第二章 招集
午前三時二十分、警視庁本庁舎五階、サイバー犯罪対策課のフロアには蛍光灯が容赦なく点いていた。
深夜の庁舎特有の、静けさと緊張が入り混じった空気の中、次々と靴音が響き、エレベーターの扉が忙しなく開閉する。
田中誠が招集をかけてから四十分足らずで、当直明けの捜査員たちが次々と顔を出した。誰もが一様に、寝起きというより「たたき起こされた」という顔をしていた。中には、まだパジャマの上にコートを羽織っただけの者、片方だけ寝癖のついた頭のままの者もいた。それでも、彼らの目には一様に、事態の深刻さを察知した緊張が宿っていた。
田中はホワイトボードの前に立ち、油性マーカーのキャップを外した。乾いた音が、静まり返ったフロアに響いた。
サイバー特捜のメンバーは総勢十二名。年齢も経歴もばらばらだった。銀行のシステム部門から転職してきた者、元は交通課で交通事故の解析をしていた者、大学院でデータサイエンスを専攻していた新卒採用の若手。田中は、この寄せ集めのような部署を四年かけて少しずつ育て上げてきた自負があった。だが今夜、その全員の顔に浮かぶ緊張の色は、これまで手がけてきたどの事件とも異質だった。
「状況を整理する」
田中の声は、努めて平静を装っていたが、握られたマーカーの先が、わずかに震えているのを、最前列にいた美咲だけが気づいていた。
「深夜二時十七分、ダークウェブ上のとある配信プラットフォームで、『審判ライブ』と称する生配信が開始された。映っているのは、拉致監禁されたとみられる成人男性。本人の身元は、映像から山本大輔、二十九歳、元動画配信者と特定できる」
ホワイトボードに「山本大輔」と書きつけながら、田中は続けた。
「配信では、視聴者からの暗号資産――ビットコインとみられる――の『投げ銭』の額に応じて、山本に対する処遇内容が段階的に変化していく仕組みになっている。現在の視聴者数は、把握できているだけで七十万人を超えている」
「七十万……」
若手の一人が息をのむ音が聞こえた。その数字の大きさに、フロア全体が一瞬、言葉を失ったようだった。日本の人口の百七十人に一人以上が、この瞬間、同じ画面を見つめている計算になる。
「配信自体はダークウェブ上、Torネットワークを経由しており、通常の手段でのサーバー特定は困難と見られる。ただし」
田中は佐々木美咲に目をやった。
「拡散はダークウェブの外――一般のSNS上でも起きている。アーカイブや切り抜きが、すでに数千件単位で出回っている」
中川部長が、眉間にしわを寄せて尋ねた。
「ダークウェブというのは、専門的な知識がなければアクセスできないものじゃないのか。なぜ、これほど急速に一般に拡散している」
「配信そのものへの直接アクセスには、専用のブラウザが必要です」
田中は答えた。
「ですが、誰かがその配信を録画し、一般のSNS上に切り抜き動画として投稿している。専門知識のない人間でも、その切り抜きを見るだけなら、何の障壁もありません」
「つまり、入り口だけをダークウェブに置くことで、あえて『のぞき見る』行為の背徳感を演出しながら、実際の拡散は誰でも参加できるようにしている、ということか」
「その通りです」
田中はうなずいた。
「巧妙な仕組みです」
美咲がノートパソコンの画面をプロジェクターに映し出した。ハッシュタグ〈#審判ライブ〉のトレンド推移が、グラフで表示される。折れ線は、開始からわずか一時間で天井知らずに跳ね上がっていた。棒グラフに換算すれば、フロアの天井を突き破っているような形状だった。
「コメント欄の傾向を見る限り、単純な野次馬だけじゃありません」
美咲が言う。彼女の声には、隠しきれない苛立ちがにじんでいた。
「明確に山本大輔の過去の炎上事件――三年前、コンビニ店員だった岡本さんを実名でさらして自殺に追い込んだ件を引き合いに出して、『因果応報』『自業自得』という声がかなりの割合を占めています。中には……」
「中には?」
「配信URLの拡散に協力するようなコメントも。『みんなにも見せてやれ』『これは正義の執行だ』と」
フロアが一瞬、静まり返った。誰かが小さく舌打ちする音が聞こえた。それは怒りなのか、それとも、この社会そのものへの諦めなのか、田中には判別できなかった。
田中はマーカーを置き、腕を組んだ。
「これは、愉快犯や愉快犯的な模倣事件じゃない。少なくとも、企画・実行した人間には、明確な選定基準がある。山本大輔は無差別に選ばれたわけじゃない――過去に、法で裁かれなかった加害行為がある人間だ」
「まさか」
美咲がつぶやく。
「私刑を、正義だと思ってる人間がいるってことですか」
「思ってる、というより」
田中は窓の外、まだ暗い都心の空をちらりと見た。ビルの明かりがまばらに灯る中、この街のどこかに、山本大輔が今も拘束されている。
「思わせる仕組みを、誰かが意図的に作っている。それがどういう仕組みなのか、まずそこを解明する必要がある」
「初動捜査の方針は」
年配の捜査員が尋ねた。
「三つ並行する」
田中は指を三本立てた。
「一つ、配信の技術的な解析――サーバー、通信経路、決済に使われている暗号資産のウォレット。二つ、山本大輔の足取り――いつ、どこで、どういう手口で拉致されたのか。三つ、SNS上の拡散状況の監視と、模倣・扇動投稿の把握。それぞれチームを分ける」
捜査員たちが手元のノートに書き取る音が、フロアに小さく響いた。
「田中さん」
若手の一人が、恐る恐る手を挙げた。
「もし、これが本当に、民衆の『正義感』に支えられているんだとしたら……俺たちは、何と戦うことになるんですか」
その問いに、フロアがまた静まり返った。田中は、すぐには答えなかった。答えを持ち合わせていなかったからではない。答えを口にすることが、今この瞬間、あまりにも重く感じられたからだった。
「相手が誰であっても」
田中はようやく口を開いた。
「一人の人間の命を、投げ銭の額で決めさせるようなやり方を、俺たちは絶対に許さない。それだけだ」
その言葉に、フロアの空気が、わずかに引き締まった。
中川部長が部屋に姿を見せたのは、その直後だった。眠っていなかったのか、あるいは起こされてから一睡もできなかったのか、顔色が悪い。ネクタイも斜めに緩んだままだった。
「田中、これは……本当に、防犯カメラや通報の類じゃなく、拉致監禁の実況中継なのか」
「そう考えるべきです。すでに山本大輔の自宅マンションから本人と連絡が取れない状態が確認されています。配信内の映像も、生中継特有の遅延やコメントへのリアルタイム反映が見られる。少なくとも収録済みの映像を垂れ流しているわけではありません」
「マスコミには?」
「まだ大手は報じていません。ただ、この拡散速度なら数時間の問題でしょう」
「広報には、俺から話を通しておく」
中川は、こめかみを指で押さえながら言った。
「だが、正直に言えば、何をどう説明すればいいのか、俺自身にもまだ整理がついていない。『暗号資産で動く私刑システム』などと言って、いったい何人の記者が正確に理解できる」
「理解できるかどうかより」
田中は言った。
「これが現実に起きているという事実だけは、伝えなければなりません」
中川は眉間をもんだ。深いため息が、フロアの静寂に溶けていった。
「上からは『これはテロだ』という声も出ている。一方で……」
言葉を濁す。
「一方で、世論の反応次第では、『正当な私的制裁』として支持する声が出てもおかしくない。それも読んでおけ」
「もう出ています」
美咲が静かに言った。
「トレンドの中に、擁護コメントが」
中川は何も言わなかった。ただ、深く息を吐いた。その沈黙の重さが、これから始まる事件の困難さを、何よりも雄弁に物語っていた。
「サイバー特捜のリソースを全て、この件に投入する。田中、お前が指揮を執れ。捜査本部の設置は追って通達する」
「わかりました」
中川が去った後、フロアには重い沈黙が残った。田中は再びホワイトボードに向き直り、「岡本」という名前を書き加えた。三年前、山本大輔によって人生を壊された、コンビニ店員の名だ。マーカーの先が、その二文字の上で、一瞬だけ止まった。
「美咲」
「はい」
「配信の技術解析、外部の協力者を呼ぶ。この手のダークウェブ絡みの追跡は、俺たちだけじゃ限界がある」
「誰か当てが?」
田中は少しだけ、口元を緩めた。それは久しぶりに見せる、苦い笑みだった。窓の外の闇は、まだ明ける気配を見せなかった。
「伊藤淳。昔、こっち側だった男だ」
その名前を口にしたとき、田中の脳裏に、かつての記憶が微かによみがえった。まだ制服も脱ぎたての、未成年のハッカー少年。処分の日、涙も見せず、ただ静かにうつむいていた、その横顔。あの時の自分に何が言えたのか、今でも田中には分からない。ただ、あの日の縁が、今夜、思わぬ形で呼び戻されようとしていた。
美咲はスマートフォンを取り出し、連絡先を検索し始めた。フロアの時計は、午前四時を回ろうとしていた。夜はまだ、これっぽっちも明ける気配を見せなかった。
窓ガラスに映る自分たちの姿を、田中はふと見つめた。疲労の色を隠せない捜査員たちの顔が、そこには並んでいた。これから始まろうとしている長い戦いの、まだほんの入り口に、自分たちは立っているに過ぎないのだと、田中は静かに悟っていた。
美咲が電話をかけている間、田中は捜査員たちに、それぞれの役割分担を再確認させた。配信のアーカイブ保全班、SNS上の拡散状況を追う分析班、そして山本大輔の自宅周辺の聞き込みを担当する班。限られた人員を、いかに効率よく配置するかが、これからの数時間を左右することになる。
「田中さん、伊藤さん、今から向かうそうです」
美咲が、電話を終えて報告した。
「よし」
田中はうなずいた。
「彼が来るまでに、俺たちにできる限りの情報を集めておこう」
フロアの窓の外では、まだ夜明けの気配すら見えない、深い闇が広がっていた。
田中は、自席に戻り、山本大輔に関する過去の報道記事を、改めて洗い直し始めた。三年前の炎上事件、その後の活動再開、そして今回の拉致事件。一つ一つの記事を読み進めるうちに、田中は、この社会が「加害者の更生」というものに、いかに無頓着であったかを、思い知らされた。山本は謝罪動画を一本投稿しただけで、まるで何事もなかったかのように、元の生活に戻っていた。その軽さこそが、今回の事件を引き起こした遠因の一つなのかもしれなかった。
美咲が、コーヒーを二つ持って戻ってきた。一つを田中の机に置く。
「田中さん、少しは休んでください」
「ありがとう」
田中は、湯気の立つコーヒーを一口飲んだ。その温かさが、張り詰めていた神経を、わずかに緩めてくれるようだった。
美咲は、自分のデスクに戻ると、山本大輔のこれまでの活動履歴を、さらに詳しく洗い直し始めた。炎上事件の後、彼がどのようにして活動を再開し、どのような層の支持を集めていったのか。その軌跡をたどることが、事件の全体像を理解する上で、重要な手がかりになるかもしれなかった。




