第三章 三年前の男
山本大輔という名前を検索すると、いまだに大量の記事とアーカイブが出てくる。捜査資料室の片隅で、美咲がタブレットの画面をスクロールしながら、過去の報道を一つずつ洗い出していた。田中はその隣で、腕を組んだまま、画面に流れる文字を目で追っていた。
三年前――彼はまだ「YAMAD」というハンドルネームで活動する、登録者数百二十万人の人気配信者だった。企画の得意分野は「街ロケ」。飲食店や商業施設に突撃し、店員のささいなミスをやゆする動画で笑いを取るスタイルが受けていた。当時の動画のサムネイルには、派手なフォントで「衝撃」「炎上不可避」といったあおり文句が躍り、いずれも高い再生数を稼いでいた。
美咲がスクロールを止め、当時の山本のインタビュー記事を画面に表示した。
「視聴者に本音で向き合う配信者でありたい」
そう語る若き日の山本の写真は、屈託のない笑顔をしていた。その笑顔と、今、椅子に縛りつけられおびえきった表情との落差に、田中は複雑な思いを抱かずにはいられなかった。
「加害者にも、加害者になる前の顔がある、ということですね」
美咲がつぶやいた。
「ああ」
田中はうなずいた。
「だが、それは免罪符にはならない」
事件が起きたのは、都内のとあるコンビニエンスストアだった。
深夜、レジ対応をしていた店員が、常連客とのちょっとしたやり取りの中で、商品の会計を間違えた。よくある人為的なミスだった。客も特に気にした様子はなく、その場は何事もなく終わっていた。だが山本は、その一部始終を隠し撮りし、「バイトが客をだまそうとした瞬間」というタイトルをつけて編集し、動画を公開した。
編集された動画は、実際のやり取りとは異なる文脈で切り取られていた。会計ミスに気づいた店員が、すぐさま謝罪し、正しい金額を返金している場面は、都合よくカットされていた。視聴者の目に映るのは、あたかも店員が意図的に客をだまそうとしているかのような、悪意に満ちた編集だけだった。
動画には、店員の顔にモザイクすらかかっていなかった。それどころか、編集の中で、実際にはなかった不自然な「間」を挿入し、あたかも店員が意図的に会計を誤魔化そうとしたかのような印象操作まで施されていた。
店員の名前は岡本亮。当時二十二歳、大学に通いながら夜勤のアルバイトを続けていた青年だった。動画は瞬く間に拡散し、岡本の実名、通っていた大学、住所までもがネット上で特定され、さらされた。
「万引き犯をかばう大学」「犯罪者予備軍」というデマまで飛び交い、岡本は大学にも通えなくなり、アルバイト先も退職を余儀なくされた。彼の顔写真は、加工され、やゆする目的のコラージュ画像として、あちこちのまとめサイトに転載され続けた。
山本は動画のコメント欄で、視聴者たちのバッシングをただ黙って眺めていた。止めることもなく、削除することもなく。むしろ再生数が伸びるにつれ、続編動画まで公開した。タイトルは「炎上した店員のその後」――内容は、岡本の自宅マンションの外観や、通学路の様子を、モザイクもかけずに映し出したものだった。
岡本は、もともと目立つタイプの学生ではなかったという。大学の友人の証言によれば、夜勤のアルバイトは、地方から上京してきた彼にとって、学費と生活費を賄うための、数少ない現実的な手段の一つだった。真面目で、無遅刻無欠勤を貫いていたという評判も、当時の週刊誌記事には残されている。そうした人物像は、しかし、炎上の熱狂の中では何の意味も持たなかった。ネット上では、彼の実直さすら「猫を被っている証拠」「裏の顔があるに違いない」と、都合よくゆがめて解釈された。
岡本亮が自室で命を絶ったのは、動画公開から十九日後のことだった。
遺書は残されていなかった。ただ、SNSの下書きフォルダには、削除されないまま残されていた一文があるという。
――もう、誰にも見られたくない。
この一文は、後に岡本の遺族が代理人弁護士を通じて公表し、大きな社会問題となった。だが、法的には、山本を裁くことはできなかった。動画の内容自体は「事実に基づく報道」の体裁を取っており、名誉毀損の立証は困難とされ、遺族側との示談交渉も、山本側の弁護団が用意周到に進めたことで、公になることなく決着した。
世間は一時、山本を激しく非難した。チャンネルは炎上し、広告契約は打ち切られ、活動休止に追い込まれた。当時の報道番組では連日、街頭インタビューで「許せない」「二度と表舞台に出てくるべきではない」という声が取り上げられていた。
だが、時間は残酷なほど正確に、人々の記憶を風化させる。
半年後、山本は「深く反省しています」という十分ほどの謝罪動画を一本投稿しただけで活動を再開した。再開後の彼は「かつての過ちを乗り越えた配信者」として、むしろ以前より多くの支持を集めるようになった。過去の炎上そのものが、彼のキャラクターの「はく」になってしまった側面すらあった。ファンの間では「山本は生まれ変わった」「たたかれてもはい上がる強さがある」という、奇妙な称賛の言葉すらささやかれるようになっていた。
その後の山本は、時折過去を茶化すようなコメントをファンに向けることもあったという。
「あの時のことは、まあ、若かったってことで」
配信中の切り抜き動画に、そんな発言が残されている。美咲がその音声データを再生すると、コメント欄には笑い声のスタンプが並んでいた画面のスクリーンショットが表示された。
「この男が、最初のターゲットに選ばれた理由は明らかですね」
美咲が資料をまとめながら言った。田中は黙ってうなずいた。
「岡本さんのご遺族は、今どうしてる」
「ご両親は健在です。事件後、岡本さんが通っていた大学のある地方都市に転居されています。事件当時、示談交渉には応じたものの、山本を許したわけではないという趣旨のコメントを、遺族側の代理人が一度だけ出しています」
「示談内容は?」
「非公開です。ただ、金額については、当時のネット掲示板で『相場よりかなり低かった』という未確認のうわさが流れていました」
「弁護団は、遺族の心情に付け込んだんだろうな」
田中は苦い顔で言った。
「大切な人を亡くしたばかりの人間に、長期の裁判闘争を強いる代わりに、早期の示談を持ちかける。よくある手口だ」
「岡本さんのご両親は、当時のインタビューで、こう語っています」
美咲は資料の一節を読み上げた。
「『息子の名誉が守られるなら、お金はどうでもよかった。でも、示談書には口外禁止の条項があって、私たちは、何も言えなくなってしまった』と」
その一文を聞き、田中は思わず目を閉じた。金で沈黙を買われた遺族の無念が、三年の時を経て、今、という形で噴き出しているのだとしたら――その因果の重さに、田中は改めて身が引き締まる思いがした。
田中はしばらく資料に目を落としたまま、動かなかった。窓の外はようやく白み始めていたが、フロアの空気は、夜通し張り詰めたままだった。
「岡本さんのご遺族に、俺たちが疑いをかけるような真似はしたくない」
「わかっています。ただ……」
美咲は言葉を選ぶように続けた。
「今回の事件の背景には、間違いなく『法で裁けなかった悪』への怒りがあります。岡本さんの件は、その最も分かりやすい実例です」
「だからといって、遺族が直接手を下したと決めつけるのは早計だ」
田中は言った。
「それに――」
「それに?」
「もし俺が、大切な人間を同じように奪われたとして」
田中はそこで一度言葉を切った。フロアの空調の音だけが響く。マーカーの匂いが、まだホワイトボードの周りに漂っていた。
「俺は、自分がその怒りに飲まれないと、言い切れる自信がない」
美咲は何も言わず、田中の横顔を見つめていた。その沈黙は、同意でも否定でもなく、ただ、この事件が抱える根の深さを、二人で静かにかみ締める時間だった。
画面の向こうでは、いまも配信が続いていた。コメント欄の数字は、止まることを知らずに増え続けていた。誰かが「早くもう一つの選択肢を選ばせろ」と書き込み、その投稿に大量の賛同が集まっていく様子を、田中は言葉もなく見つめ続けた。
三年前、岡本亮という一人の青年が命を絶ったとき、彼を追い詰めた何万人もの人間のうち、誰一人として自分を「加害者」だとは思っていなかっただろう。ただ、おもしろい動画に、少し辛辣なコメントを添えただけ。ただ、拡散ボタンを押しただけ。その一つ一つは、あまりにも軽く、あまりにも匿名的だった。
だが今、その「軽さ」の総量が、一人の男を椅子に縛りつける力になっている。田中は、そのねじれた因果を、まだうまく言葉にすることができずにいた。
この三年間、岡本亮という名前は、田中の記憶の中で、いつしか一枚の資料の中の固有名詞に過ぎなくなっていた。だが今、目の前で進行している事件を通じて、その名前は、再び血の通った一人の人間として、田中の中によみがえりつつあった。夜勤明けの疲れた体で、それでも大学の講義には遅れずに出席していたという証言。友人からの評判。母親が毎週欠かさず作っていたという弁当の写真――そうした断片的な記録の一つ一つが、田中の胸に、静かに、しかし確実に積み重なっていった。
美咲が、資料をまとめながら、ふとつぶやいた。
「田中さん、私たちは今、山本大輔という『加害者』を助けようとしています。でも、岡本さんのご遺族から見れば、私たちは、彼らを苦しめた張本人を、守ろうとしている警察に見えるんじゃないでしょうか」
その指摘は、田中の心に、鋭く突き刺さった。
「それでも」
田中は、しばらくの沈黙の後、答えた。
「俺たちが守ろうとしているのは、山本大輔という個人じゃない。法の下でしか人は裁かれてはならないという、この社会の根っこの部分だ。それを守らなければ、次に同じ暴力にさらされるのは、岡本さんのような、本当に何の罪もない人間かもしれない」
美咲は、しばらく黙り込んでから、小さくうなずいた。だが、そのうなずきの奥に残る迷いの色を、田中は見逃さなかった。この事件が突きつけてくる問いは、単純な正義と悪の対立では、決して割り切れないものだった。
その日の夜遅く、田中は一人、岡本亮の墓がある地方都市への日帰り出張を検討していた。だが、事件の緊急性を考えれば、今この場を離れるわけにはいかなかった。せめてもの償いとして、田中は岡本の命日に手を合わせに行くことを、心の中で静かに誓った。
資料を閉じ、席を立とうとした時、伊藤から新たな解析結果が届いたという連絡が入った。事件は、これからさらに、深い局面へと進んでいくことになる。
会議室へ向かう廊下で、田中はふと足を止め、窓の外を見た。都心のビル群の向こうに、まだ夜が明けきらない空が広がっていた。この街のどこかで、今もまだ、山本大輔が恐怖に震えているのだろう。その事実を思うと、田中は、自分の足取りを、より速めずにはいられなかった。
美咲が、追いつくように小走りでやってきた。
「田中さん、伊藤さんが、大きな発見があったと言っています」
「行こう」
二人は、足早に会議室へと向かった。事件は、これから新たな局面を迎えようとしていた。




