第四章 コードの壁
伊藤淳が本庁の会議室に姿を現したのは、招集から二時間後のことだった。
スーツケース一つとノートパソコンだけを持ち、寝癖のついた髪のまま現れた伊藤は、かつて田中が内偵を担当していたハッカー集団の一員だった。当時、未成年だった伊藤は起訴猶予処分となり、以後は白に転じ、民間のセキュリティ企業でブロックチェーン解析を専門にしていた。田中とは、その処分の際に一度きり、腹を割って話したことがある。それ以来の縁だった。
あの日のことを、田中は今でも鮮明に覚えている。取調室で、まだ十七歳だった伊藤は、涙も見せず、ただ淡々と「僕は、誰かを傷つけたかったわけじゃない。ただ、システムの穴を見つけるのが楽しかっただけだ」と語った。その言葉に、田中は妙な既視感を覚えた記憶がある。悪意ではなく、好奇心や快感の延長線上に、時に深刻な加害が生まれる――その構造は、今、目の前で起きている事件にも、どこか通じるものがあった。
伊藤が経営する――というより、伊藤が一人で回している小さなセキュリティコンサル会社は、都内のシェアオフィスの片隅にあった。大企業のセキュリティ監査や、脆弱性診断を請け負う傍ら、こうして古巣に近い場所から声がかかると、断れない性分なのだと、以前本人が笑いながら話していたのを田中は覚えていた。
会議室に足を踏み入れた伊藤は、荷物を机に置くなり、すぐさまノートパソコンを開いた。挨拶もそこそこに、画面に集中するその様子は、緊急事態の重大さを、誰よりも早く理解していることの表れだった。
「久しぶりだな、刑事さん」
「呼び出してすまない」
「いや」
伊藤はノートパソコンを開きながら、椅子に腰を下ろした。
「これ、俺も気になってた。深夜からずっと追ってた」
画面には、すでに複数のウィンドウが並んでいた。配信のアーカイブ、ブロックチェーンのブロックエクスプローラー、そして見慣れないコードの羅列。モニターの光を反射する伊藤の目には、隠しきれない興奮と、同時に、かすかなおびえのようなものが同居していた。
「まず結論から言う」
伊藤は言った。
「これは、普通の配信じゃない」
「どういう意味だ」
「配信自体はダークウェブ上のP2P配信技術を使っていて、サーバーの物理的な特定は相当厳しい。世界中の匿名ノードを経由してるから、これは正直、時間をかけても摘発は難しいレベル」
「それは想定内だ。問題は?」
伊藤は画面を田中の方に向けた。
「投げ銭の仕組みを追ってた。最初は普通の投げ銭――視聴者が暗号資産を送金して、運営が受け取って、それに応じて演出を変える、そういうものだと思ってた」
「違うのか」
「全然違う」
伊藤は身を乗り出した。指先が、キーボードの上を忙しなく動く。
「これは、ある特定のウォレットアドレスに送金すると、その送金額に応じて『トークン』が自動的に発行される仕組みになってる。イーサリアム系のブロックチェーン上に、あらかじめ『スマートコントラクト』というプログラムが書き込まれていて、送金という行為そのものが、コードの実行トリガーになってるんだ」
田中は眉をひそめた。
「スマートコントラクト、というのは」
「簡単に言えば、『もし条件Aが満たされたら、自動的に処理Bを実行する』という契約が、人間の判断を介さずに、ブロックチェーン上で機械的に執行される仕組みだ。銀行の口座みたいに、誰かが承認ボタンを押して送金するわけじゃない。条件さえそろえば、誰にも止められずに、勝手に実行される」
「待って」
美咲がノートパソコンをのぞき込みながら言った。
「その『トークン』って、普通に取引所で売り買いできるものなんですか」
「今のところは、まだ流通量が少ないから、専用のマーケットでしか取引されていないみたいだ」
伊藤は画面をスクロールしながら答えた。
「でも理論上は、需要さえあれば、誰でも自由に売買できる。つまり、山本大輔の運命を左右する『投票権』そのものが、市場価格を持つ商品になり得るということだ」
「命の値段が、市場で決まるということか」
田中が低くつぶやいた。
「言葉を選ばずに言えば、そうなる」
伊藤は、その響きに自分でもたじろいだように、一瞬、手を止めた。
「つまり……」
美咲が声を上げた。
「今回の『視聴者投票』というのは」
「単なる演出上の投票じゃない」
伊藤はうなずいた。
「投げ銭で得たトークンの保有量が、そのまま議決権になっている。一定の議決権が、あらかじめ用意された選択肢のどれかに集中すると、コードが自動的にその選択肢を『実行』の指示として処理する」
会議室に沈黙が落ちた。誰かがコーヒーカップを置く音が、やけに大きく響いた。
「待ってくれ」
田中が言った。
「それはつまり、あの配信の裏に立って、誰かがリアルタイムで判断を下しているわけじゃないということか」
「少なくとも、投票結果の反映という部分については、人間の意思決定を介していない可能性が高い。ただし」
伊藤は付け加えた。
「その先――実際に拘束されている人間に対して物理的な処置を行っているのは、当然、生身の人間だ。コードは指示を出すだけで、手を下すのは人間になる」
「その人間が、いま山本を拘束している場所にいる」
「そういうことになる」
田中は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯の光が、やけに白く、無機質に感じられた。
「誰が、こんなものを作った」
「それを追うために、O-(俺を)呼んだんだろう?」
伊藤はキーボードをたたき続けながら言った。
「このスマートコントラクトは、公開されているブロックチェーン上に存在する。つまり、誰でも中身を読める。誰が最初にこのコントラクトをデプロイ――展開したか、その痕跡もチェーン上に永久に残ってる」
「追跡できるのか」
「時間はかかる。ウォレットアドレスの持ち主を直接特定するのは簡単じゃない。匿名性の高い取引所を経由されたら、そこで足取りが切れる可能性もある。でも……」
伊藤は画面を拡大した。ずらりと並んだトランザクションの履歴。その最初の一行に、日付が表示されていた。
配信開始よりも、はるかに古い日付だった。
「このコントラクトが最初にデプロイされたのは、今日じゃない。半年以上前だ」
田中は、その日付を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「半年前から、誰かがこれを準備していた……」
「準備っていうか」
伊藤は静かに言った。
「もっと正確に言うなら、半年前から、このシステムは『生きてた』んだ。今日、初めて実際に人間を使って動き出しただけで」
配信画面の中で、コメント欄の数字が、また一段と跳ね上がった。
「もう一つ、気になっていることがある」
伊藤は続けた。
「配信自体はダークウェブ上でしか見られないはずなのに、通常のSNSに流れている情報――視聴者数、投票の進捗、切り抜き動画――の更新スピードが、あまりにも速い。まるで、拡散すること自体が、最初から設計に織り込まれているみたいだ」
「拡散が織り込まれている、というのは」
「配信自体は匿名性の高いプラットフォームで行いながら、その『結果』や『雰囲気』だけを、意図的に一般のSNSに流出させる導線が用意されている気がする。まるで、ダークウェブという密室と、一般社会という劇場の両方を、同時に使い分けているみたいに」
田中は、その言葉の意味をかみ締めた。密室の恐怖と、劇場の熱狂。この事件を作った人間は、その両方を、驚くほど正確に理解していた。
「引き続き頼む」
田中は言った。
「一分一秒でも早く、この裏にいる人間の輪郭が欲しい」
伊藤は無言でうなずき、再びキーボードに向かった。会議室の窓の外では、ようやく朝の光が差し込み始めていたが、そこに座る誰の表情にも、安心の色は見えなかった。
美咲が、静かに口を開いた。
「伊藤さん、一つ確認したいんですが。このシステムが最終的に目指しているものって、何だと思いますか。ただ悪人を罰することだけが目的なら、もっと単純な仕組みでも良かったはずです。わざわざブロックチェーンを使って、分散化して、誰にも止められないようにする――そこまでする理由は」
伊藤は、しばらく考え込んでから答えた。
「単なる報復なら、もっと直接的な方法がいくらでもある。それをしなかったということは……作った人間にとって、これは『仕組みそのもの』を作ることが目的だったんじゃないかと思う。一回きりの報復じゃなく、恒久的に機能し続ける、裁きの装置。そう考えると、少し怖くなる」
「怖くなる、というのは」
「もし本当にそうなら」
伊藤は言葉を選びながら続けた。
「これを作った人間は、山本大輔一人だけを狙っているわけじゃない。この国の、もっと大きな何かを、変えようとしているのかもしれない」
その言葉が、会議室の空気を、また一段と重くした。
美咲が、しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「もし、そうだとしたら――私たちが今、追いかけているのは、単なる犯罪者じゃなく、ある種の『思想』なんでしょうか」
「思想は、人を殺さない」
田中は、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「殺すのは、いつだって、その思想を実行に移す、具体的な人間の手だ。どんなに立派な理屈があっても、それが誰かの命を奪うための道具になった瞬間、俺たちはそれを止めなければならない」
伊藤は、腕を組んで、しばらく黙り込んだ。技術者として、この仕組みの精巧さ、そしてその背後にある強い意志の存在を、誰よりも肌で感じ取っているからこその沈黙だった。
「田中さん」
伊藤が、改めて口を開いた。
「もう一つ、確認しておきたいことがある。もしこのシステムが、本当に『社会全体を変える』ことを目指しているのだとしたら――俺たちが今夜、山本大輔一人を救えたとしても、それは、根本的な解決には、ならないんじゃないか」
田中は、腕組みをほどき、伊藤の目をまっすぐ見た。答えが即座に出てこないことそのものが、この事件の本質の厄介さを、何よりも雄弁に物語っていた。
「それでも」
田中は、ようやく口を開いた。
「今夜、山本大輔を救うことに、意味がないとは思わない。たとえ根本的な解決にならなくても、目の前の一人を救うことを諦めたら、俺たちはもう、警察官である意味を失う」
伊藤は、その一言をかみ締めるように、深くうなずいた。会議室の窓の外では、朝日が徐々にその存在感を増しつつあった。長い夜が、ようやく終わろうとしていたが、それは同時に、より長く、より困難な戦いの始まりを告げるものでもあった。
会議室を出る前、伊藤は田中に、もう一つ、気になる情報を伝えた。
「そういえば、コントラクトのコード内に、開発者の意図を示すコメントが、他にもいくつか残されていた。断片的だが、『これは処刑ではない』『合意である』という趣旨の文言が、繰り返し書き込まれている」
「合意、か」
田中はつぶやき、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「まるで、自分たちの行為に、正当性の免罪符を与えようとしているみたいだな」
「そうかもしれない」
伊藤はうなずいた。
「だが、その言葉を、何万人もの人間が、本当に信じてしまっているとしたら――それこそが、一番恐ろしいことなのかもしれない」
窓の外の朝日が、次第にその輝きを増していった。この会議室での議論が、これから始まる長い捜査の、確かな出発点になることを、田中は静かに確信していた。




