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コンセンサス ―合意という名の絞首台―』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第一部 起動   第一章 審判ライブ

午前二時十七分。

配信は前触れもなく始まった。


タイトルは「審判ライブ #001」。サムネイルは黒一色に、白文字で一行だけ――《この男は、裁かれるべきか》。


画面の中央には、椅子に縛りつけられた男が映っていた。目隠しはされていない。むしろ丁寧すぎるほどに照明が当てられ、男の顔がはっきりと視聴者にさらされている。ほおに汗が浮き、唇が小刻みに震えていた。背景は無機質なコンクリートの壁で、窓もなく、時間の手がかりになるようなものは何一つ映り込んでいない。まるで、この部屋そのものが、世界のどこにも存在しない場所であるかのようだった。


カメラは一台だけではなかった。正面からのアングルに加え、斜め上から見下ろすアングル、そして男の手元だけを映す小さなカメラが、切り替わりながら配信画面を構成していた。素人が趣味で始めたにしては、あまりにも作り込まれた演出だった。画面切り替えのタイミングにすら、視聴者を飽きさせないための計算があった。三十秒に一度、アングルが変わる。緊張が高まる場面では、その間隔がわずかに短くなる。まるで、誰かが視聴者の集中力の限界を、あらかじめ知り尽くしているかのようだった。


音響にも手が入っていた。男の呼吸音と、部屋の外から微かに聞こえる金属的な反響音――配管か、あるいは換気扇のようなもの――が、絶妙なバランスでミックスされている。BGMは一切流れていない。だが、その「無音に近い緊張」こそが、最も効果的な演出だった。視聴者は、静寂の中に何かが起きることを、否応なく待たされ続けることになる。


部屋の温度も、意図的に管理されているようだった。男の吐く息が、時折、白く曇って見える。凍えるほどではないが、人を落ち着かせない、微妙な寒さが、画面越しにも伝わってくるようだった。こうした細部の一つ一つが、視聴者の無意識の緊張感を、じわじわと高めていく仕掛けになっていた。


コメント欄には、開始から一分も経たないうちに数百のコメントが流れ始めた。


『これ誰?』

『山本大輔じゃね?例のバイトテロさらし配信者』

『まじだ、あの時の』

『www 因果応報』

『生きてるのこれ』

『台本だよな?さすがに』


画面下部には、赤いバーで区切られた投票枠が表示されていた。


《視聴者投票 実行中》

選択肢A:謝罪配信を強要する

選択肢B:SNSアカウントを全て公開処分にする

選択肢C:――(伏字)


選択肢Cの文字だけが黒く塗り潰され、その横に小さく「投げ銭総額が一定額を超えると解放される」という一文が添えられていた。金額のバーはすでに、開始三分で三十万円分の暗号資産を集めていた。


数字は止まらなかった。四分、五分、六分。バーが伸びるたび、画面の隅に小さな通知音のような効果音が鳴り、視聴者の目をくぎ付けにした。まるでゲームのスコアボードのような演出だった。悲鳴に似た男の呼吸音と、軽快な電子音が、同じ画面の中で共存していた。その不釣り合いさこそが、この配信の異様さを何よりも雄弁に物語っていた。


男――山本大輔は、三年前に一度、世間を騒がせた人物だった。当時彼は登録者数百二十万人を抱える人気配信者で、あるコンビニ店員のミスをおもしろおかしく切り取り、実名をさらす動画を投稿した。動画は瞬く間に拡散し、店員は職を失い、住所を特定され、最終的には自ら命を絶った。世間は一時的に山本をたたいたが、彼は「表現の自由」を盾に謝罪動画一本で活動を再開し、いつの間にかまた元の人気を取り戻していた。


山本の右手首には、粗い荒縄のようなものが食い込んでいた。爪の先が白くなるほど強く椅子の肘掛けを握りしめ、時折、体全体を小さくけいれんさせるように震わせている。かつてテレビの情報番組にも取り上げられ、若者から絶大な支持を集めていた「YAMAD」の面影は、そこにはもう、ほとんど残っていなかった。


「……頼む、やめてくれ」


山本の声はマイクを通して配信に乗った。加工されていない、生の恐怖だった。かつて何百万人もの笑いを誘っていたはずのその声は、今は震え、かすれ、言葉としての体裁をかろうじて保っているだけだった。


『泣いてて草』

『あの時の店員さんの気持ちわかる?』

『これはさすがにやりすぎじゃね』

『いや自業自得だろ』


配信のURLは、すでにいくつかの匿名掲示板にも転載され始めていた。「これはガチ」「ダークウェブ入門にちょうどいい」という、事の重大さとは不釣り合いなほど軽い調子のスレッドが次々に立ち、閲覧数を伸ばしていく。誰かが「実況スレ」まで作り、リアルタイムで状況を要約する係まで自然発生的に現れていた。もはやこれは一つの配信ではなく、無数の場所で同時多発的に増殖していく、一つの「現象」になりつつあった。


視聴者の年齢層も、決して一様ではなかった。深夜のこの時間、スマートフォンを片手に眠れずにいた学生。夜勤明けでコンビニのバックヤードに座り込んでいた店員。海外出張中で時差ボケのままホテルの部屋にいたビジネスマン。彼らは互いに何の接点もなかったが、この瞬間だけ、同じ一つの画面によって、見えない糸で結ばれていた。


配信開始から十二分後、投げ銭総額が百万円を超えた。

選択肢Cの伏字が、初めて一文字だけ開かれた。


選択肢C:右手の指を――


コメント欄の温度が、一段階変わった。


『えっ』

『マジでやる気か』

『さすがに草も生えない』

『通報した』

『こんなの見てられない』

『でも見てる自分がいる』


最後の一文は、瞬く間に多くの「いいね」を集めた。それは告白であり、同時に、この配信そのものの構造を言い当てた一言でもあった。誰も見たくないはずのものから、誰も目を離せなかった。目を逸らすことよりも、見続けることの方が、はるかに簡単だった。


だが、視聴者数はむしろ増え続けていた。開始十五分で三万人。二十分で七万人。増加のグラフは、緩やかな曲線ではなく、階段状に、一段また一段と跳ね上がっていった。誰かが別の場所でこの配信を発見し、それを別の誰かに共有し、その連鎖が幾何級数的に膨らんでいく様子が、数字の動きだけで手に取るようにわかった。


画面の隅、配信者のハンドルネームだけが淡々と表示されていた。


GODEYE


その名前を検索しても、SNS上には何一つ痕跡がなかった。作られたばかりのアカウント。プロフィールも空欄。フォロワーゼロ。投稿履歴もなく、フォロー先もない。まるで、この配信のためだけに、昨日今日生まれ落ちたばかりの名前であるかのようだった。


配信は、闇の中から突然湧いて出たとしか言いようがなかった。


同じ頃、警視庁サイバー犯罪対策課の田中誠は、まだ署の自席で報告書を書いていた。


窓の外はまだ完全な闇で、フロアには彼以外に数名の当直職員がいるだけだった。蛍光灯の白い光と、パソコンのファンの微かな駆動音だけが、深夜の静けさを埋めていた。田中は、書きかけの報告書――先週摘発したフィッシング詐欺グループの供述調書のまとめ――に目を通しながら、コーヒーの残りをすすっていた。


サイバー犯罪対策課に異動になって、今年で四年目になる。かつては強行犯係で殺人や強盗事件の捜査に明け暮れていた田中にとって、目に見えない「データ」や「アカウント」を追いかけるこの仕事は、当初、どこか実感の伴わないものに感じられた。犯人の顔も、被害者の悲鳴も、直接この目で見ることがない。すべてが、ログとスクリーンショットの向こう側で起きている。だが、その「実感の希薄さ」こそが、時に現実の暴力以上に、人の心をむしばむことがあると、田中はこの四年間で嫌というほど思い知らされていた。今夜、机の上に置かれたコーヒーカップの縁には、すでに薄い膜が張り始めていた。


そこには、すでにSNSのトレンド一位に躍り出た配信のスクリーンショットが表示されていた。〈#審判ライブ〉〈#GODEYE〉というハッシュタグが、リアルタイムで数千件ずつ増えている。トレンドの推移を示す折れ線グラフは、まるで垂直の壁のように立ち上がっていた。


田中は画面をちらりと見て、次の瞬間には表情から一切の余裕が消えていた。


「これは……本物か」


「わかりません。でも、映ってる男の顔、間違いなく山本大輔です。三年前の、あの――」


「知ってる」田中は短く遮った。「あの事件の被害者、たしか自殺してる」


「はい。コンビニ店員の……岡本さんという方でした」


その名前を口にした瞬間、美咲の声が微かに震えた。三年前のあの事件は、当時まだ所轄署の交番勤務だった美咲にとっても、決して他人事ではない記憶だったのかもしれない。田中はそこまでは尋ねなかった。今はまだ、そのための時間ではなかった。


田中はスマートフォンの画面を、もう一度見つめた。コメント欄が、今この瞬間も、猛烈な速度で流れ続けている。数字は生き物のように脈打っていた。


「行くぞ」


田中はそう言いながら、自分の言葉に奇妙な既視感を覚えていた。


――かつて自分も、見ていただけの一人だった。


あの時、目の前で助けを求めていた人間から、目を逸らした一人だった。あの記憶は、七年経った今も、胸の奥の、触れたくない場所に、静かに沈んだままだった。今はまだ、その記憶の輪郭さえ、はっきりとは思い出せない。ただ、画面の中の山本大輔の震える声が、何かの古い扉を、ノックし始めているような気がした。


田中は椅子を蹴るように立ち上がった。フロアの空気が、その一挙動で変わった。当直の職員たちが、何事かと顔を上げる。


「サイバー特捜、招集だ。それと、配信のアーカイブと通信経路のログ、今すぐ押さえられるだけ押さえろ。消される前に」


「もう十万人が見てます」


「十万人が、これから起きることの証人になるってことだ」


画面の中で、山本大輔が再び懇願する声が響いた。コメント欄が加速する。投げ銭の額が跳ね上がる。


誰も彼を助けようとはしなかった。ただ、見ていた。


その夜、日本中の数十万台のスクリーンが、同じ闇を映し出していた。会社帰りのタクシーの中で、深夜のコンビニのレジで、誰も寝静まったはずの寝室のベッドの中で。無数の光る画面が、同じ一人の男の恐怖を、静かに、平等に、照らし出していた。


ある者は嫌悪感から目を背け、すぐさま画面を閉じた。ある者は、義憤に駆られて拡散ボタンを押した。ある者は、ただ純粋な好奇心から、次に何が起こるのかを見届けようとした。動機はそれぞれ違っていた。しかし、この瞬間、誰もが同じ一本の配信につながれていたという事実だけは、疑いようがなかった。


サイバー特捜のフロアに、当直だった捜査員たちが次々と姿を見せ始めていた。誰の顔にも、まだ状況を飲み込みきれていない戸惑いがあった。田中はホワイトボードの前に立ち、マーカーを握った手を、一度、強く握りしめた。


この夜から、彼らの時間の流れ方は、決定的に変わることになる。


配信のアーカイブを保全するための緊急要請が、各プロバイダに向けて次々と発信されていった。同時に、山本大輔の自宅マンションへ向かった捜査員からは、室内に争った形跡があり、本人と連絡が取れないままだという一報が入った。すべての情報が、この事件が単なる悪質ないたずらの延長ではなく、現実に進行している重大犯罪であることを、疑いようのない形で裏付けていた。


田中は、ホワイトボードに書き付けた「山本大輔」の文字を、もう一度見つめた。この名前の向こうに、これから自分たちがどれほど深い闇をのぞき込むことになるのか、この時の田中には、まだ知る由もなかった。ただ、フロアに満ちる緊張感だけが、これから始まる長い戦いの、確かな予兆として、彼の肌に伝わってきていた。


美咲が、田中の隣に来て、静かに尋ねた。


「田中さん、これから、私たちはどう動けばいいんでしょうか」


田中は、しばらく考えてから答えた。


「まず、事実を一つずつ積み上げる。誰が、何を、どうやって行っているのか。感情に流されず、証拠に基づいて動くことだけが、この闇を照らす唯一の方法だ」


「でも」美咲は、少しためらいながら続けた。「この配信を見ている何十万人という人たちの気持ちも、無視できないと思うんです。彼らの中には、本当に、この社会の理不尽さに苦しんできた人たちもいるはずです」


田中は、その言葉に、しばらく沈黙した。美咲の指摘は、これから彼らが向き合う事件の、最も本質的な部分を突いていた。


「その通りだ」田中は、ようやく答えた。「だが、どんな理由があっても、暴力を正当化することはできない。俺たちの仕事は、その一線を、決して曖昧にしないことだ」


その言葉を最後に、二人は、それぞれの持ち場へと向かった。長い夜が、まだ始まったばかりだった。


その頃、山本大輔の実家には、すでに警察からの一報が届いていた。電話口で崩れ落ちるように泣き崩れた母親の声が、対応した捜査員の耳に、いつまでも残り続けることになる。事件は、当事者本人だけでなく、その周囲にいる全ての人間の日常を、容赦なく飲み込み始めていた。

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