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コンセンサス ―合意という名の絞首台―』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第五章 審判DAO

翌日の午後、伊藤は解析結果を携えて再び本庁を訪れた。


目の下のくまは、明らかに前日より濃くなっていた。会議室に入るなり、彼はコンビニのレジ袋から栄養ドリンクを二本取り出し、一本を一気に飲み干した。


「名前が分かった」


伊藤は言った。


「コントラクトのコード内、コメント欄に残されていた文字列だ。開発者は自分たちのプロジェクトを、こう呼んでる」


この二十四時間、伊藤がまともに椅子から立ち上がったのは、トイレと栄養ドリンクの補充のためだけだったという。それでも、彼の指はキーボードの上で止まることなく動き続けていた。


「大丈夫か」


田中は、思わず尋ねた。


「大丈夫じゃないよ」


伊藤は、疲れた笑みを浮かべた。


「でも、今は止まれない。止まったら、俺の中の何かが、折れてしまいそうな気がする」


その言葉に、田中は、かつての少年ハッカーが、今、この国を救うための最前線に立っていることの重みを、改めて感じずにはいられなかった。


プロジェクターに表示された文字を、田中は声に出して読んだ。


――審判DAO


「DAO」


美咲がつぶやく。


「聞いたことがあります。分散型自律組織、でしたか」


「そうだ」


伊藤はうなずいた。


「Decentralized Autonomous Organization。本来は、企業やコミュニティの意思決定を、特定の代表者や役員ではなく、トークン保有者全員の投票によって進める仕組みとして考案されたものだ。投資ファンドの運用や、ゲームのルール変更、慈善団体の寄付先決定なんかに使われることもある。良くも悪くも、『みんなで決める』ための技術だよ」


「それを、私刑に使ったってことか」


「使った、というより」


伊藤は言葉を選んだ。


「その仕組みの本質をそのまま利用した、と言った方が正確だと思う。誰か一人の独裁じゃなく、トークンを持つ全員の『合意』によって、対象者への処遇が決まる。設計者からすれば、これは『民主的な裁き』ってことになるんだろう」


「民主的な裁き……」


田中はその言葉を繰り返した。苦いものが口の中に広がるような感覚があった。民主主義という、本来は暴走を防ぐための仕組みが、ここでは真逆の目的のために流用されている。その倒錯が、田中の胸の中に重くのしかかった。


「昔、大学の講義で聞いたことがある」


伊藤が、珍しく遠い目をして言った。


「多数決というのは、正しさを決める道具じゃない。ただ、みんなが納得できる『落としどころ』を決める道具に過ぎないって。でも、このシステムの設計者は、その落としどころの精度を、恐ろしいほど信じている」


「信じている、というより」


田中は低く言った。


「利用している、が正確だろう」


美咲が、腕を組みながら、思考を巡らせるように言った。


「でも、それって、本当に『みんなの合意』と呼べるものなんでしょうか。一人一人は、深く考えずにトークンを買っているだけかもしれない。その総和を『合意』と呼ぶのは、少し乱暴な気がします」


「鋭い指摘だ」


伊藤はうなずいた。


「実際、『合意』という言葉には、本来、熟議や対話のプロセスが含まれているはずだ。でもこのシステムには、それが一切ない。ただ、金を払うか払わないかの、単純な二択があるだけだ」


「もう一つ、重要な発見がある」


伊藤は画面を切り替えた。


「このコントラクトには、通常のプログラムにはまず存在しない特徴がある」


「なんだ」


「『管理者権限』が存在しない」


「それは、どういう意味だ」


「普通、こういうシステムを作るなら、開発者自身のための特別な権限――緊急停止ボタンのようなものを残しておくのが一般的だ。バグが見つかった時、あるいは想定外の事態が起きた時に、システム全体を止められるように」


伊藤は一度言葉を切り、田中の目を見た。


「このコントラクトには、それが一切ない。デプロイされた瞬間から、開発者自身も含めて、誰にもこのシステムを直接停止することができない設計になっている」


会議室が静まり返った。プロジェクターのファンの音だけが、やけに大きく聞こえた。


「わざと、そう作ったということか」


美咲が言う。


「そう考えるのが自然だ」


伊藤はうなずいた。


「もし俺がこれを作った側の人間だったとして、こんな危険なものに『停止スイッチ』をつけないなんて、普通は怖くてできない。あえてそれを外すのは、明確な理由がある場合だけだ」


「理由とは」


「――誰かに脅されても、口を割らせても、警察に踏み込まれても、絶対に止められないようにするため」


田中の脳裏に、ある推測が浮かんだ。


「つまり、これを作った人間は、最初から自分たちが摘発される可能性を織り込んでいた。捕まっても、拷問されても、たとえ死んでも――システムだけは止まらないように」


「その通りだ」


伊藤は言った。


「これは愉快犯の思いつきじゃない。相当に強い覚悟と、相当に長い準備期間を持った人間、あるいは集団の仕業だ」


田中はホワイトボードに向き直り、これまでの情報を整理するように書き加えていった。


審判DAO

・分散型自律処刑システム

・投げ銭=ガバナンストークン(議決権)

・停止スイッチなし=創設者すら止められない

・デプロイは半年以上前


「もう一つ、聞いていいか」


田中が振り返った。


「このシステムが選ぶ『対象者』――次に誰が狙われるか、事前に知る方法はあるのか」


伊藤は少し困った顔をした。


「それが、厄介なところなんだ。対象者の『提案』自体も、トークン保有者なら誰でもできる仕組みになってる。提案された対象に、一定量のトークンが『指示』として投じられれば、それが次のターゲットとして採用される」


「誰でも、対象を選べるということか」


「理論上はそうだ。もちろん、最初の対象――山本大輔は、明らかに開発者側が意図的に選んだものだろう。過去の炎上事案という、社会的に『分かりやすい悪』を最初に据えることで、システムの正当性を印象づける狙いがあったはずだ」


「だが、その後は?」


伊藤は答えなかった。代わりに、画面上のトークン保有量ランキングを表示した。


上位に並ぶ匿名のウォレットアドレスの中、ひときわ大きな数字を保有する一つのアドレスが、他를(ほかのものを)圧倒していた。ラベルはついていない。ただの文字列の羅列だった。伊藤はそれを、便宜上「ANONYMOUS_WHALE」――匿名の巨大保有者、という仮の名で呼ぶことにした。


「このアドレスだけで、全トークンの三割近くを保有してる」


伊藤は言った。


「これだけの量を、たった半日で買い集めた」


「金額にすると?」


「日本円で、おそらく数億単位だ」


田中は、その数字を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。


「悲しみに突き動かされた遺族の手に負える金額とは、到底思えない」


美咲がつぶやいた。


「その通りだ」


田中は言った。


「誰が、何のために、これだけの資金を投じたのか。それが分からない限り、俺たちはこの事件の半分も理解できていないことになる」


プロジェクターの光の中で、トークン保有量ランキングの数字が、静かに、しかし確実に、更新され続けていた。田中はその画面をにらみながら、この事件が単なる遺族の報復劇ではなく、もっと複雑で、もっと多くの思惑が絡み合った何かであることを、直感的に理解し始めていた。


「今夜中に、もう少し掘り下げられるか」


「やってみる」


伊藤は、栄養ドリンクの二本目に手を伸ばしながら言った。


「ただ、正直言うと――このアドレスの持ち主、なかなかの手練れだ。素人じゃない」


美咲は、腕を組んだまま、しばらく黙ってモニターを見つめていた。


「田中さん、一つ気になることがあります」


「なんだ」


「もし、この事件の根っこに『遺族の悲しみ』があるのだとしたら――その悲しみを利用して、莫大な資金を投じている何者かがいる。それって、遺族の思いを、さらに踏みにじる行為なんじゃないでしょうか」


田中は、その言葉に黙ってうなずいた。美咲の指摘は、田中自身がまだうまく言語化できていなかった違和感の正体を、的確に言い当てていた。もしこの事件が、悲しみを出発点とした複数の思惑の集合体なのだとすれば、彼らが追うべき「敵」は、一つではないのかもしれない。


田中は、会議室の壁に貼られた相関図を見つめた。山本大輔、そして正体不明の設計者たち。その図の中に、まだ書き加えられていない、巨大な空白が広がっているように感じられた。この空白を埋めていく作業こそが、これから彼らが向き合わなければならない、本当の戦いなのかもしれなかった。


「田中さん」


伊藤が、疲れた声で、しかしどこか決意を込めて言った。


「正直、俺一人じゃ、この解析には限界がある。もう少し、人手が欲しい」


「用意する」


田中は即座に答えた。


「必要な予算も、人員も、俺が中川部長に直談判する。この事件を、時間切れで終わらせるわけにはいかない」


伊藤は、その言葉に、力なく笑った。


「頼りにしてる、刑事さん」


その一言に、田中は、かつての取調室でのやり取りを、また思い出さずにはいられなかった。あの日の少年は、今、この国で最も困難な事件の、最も重要な解析を担う男へと成長していた。人は変わることができる――その事実だけが、この重苦しい状況の中で、田中にとって、ささやかな希望の光だった。


会議室を出ると、廊下には、追加の人員配置を求める中川部長の姿があった。事件は、もはや一つの部署だけで抱えられる規模ではなくなりつつあった。


「田中、本庁の他部署からも、応援を募ることになった」


中川は言った。


「金融犯罪対策課、サイバーセキュリティ対策室、それに、広報課も総動員だ」


「大掛かりになりましたね」


「当然だ」


中川は、疲れた表情でうなずいた。


「これは、もはや一つの事件じゃない。この国全体が、どう向き合うべきかを問われている、社会的な危機だ」


その言葉の重さを、田中は、これから何度もかみ締めることになる。

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