第八章 小林彩
小林彩が田中に接触してきたのは、事件発生から三日目の午後だった。
本庁の広報課を通じた正式な取材依頼ではなく、田中の携帯に直接、一本のメッセージが届いた。フリージャーナリストの名刺には見覚えがあった。以前、別の事件の取材で一度だけ名刺交換をしたことがある。あの時は、確か企業の情報漏洩事件を追っていた記者で、粘り強く、しかし節度を保った取材姿勢が印象に残っていた。
『審判DAOの件、独自に調べています。警察の公式発表とは違う情報を持っているかもしれません。一度お話しできませんか』
メッセージには、さらにこう続いていた。
『捜査の邪魔をするつもりはありません。ただ、この事件の本質を、正確に伝えたいと思っています』
その一文に、田中は、単なる特ダネ狙いの記者とは違う何かを感じ取った。
田中は、しばらく迷った末に、応じることにした。情報源として使えるなら使う。それが仕事だった。加えて、彼女の取材姿勢に対する、ある種の信頼のようなものも、心のどこかにあったのかもしれない。
二、 フリージャーナリスト・小林彩
小林彩、三十一歳。
大手新聞社を数年前に退職し、現在はフリーランスとして活動していると聞いていた。組織に属さない分、取材の自由度は高いが、その分だけ、情報の裏取りには人一倍慎重だという評判もあった。田中の記憶の中の彼女は、常に一歩引いた場所から、冷静に事実だけを追いかける記者だった。
なぜ大手新聞社を辞めたのか、田中はその理由を知らなかった。ただ、業界内のうわさでは、組織の意向に沿わない記事を書こうとして、上層部と衝突したことが原因だとも言われていた。真偽は定かではなかったが、そのうわさは、田中が知る小林彩という人物の輪郭に、妙に説得力を持って重なるものだった。
三、 古い喫茶店での開示
待ち合わせたのは、本庁から少し離れた古い喫茶店だった。昭和の面影を残す木製のカウンターと、年季の入った革張りのソファ。窓際の席に座っていた小林彩は、資料の詰まったトートバッグを抱え、疲労の色を隠せない顔をしていた。目の下のくまは、まるで伊藤のそれと似たような色をしていた。この事件を追う人間は皆、同じように睡眠を犠牲にしているのだろうと、田中はぼんやりと思った。
「お時間いただき、ありがとうございます」
「独自の情報、というのは」
田中は前置き抜きに切り出した。
小林は少しためらうような間を置いてから、タブレット端末を取り出した。指先が、画面の表面をなぞる。
「審判DAOのコントラクトアドレス、公開されているものはご知ですよね」
「うちの技術班も追っている」
「私は、コントラクトそのものよりも、それを取り巻くコミュニティを追っていました。ダークウェブ上のフォーラムに、審判DAOに関する議論スレッドがいくつか立っています。その中の一つに、開発初期――半年以上前の投稿とみられる、興味深い書き込みがありました」
「どうやってそのフォーラムにたどり着いた」
田中は尋ねた。
「取材源は明かせません」
小林は、静かに、しかしきぜんとした口調で言った。
「ジャーナリストとして、それだけは譲れない一線です」
田中は、それ以上は追及しなかった。だが、彼女がこれほど迅速に、警察の技術班すらたどり着いていない情報源に接触できていることに、かすかな違和感を覚えずにはいられなかった。それは単なる取材力の高さでは説明のつかない、何か個人的なつながりを感じさせるものだった。
四、 暗号めいた書き込みと「M」
小林はタブレットの画面を田中の方に向けた。翻訳ソフトを通したような、やや不自然な日本語の文章が表示されていた。
『法が裁かないなら、我々が裁く。これは報復ではない。合意だ。誰も、これを止めることはできない。止める権利すら、私たちは自分たちから奪った』
「これを書いたのは?」
「ハンドルネームは『M』とだけ」
小林は言った。
「この投稿の前後を追うと、複数のアカウントが、明らかに現実の炎上事件の被害者遺族と思われる立場から発言しています。息子を、娘を、あるいは大切な人を、ネット上の誹謗中傷やさらし行為によって喪った、という趣旨の告白が、断片的に見つかります」
「つまり、開発の中心にいるのは……」
「遺族だと思います」
小林は静かに言った。
「少なくとも、その一部は」
「『M』というハンドルネームに、心当たりは」
田中は尋ねた。
「まだ、断定はできません」
小林は首を振った。
「ただ、投稿の文体や、使われている言葉の選び方から、教育関係の仕事をしている人物ではないか、という印象を持っています。生徒に語りかけるような、独特の言い回しが、いくつかの投稿に共通して見られます」
その指摘が何を意味するのか、この時点の田中には、まだ確信することはできなかった。ただ、「生徒に語りかけるような文体」という一言だけが、妙に耳に残った。
五、 個人としての「揺らぎ」
田中は彼女の顔を見つめた。ジャーナリストとして冷静に語っているようでいて、その目の奥に、単なる取材対象を語る以上の、何か個人的な揺らぎがあるように見えた。喫茶店の照明の下で、その表情の陰影が、いつもより深く見えた。
「小林さん」
「はい」
「あなたは、なぜこの件を追っているんですか」
一瞬、小林の表情が固まった。それは職業的な間ではなく、明らかに不意を突かれた反応だった。持っていたコーヒーカップに伸びかけた手が、宙で止まった。
「……単純に、ジャーナリストとしての関心です」
「それだけには見えない」
小林は目を伏せ、しばらく答えなかった。喫茶店の古い柱時計が時を刻む音だけが、二人の間に響いていた。カウンターの奥で、マスターが静かにコーヒー豆をひく音が、遠くから聞こえてきた。
「田中さん」
ようやく、小林が口を開いた。
「今日は、この情報をお渡しするためだけに来ました。それ以上のことは、また別の機会に」
その言葉には、明らかに何かを隠す響きがあった。だが田中は、それを今この場で追及することはしなかった。捜査官としての勘が、今は押すべき時ではないと告げていた。
「情報提供に感謝する」
田中は言った。
「ただ、一つだけ言っておく。あなたが何を抱えていても、この事件に個人的な形で関わっているなら、早めに話してほしい。この先、危険な局面が来る可能性がある」
小林は小さくうなずいた。だが、そのうなずきが、田中の言葉に対する同意なのか、それとも別の何かへの覚悟なのか、田中には読み取れなかった。
六、 問いかけと背中
「もう一つ、伺ってもいいですか」
小林が、話題を変えるように言った。
「捜査本部としては、この事件を、どう位置づけていますか。単なる私刑事件として? それとも、もっと大きな、社会的な現象として?」
その問いは、田中にとっても、まだ明確な答えを持ち合わせていないものだった。田中は少し考えてから答えた。
「両方だ。個々の事件としては、拉致監禁であり、傷害であり、場合によっては殺人になる。だが、それだけじゃない。この事件は、この国のネット社会が抱えている何かを、剥き出しにしている。それが何なのか、俺たちはまだ、はっきりと言葉にできていない」
小林は、その言葉に何かを感じ取ったように、小さく息を吐いた。
「その『何か』の正体が分かった時、この国は、少し変わるかもしれませんね。良い方向にか、悪い方向にかは、分かりませんが」
喫茶店を出た後、田中は小林の後ろ姿をしばらく見送った。
彼女の足取りは、事件を追う記者のものというより、何か大切なものを弔いに行く人間の足取りに、田中には見えた。夕暮れの雑踏に紛れていく彼女の姿を、田中は、これから何度も思い出すことになる。
七、 残された空白
署に戻る道すがら、田中はふと、小林彩という記者について、自分がどれほど何も知らないかに気づいた。
彼女の経歴、彼女の私生活、彼女がこれまで何を取材してきたのか――名刺交換をした時の印象以外、田中の手元には何一つ確かな情報がなかった。この事件が終わる頃には、その空白が、どんな形で埋まることになるのか、この時の田中には、まだ知る由もなかった。
署に着くと、美咲が資料を抱えて駆け寄ってきた。
「田中さん、小林さんが提供してくれた情報、早速、伊藤さんに解析を依頼しました」
「ありがとう」
田中は言った。
「彼女の情報源については、まだ確認できていないが……使えるものは、今は使うしかない」
その夜、田中は、小林彩という人物の輪郭を、まだ捉えきれないまま、次の一手を考え続けることになった。
自宅への帰路、田中は、今日聞いた小林の言葉を、何度もはんすうした。彼女がまとっていた、取材者としての冷静さの奥にある、何か切実なものの気配。それが何であるのか、田中にはまだ分からなかったが、この事件を解き明かす鍵の一つが、彼女の中に眠っているという確信だけは、次第に強まっていた。




