第七章 軽い指先
その夜、田中は久しぶりに自宅に戻った。
「たまには、ちゃんと寝てくださいね」
署を出る間際、美咲がそう声をかけてきた。
「明日も、長い一日になりそうですから」
「お前もな」
田中はそう返すのが精一杯だった。エレベーターの扉が閉まる直前、美咲の顔に、隠しきれない疲労の色が浮かんでいるのが見えた。彼女もまた、この事件のどこかに、自分自身の重さを抱えているのかもしれない。田中はそう思いながらも、それが何なのかを尋ねる余裕は、その夜の自分にはなかった。
都内の外れにある、1LDKの古いマンション。単身者向けのその部屋には、生活の匂いよりも、不在の匂いの方針が色濃く漂っていた。
玄関を上がってすぐの廊下には、読みかけのまま何日も放置された新聞紙の束があり、キッチンのシンクには、いつのものかも分からないマグカップが一つ、乾いたまま置かれていた。
この部屋に、田中はもう五年近く一人で住んでいた。
かつて短い結婚生活を送っていたこともあったが、仕事への没入が、いつしか家庭をむしばみ、静かな別れという形で終わりを迎えていた。誰かと暮らしていた頃の記憶は、もはや遠い過去のもののように感じられた。
二、 タイムラインと七年前の投稿
シャワーを浴び、缶ビールを一本開けたところで、なんとなく手が伸びたのは、普段は滅多に開かない古いSNSアカウントだった。今の捜査用の端末ではなく、私物のスマートフォンに入れたままの、個人アカウントだ。
フォロワーは三十人程度。もう五年近く、まともに投稿していない。学生時代からの惰性で残しているだけのアカウントだった。プロフィール写真は、今よりもずっと若く、まだ捜査一課に配属される前の、交番勤務時代の田中の姿だった。
過去の投稿を遡るつもりはなかった。ただ、〈審判ライブ〉というキーワードが、いまや自分のタイムラインにまであふれているのを、ぼんやりと眺めていただけだった。フォローしている元同僚、疎遠になった大学時代の友人、名前も覚えていないような知人たちのアカウントが、そろいもそろって同じ話題について何かを書き込んでいた。
その途中、ふと目に留まった投稿があった。
自分自身の、七年前の投稿だった。
『〇〇中学校の件、これはさすがにアウトでしょ。ひどすぎる』
引用リツイートの形で、当時ちょっとした話題になっていた投稿を拡散したものだった。内容は、ある中学校の教師が、生徒に対して不適切な指導をしたという告発だった。
田中は、その投稿をしたことすら、ほとんど覚えていなかった。当時は所轄署の巡査部長で、ネットニュースで見かけた話題に、深く考えずに一言添えてシェアしただけだった。あの頃の自分にとって、それは日常のささいな行為の一つに過ぎなかった。通勤電車の中で、暇つぶしにスマートフォンを開き、目に入った記事に短いコメントをつける。それだけの、取るに足らない一瞬の指の動きだった。
当時の自分を思い出そうとしても、輪郭がぼやけている。あの頃、自分はどんな気持ちでこの投稿をしたのだろう。正義感を気取っていたのか、それとも、ただ周囲の空気に流されただけだったのか。七年という歳月は、当時の心境を、都合よく美化することも、逆に過剰に断罪することも、どちらも可能にしてしまう曖昧な距離だった。
三、 拡散された不都合な真実
だが、リプライ欄を開いて、田中の指が止まった。
その告発は、後に事実無根であったことが判明していた。ある生徒同士のトラブルを、別の生徒が悪意を持ってゆがめて拡散したもので、名指しされた教師は、何一つ不適切な行為をしていなかった。
訂正記事やおわびの投稿も、当時いくつか出回っていた。だが、それらは最初の告発ほどの拡散力を持たず、多くの人間の記憶には「あの教師は問題を起こした」という第一印象だけが残った。
この構図は、審判DAOの事件で見てきた、いくつもの悲劇と、恐ろしいほどよく似ていた。最初の一撃の速さと強さが、その後の真実をどれだけ塗り替えても、決して追いつくことができない。この非対称性こそが、現代の情報社会が抱える、根深い病理なのかもしれなかった。
田中の投稿も、訂正されないままだった。リプライ欄には、当時「それはひどい」「教師失格」といった同調のコメントが、いくつも連なっていた。その一つ一つに、田中は見覚えがなかった。誰が書いたのかも、もう思い出せない。ただ、自分の軽率な一言が、そうした見知らぬ誰かの怒りに、小さな燃料を与えてしまったという事実だけが、動かしようもなく、そこに残っていた。
削除するべきか、今更ながら考えた。だが、削除したところで、当時それを見た人間の記憶からは消えない。むしろ、痕跡を消すことの方が、後ろめたく感じられた。缶ビールの結露が、手のひらを冷たくぬらしていた。
四、 当事者としての過ちと「審判DAO」
――俺は、あの時、何も考えていなかった。
正義感からでも、悪意からでもない。ただ、目に入った情報に、指先一本で「同意」を示しただけだった。それが誰かの人生に、どれほどの重みを持つのか、想像すらしていなかった。教師の名前も、その後の消息も、田中は知らない。知ろうとしたことすら、これまで一度もなかった。
もし今、検索すれば、何かが分かるかもしれない。だが田中は、その一歩を踏み出す勇気が、自分にあるとは思えなかった。もし、あの教師がその後、教壇に戻れなかったとしたら。もし、山本大輔や、これから狙われるかもしれない誰かと同じように、静かに社会の片隅へと追いやられていたのだとしたら――その事実と向き合うことは、今の田中には、あまりにも重すぎた。
審判DAOのシステムを解説する伊藤の言葉が、頭の中で反響した。
――トークンを持つ全員の「合意」によって、対象者への処遇が決まる。
自分もまた、かつて「合意」の側にいた。ただ、あの時代にはまだ、その合意を暴力に変換する仕組みが、これほど洗練されていなかっただけだ。あの頃の「いいね」やリツイートは、今日のトークンほど直接的な力を持ってはいなかった。それでも、その一つ一つが、確実に何かを動かしていたのだと、田中は今更ながらに思い知らされていた。
もし、七年前にも審判DAOのようなシステムが存在していたら。
自分の軽い指先の一押しが、誰かを椅子に縛りつけ、視聴者の投票にかける片棒を、担いでいなかったと言い切れるだろうか。
田中は、その問いから、どうしても目を逸らすことができなかった。
五、 小さな免罪と朝の群衆
田中は缶をゆっくりとテーブルに置いた。窓の外を、救急車のサイレンが遠く通り過ぎていった。その音が消えてなお、部屋の中には重い静寂だけが残っていた。
スマートフォンの画面には、まだあの投稿が表示されたままだった。七年前の自分の、無邪気なまでに軽率な一文。田中はそれを何度も読み返した。読めば読むほど、その言葉の軽さと、それがもたらしたかもしれない結果の重さとの落差に、めまいがするような感覚を覚えた。
◇
翌朝、捜査会議に向かう前に、田中は私物のスマートフォンから、七年前のあの投稿だけを削除した。誰に見せるためでもない、自分自身への、小さな、そして何の免罪にもならない儀式だった。
削除ボタンを押す指先が、わずかに震えていることに、田中は自分でも気づいていた。それは、罪の重さに震えているのか、それとも、その罪から目を背けようとする自分自身への嫌悪に震えているのか、田中自身にも判然としなかった。
鏡に映る自分の顔を、田中は一瞬だけ見つめた。深いくまと、無精ひげ。この数日ですっかり老け込んだように見えるその顔は、いつもと変わらず、そこにあった。田中は小さくため息をつき、ネクタイを締め直すと、玄関の鍵を取り、静かに部屋を後にした。
駅までの道すがら、田中は、通勤する人々の群れとすれ違った。誰もが、スマートフォンの画面に目を落としながら、足早に歩いていた。その一人一人が、昨夜の配信を見たのか、あるいはこれから見ようとしているのか、田中には知る由もなかった。
ただ、この街のどこかに、七年前の自分と同じように、軽い指先の一押しで、誰かを傷つけたことすら忘れている人間が、無数にいるのだろうということだけは、確信できた。
電車に揺られながら、田中は、車内の乗客たちを、それとなく観察した。イヤホンをつけたまま眠っている学生、スマートフォンでニュースアプリを確認しているサラリーマン、化粧直しをしている女性。彼らの誰もが、この国のどこかで進行している事件について、それぞれの温度差で認識しているはずだった。
この温度差の集合体こそが、審判DAOという怪物を育てた土壌なのかもしれない――そんな考えが、田中の頭の中を、ゆっくりと巡っていった。




