第六章 トークンを買う人々
配信開始から丸一日が経った頃には、〈審判ライブ〉と〈審判DAO〉という言葉は、もはやアンダーグラウンドの符丁ではなくなっていた。
山本大輔は、配信開始から約五時間後、都内の廃倉庫で発見され、警察に保護されていた。命に別状はなかったが、右手に深刻な負傷を負い、都内の病院で治療を受けているという。本人は聴取に対し、ほとんど何も語ろうとしなかった。配信は、山本が発見される少し前に、あの事務的な一行――「審判ライブ #001 終了」――を残して、唐突に幕を閉じていた。
大手ニュースサイトが一斉に「ダークウェブ発、謎の私刑配信」という見出しを掲げ、ワイドショーのコメンテーターたちが、慣れない口調で「ガバナンストークン」「スマートコントラクト」といった単語を読み上げていた。ある番組では、司会者が「つまり、視聴者がお金を出せば、リンチの内容が決まるということですか」と困惑気味に問いかけ、招かれた弁護士が「そういうことになります」と苦い顔でうなずく場面が、そのまま切り抜き動画として拡散された。
だが、社会の反応は、田中が想定していたよりもずっと複雑だった。
深夜のニュース番組では、法学者と心理学者が並んで出演し、対照的な意見をぶつけ合っていた。法学者は「私的制裁は、いかなる理由があっても法治国家の根幹を揺るがす」と繰り返し強調した。一方、心理学者は「なぜこれほど多くの人間が、この現象にひきつけられるのかを、まず理解する必要がある」と、より慎重な立場を取った。司会者は最後まで、どちらの意見にも明確な結論を出せないまま、番組を終えた。
当然、圧倒的多数は嫌悪と恐怖の声だった。〈#審判ライブを許すな〉というハッシュタグがトレンド上位に立ち、著名な弁護士や有識者が「これは民主主義でも正義でもない、単なる私刑であり犯罪だ」と繰り返し発信していた。ある大学教授は、テレビの特集番組で「これは私刑の再発明ではなく、私刑の産業化だ」と評し、その言葉は多くのメディアに引用された。
海外メディアもまた、この現象に強い関心を示し始めていた。ある米国の大手ニュースサイトは、「日本発のダークウェブ・ジャスティス」という見出しで、審判DAOの仕組みを詳細に解説する記事を掲載した。記事には、「これは日本特有の現象ではなく、匿名性とテクノロジーが交差する場所であれば、どの国でも起こりうる」という識者のコメントが添えられていた。その指摘は、田中にとって、決して他人事とは思えないものだった。
だが、その声にかき消されない規模で、もう一つの潮流が存在していた。
『正直、山本にはずっとモヤモヤしてた』
『法律が裁けないなら、他の方法があってもいいと思う』
『トークン買ってみた。悪いことした人間には、ちゃんと責任取ってもらわないと』
『これ、ある意味クラウドファンディングだよな』
『正義に金を払うって、悪くない気がしてきた』
美咲がまとめた分析資料によれば、この二十四時間で新規に発行されたウォレットアドレスの数は、推定で三万を超えていた。その多くが、これまで暗号資産取引に一切関わったことのない、いわゆる「一般人」のものだと見られた。
「怖いのは」
美咲が言った。
「本気で山本を憎んでトークンを買った人間ばかりじゃないってことです。中には、単純に『面白そうだから』『話題だから』という理由で数千円分だけ買ってみた、という投稿も相当数見つかります」
「軽い気持ちで、私刑の議決権を買う……」
田中はつぶやいた。
その言葉の響きに、田中自身、薄ら寒いものを感じていた。かつての戦争で、多くの一般市民が「小さな協力」の積み重ねとして、知らず知らずのうちに大きな暴力に加担してしまった歴史を、田中はふと思い出していた。悪意なき加担というものが、時に、悪意ある加担よりも、はるかに広範囲に広がりうるのかもしれなかった。
「はい。しかもこのシステムは、トークンの保有量に応じて議決権の重みが変わる仕組みです。一人が数千円分買っても大した影響力はありませんが、それが何万人も集まれば、無視できない規模の『民意』になる」
田中はモニターに映る、リアルタイムで更新され続けるトークン保有者数のグラフを見つめた。数字は緩やかに、しかし着実に右肩上がりを続けていた。折れ線グラフの緩やかさが、むしろ田中には不気味に思えた。爆発的な熱狂よりも、日常に溶け込むように静かに広がっていく様子の方が、はるかに根深い問題を示唆しているように感じられたからだ。
「これは、誰か一人の悪意の産物じゃない」
田中は言った。
「悪意と、好奇心と、正義感と、退屈しのぎが、全部同じ土俵に乗せられている」
「その土俵を用意したのが、審判DAOの設計者ってことですね」
美咲は、購入者の年齢層・職業を分析したグラフを、もう一枚プロジェクターに映し出した。三十代から五十代の会社員層が最も多く、次いで学生層、そして意外にも、六十代以上の高齢層からの購入も一定数あった。
「面白いのは」
美咲が言った。
「トークンを買った人の多くが、購入と同時に『これは正義のための投資だ』という趣旨の投稿をしている点です。まるで、自分の行動を正当化するための儀式のように」
「後ろめたさの裏返しだろう」
田中は言った。
「本当に確信があるなら、わざわざ言い訳を投稿する必要はない」
「ああ」
田中はうなずいた。
「設計者は、人間の弱さをよく理解してる。誰だって、匿名で、少額で、『正義の側』に立てる機会があれば、つい手を伸ばしたくなる。それがどんな結果を招くか、深く考えないまま」
その日の夕方、田中の元に一本の電話が入った。大学時代の友人で、今は民放キー局で報道記者をしている男からだった。
「田中、お前んとこの件だろ、この配信」
「答えられることは少ない」
「わかってる。ただ、一つ聞きたいことがある」
男の声には、これまで聞いたことのない緊張がにじんでいた。
「うちの若手記者が、SNSの分析をしてて気づいたんだが――トークンを買ってる層の中に、思ったよりずっと多く、いわゆる『普通の社会人』が混ジってる。公務員、会社員、主婦、教師……肩書きを隠しもせずに、堂々と『買いました』とツイートしてる人間がいる」
「それが?」
「もし、この配信がこのまま続いて、次の対象が現れたとしたら」
友人は言葉を選ぶように続けた。
「その時、投票に参加した何万人という『普通の人たち』を、お前らはどう扱うつもりなんだ? 全員、私刑への加担で立件するのか?」
田中は、すぐには答えられなかった。
法律の建て付け上、暗号資産を送金する行為そのものは、それが「投げ銭」である限り、直ちに犯罪には当たらない。だが、その送金が「拷問の実行を促す議決権」として機能していると知りながら行われていたとすれば、話は違ってくる。
問題は、その「知りながら」という一線を、どこに引くかだった。
「まだ、そこまで詰められていない」
田中は正直に答えた。
「だろうな」
友人は短く笑った。乾いた、力のない笑いだった。
「うちの局内でも、似たような議論になってる。この配信を『けしからん』と報じながら、同時に視聴率が取れるからって特集組もうとしてる連中がいる。俺たちも、お前らが追ってる化け物と、そう遠くないところにいるのかもしれん」
「お前は、どう思ってる」
田中は尋ねた。
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。窓の外を走る車のエンジン音だけが、受話口から微かに漏れ聞こえてきた。友人もまた、どこか落ち着かない場所からこの電話をかけているのかもしれない、と田中は思った。
「正直に言えば、俺も、あの配信のことが気になって、寝る前に何度もスマホを開いてしまった。誰かを裁くところを見たいわけじゃない。ただ、次に何が起きるのか、知りたくなってしまう自分がいる。それが、一番怖い」
その言葉は、田中の胸の奥に、鈍く重く突き刺さった。
電話を切った後、田中はしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。
誰も彼もが、この事件のどこかに、少しずつ足を踏み入れている。傍観者のふりをしながら。田中は自分自身の中にも、同じ好奇心の芽がないかと、静かに自問した。その答えを、すぐに見つけることはできなかった。
窓の外では、いつも通りの帰宅ラッシュが始まっていた。駅に向かって歩くサラリーマンたちの手の中で、無数のスマートフォンの画面が、静かに光っていた。その光の一つ一つの奥に、いったい何が表示されているのか、田中には知る由もなかった。
「田中さん、夕飯まだですよね」
美咲が、資料の山の向こうから声をかけてきた。
「コンビニ、行ってきます。何か買ってきましょうか」
「何でもいい」
田中は答えた。
「……いや」
「はい?」
「大福があったら、それにしてくれ」
美咲は一瞬きょとんとした顔をした後、小さく笑った。こんな時でも、人は空腹を覚え、甘いものを欲する。その当たり前の事実だけが、今の田中には、かろうじて正気をつなぎとめるいかりのように感じられた。
美咲がコンビニへ向かった後、田中は一人、フロアに残された資料の山を見つめていた。トークン購入者の分析グラフ、SNS上の反応をまとめたレポート、そして、まだ見ぬ「設計者」の輪郭を追う伊藤からの報告書。それら全てが、一つの巨大な問いへと収束していくように、田中には感じられた。
――一体、この国の何が、これほど多くの人間を、匿名の裁き手へと変えてしまったのか。
その問いに、明確な答えを出せる人間は、まだ誰もいなかった。
美咲が買ってきた大福をほお張りながら、田中は、しばらくの間、何も考えないようにしていた。甘いあんの味が、口の中に広がる。こんなささいな瞬間の平穏さえも、この事件が終わるまで、当たり前のものではなくなるのかもしれない――そんな予感が、田中の胸をよぎった。
「田中さん、次の方針は」
美咲が尋ねた。
「引き続き、資金の流れと、コミュニティ内部の동向(動向)を追う」
田中は答えた。
「設計者の輪郭さえつかめれば、この事件の全体像が見えてくるはずだ」
夜はまだ長く、これから明らかになる事実の重さも、まだ誰にも見当がついていなかった。
その夜、田中は、自分のデスクに座ったまま、しばらくの間、何も手につかない時間を過ごした。窓の外を眺めながら、彼は、この事件がこれから自分自身にどんな影響を及ぼすことになるのか、漠然とした不安を感じていた。だが、その不安の正体を、この時の田中は、まだ正確に言葉にすることができなかった。
深夜零時を回った頃、伊藤から新たな報告が届いた。事件は、これまでとは違う速度で、次の局面へと進み始めていた。




