第二十九章 事件の後
事件から一ヶ月が経った。
あの夜、捜査本部にいた全員が、それぞれの形で、燃え尽きたような日々を過ごしていた。田中も例外ではなかった。事件解決の高揚感は、思っていたよりもずっと早く消え去り、代わりに、深い疲労と、まだ終わっていないという漠然とした不安だけが残っていた。
審判DAOをめぐる報道は、当初の熱狂とは裏腹に、次第に社会面の片隅へと後退していった。世間の関心は、次の話題へと、いつものように移り変わっていった。
最初に画面の向こうで震えていた二人については、それぞれ異なる結末があった。
山本大輔は、右手に後遺症の残る大怪我を負ったものの、一命は取り留めていた。保護された当初、彼は取材を一切拒み、しばらくして配信活動からも完全に姿を消した。風のうわさでは、名前を変え、地方でひっそりと暮らしているという。
一度だけ、田中は事情聴取のために、療養中の山本と対面する機会があった。かつて何百万人もの視聴者を沸かせていた男は、包帯の巻かれた右手を膝の上に置いたまま、ほとんど言葉を発しなかった。去り際に、消え入りそうな声でこうつぶやいたのを、田中は覚えている。
「俺も、あの店員さんと同じことを、味わったのかな」
その言葉が、反省なのか、それとも単なる自己れんびんなのか、田中には最後まで判別できなかった。
坂本茂は、救出が間に合わなかった。搬送先の病院で、意識を取り戻すことなく息を引き取ったことが、後日、報道機関を通じて公表された。かつて彼がリークによって人生を狂わせた男の遺族に、警察を代表して頭を下げに行ったのは、田中だった。
「遅すぎました」
田中は、その遺族にそう告げるしかなかった。
遺族は、しばらくの沈黙の後、意外にも、穏やかな声でこう答えた。
「刑事さん、あなたのせいじゃありません。誰も、こんな結末を望んでいなかった。ただ、この国のどこかで、同じような悲しみが繰り返されないことだけを、願っています」
その言葉は、田中の胸に、長く残ることになった。
高橋悟、木村和也、渡辺涼の三名は、監禁致死幇助、私電磁的記録不正作出、詐欺的な資金調達など、複数の容疑で起訴された。裁判では、彼らの動機となった、それぞれの遺族としての悲しみが、情状酌量の要素として大きく取り沙汰されることになった。
高橋が語っていた「最初の対象者リストに残されていた、あと五人の名前」についても、捜査班による洗い出しが進められた。結果、そのうち三人は、すでに何らかの形で社会的制裁を受け、活動の場を失っていたことが判明し、残る二人についても、警護の対象として継続的な見守りが行われることになった。幸い、審判DAOの機能不全により、これ以上、彼らが直接の標的にされることはなかった。
高橋は、初公判で、検察官の質問に対し、消え入りそうな声でこう答えたという。
「私は、正義だと信じていました。でも、今は、それが間違いだったと理解しています。娘は、憎しみではなく、優しさのために死んだ子でした。私は、その優しさを、憎しみの道具に変えてしまった。それだけは、一生、償いきれない罪だと思っています」
その言葉は、傍聴席にいた多くの人々の胸を打ったと、後に報じられた。
三人が中心にいた遺族の集まり――「声なき声の会」は、事件の発覚とともに、自然消滅する形で解散していた。残された他のメンバーの多くは、警察の任意の事情聴取を受けたが、審判DAOの運営そのものへの直接関与は認められなかった。
株式会社トレンドフォージについては、田中たちの懸念通り、直接的な刑事責任を問うことは困難だった。ただし、審判DAOへの関与が明らかになったことで、企業としての社会的信用は大きく失墜し、複数の取引先から契約を打ち切られた。相良雅人は、代表取締役の座を退いたが、逮捕には至らなかった。
佐藤ひかりの拉致に加担しようとした三人の若者たちについては、事の重大さを十分に理解しないまま、金銭目的で動いていたと判明した。いずれも二十代前半で、少年法の適用対象にはならなかったものの、故意の程度や関与の浅さが考慮され、執行猶予付きの判決が見込まれる、比較的軽微な立場での立件となった。
法律の網は、人の心の残酷さと、市場の冷徹さの両方を、完全にはすくい上げることができなかった。
佐藤ひかりは、警護体制の解除後、実家に戻り、しばらく静養することになった。彼女が、この先どのような人生を歩んでいくのか、田中には知る術がなかった。最後に会った時の彼女の表情には、恐怖だけでなく、わずかながら、前を向こうとする意志のようなものが見えた。
小林彩は、審判DAOに関する一連の取材内容を、コミュニティへの関与という自身の過去も含めて、正直につづった長編記事として発表した。記事は大きな反響を呼んだが、同時に、彼女自身に対する批判の声も少なくなかった。
「これが、自分の選んだ責任の取り方です」
小林は、記事を公開する直前、田中にそう語った。
「自分もまた、あの怪物の一部だったということを、隠さずに伝えたかった」
記事の末尾には、小林自身の言葉で、こうつづられていた。
『私たちは、正義と暴力の境界線を、もう一度、自分自身の手で引き直さなければならない。それは、法律だけの仕事ではない。この記事を読んでいる、あなた自身の仕事でもある』
その一文は、多くの読者の間で、賛否両論を巻き起こしながらも、静かに、しかし確実に、読み継がれていくことになる。
田中は、自身の過去――七年前の軽率な投稿と、その削除の経緯についても、正式な報告書には記さなかった。だが、美咲にだけは、すべてを打ち明けた。
「言わなくても、いいんですか」
美咲が尋ねた。
「言うべきかどうか、まだ、自分でも分からない」
田中は答えた。
「ただ、俺は、これから先、この事件で見たものを、忘れないようにする。それが、今の俺にできる、唯一のことだと思っている」
伊藤は、審判DAOのコントラクトの監視を、事件後も継続していた。
「完全には、止められなかった」
ある日、伊藤は、田中にそう報告した。
「主要な資金経路は遮断できた。日本国内からの新規参加も、大幅に難しくなっている。だが、コントラクト自体は、世界中に分散したノード上で、今も静かに稼働し続けている」
「新しい投票は」
「今のところ、目立った動きはない」
伊藤は言った。
「こういうシステムは、一度公開されたコードである以上、誰かがそれをコピーし、改変して、別の場所で再び立ち上げることも、技術的には可能だ」
「模倣される可能性がある、ということか」
「可能性がある、というより」
伊藤は、疲れた表情で言った。
「もう、いくつかの兆候が見えている」
「見せてくれ」
田中は言った。
伊藤は、ノートパソコンの画面を開いた。海外のとある匿名掲示板に、審判DAOのソースコードを一部引用した投稿が見つかっていた。コメント欄には、称賛とも批判ともつかない議論が、すでに何十件も連なっていた。
「これは、始まりに過ぎないのかもしれない」
伊藤は、低く言った。
田中は、その言葉の意味を、深くかみ締めた。
美咲もまた、変わったように見えた。以前は、事件の話をする時、どこか客観的な距離を保っていた彼女が、今では、被害者一人一人の名前を、まるで身内のように大切に扱うようになっていた。
一つの事件が終わっても、それを生み出した社会の土壌――誰かの悲しみを、誰かの憎しみを、誰かの金もうけを、そして何より、何百万という人々の、軽い好奇心を吸い込み続けるその土壌は、何一つ変わっていなかった。
田中は、その事実を、悲観するでも、諦めるでもなく、ただ受け止めるようになっていた。世界を一夜にして変えることはできない。だが、目の前の一人を守ることならできる。この事件を通じて、田中がたどり着いた結論は、シンプルながらも、これまでのどんな信念よりも、確かなものだった。
その夜、田中は久しぶりに、夢も見ずに眠ることができた。
翌朝、目を覚ました田中は、しばらくの間、天井を見つめたまま、動けなかった。事件は終わった。だが、その終わり方は、田中が思い描いていたような、明確な勝利の形をしていなかった。ただ、これ以上の犠牲を止められたという、かろうじての安心だけが、彼の胸に残されていた。
窓の外から差し込む朝日を浴びながら、田中は、ゆっくりと体を起こした。今日からまた、新しい日常が始まる。だが、この事件で見たもの、感じたことは、これから先も、田中の中に、静かに、しかし確実に、生き続けることになるだろう。
出勤の支度をしながら、田中はふと、洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめた。この一ヶ月で、明らかに増えた白髪。深く刻まれた目元のしわ。だが、その顔の奥には、これまでとは違う、何か確かな芯のようなものが、宿っているように感じられた。
この事件を通じて、田中は、多くのものを見た。悲しみ、憎しみ、そして、その両方を乗り越えようとする人間の意志。それら全てを胸に刻みながら、田中は、今日という新しい一日を、静かに歩き始めることになる。
出勤の道すがら、田中は、いつもの喫茶店に立ち寄った。マスターが、驚いた顔で声をかけてきた。
「お久しぶりですね、田中さん。しばらく見かけないと思ったら」
「ちょっと、長い仕事があってな」
田中は、曖昧に笑って答えた。
いつものブレンドコーヒーの香りが、鼻をくすぐった。この何気ない日常の一コマが、今の田中にとって、何よりも大切なものに感じられた。




