融システムを、正義感に燃えた群衆の怒りで止める。まるで、毒を持って毒を制すみたいだ」
「それしか、今の俺たちには武器がなかった」
田中は言った。
「だが、これが最後の武器になるとは思っていない。今度は、俺たち自身が、次の暴走の火種にならないよう、気をつけなければならない」
車は、捜査本部へと続く夜道を、静かに走り続けていた。窓の外を流れる街の灯りが、田中の目には、いつもよりずっとはかなく見えた。
小林彩からは、その後も断続的に、コミュニティ内部の反応が報告され続けた。彼女の発信した情報は、単なる速報にとどまらず、次第に、審判DAOという現象そのものへの批判的な検証記事へと発展していった。田中は、彼女がこの数時間で書き上げた文章の量に、驚きを隠せなかった。まるで、これまでため込んできた全てのものを、一気に吐き出しているかのようだった。
伊藤は、モニターの前で、トレンドフォージのウォレットの動きを注視し続けていた。売却された大量のトークンが、市場のどこへ流れていくのか、その行き先を追うことも、今後の捜査にとって重要な手がかりになるはずだった。
「田中さん」
伊藤が、ふと顔を上げた。
「一つ、気になることがある」
「なんだ」
「相良たちが売却したトークンが、市場でかなりの値崩れを起こしている。これだけの規模の投げ売りだ、しばらくは市場全体が混乱するはずだ」
伊藤は、緊張した面持ちで言った。
「その混乱に乗じて、また誰かが同じ隙間に入り込んでこないとも限らない」
その言葉に、田中の胸に、新たな不安の影が差した。一つの脅威を退けたとしても、このゆがんだ市場そのものが存在する限り、また別の誰かが、同じ隙間に入り込んでくる可能性がある。
「今は、目の前の危機に集中する」
田中は、自分に言い聞かせるように言った。
「その先のことは、この六時間を乗り切ってから、必ず対処する」
伊藤はうなずき、再びモニターに向き直った。新たな不安の種を抱えたまま、時計の針は、なおも容赦なく進み続けていた。
美咲が、田中に小さく声をかけた。
「田中さん、少しだけでも、休んでください。ここ数日、ほとんど眠っていないでしょう」
「お前もだろう」
田中は、疲れた笑みを浮かべた。
「だが、今は休めない。あと少しで、何かが動く。その予感がする」
その予感は、決して根拠のないものではなかった。事件は今、最も危うい均衡点に差し掛かろうとしていた。
小林彩からの続報が届いたのは、その直後だった。コミュニティ内部では、トレンドフォージへの非難がさらに拡大し、一部の熱心な支持者たちが、逆に投票を続けようとする動きを見せているという。群衆の怒りは、単純な方向には収束せず、複雑な渦を巻き続けていた。
「まだ、油断はできない」
田中は、報告を聞きながら、気を引き締め直した。人間の集団心理は、予測不可能な方向に、いつでも転がりうるものだった。




