第三十章 エピローグ
事件から三ヶ月が経った、ある秋の夜のことだった。
サイバー特捜のフロアは、以前の日常を取り戻しつつあった。新たな案件――今度はごく普通のフィッシング詐欺の捜査が、机の上に積まれていた。美咲は相変わらず忙しく動き回っていたが、その表情には、あの数日間には見られなかった、ふとした瞬間の穏やかさが戻ってきていた。
「お先に失礼します」
美咲が、コートを羽織りながら声をかけてきた。
「田中さんも、たまには早く帰ってくださいね」
「善処する」
田中はそう答えて、小さく笑った。
美咲の後ろ姿を見送りながら、田中は、この三ヶ月で、彼女もまた、確実に成長したことを感じていた。あの事件を通じて彼女が見せた粘り強さと優しさは、これからの彼女の刑事人生において、揺るぎない土台になっていくのだろう。
田中は、久しぶりに定時に仕事を終え、自宅への帰路についていた。電車の窓に映る自分の顔を、ぼんやりと眺めながら、この数ヶ月のことを思い返していた。
高橋たちの裁判は、まだ続いていた。佐藤ひかりは、新しい生活を始めているという便りが、時折、美咲を通じて届いていた。小林彩は、あの記事の反響を受けて、誹謗中傷と法整備をテーマにした、新たな取材活動を始めていた。
先週、田中は小林から一通のメールを受け取っていた。
「妹の墓前に、初めて、心から報告できることができました」
というその短い一文に、田中はしばらく、返信の言葉を選びあぐねた。結局、田中は「これからも、体に気をつけて」とだけ返した。それ以上の言葉は、今の二人の関係には、かえって不釣り合いに思えたからだった。
田中自身は、あの夜、七年前の投稿を削除したことを、結局、誰にも正式には報告しなかった。ただ、あれ以来、自分がSNSに何かを書き込むこと自体、ほとんどなくなっていた。
時折、美咲から「田中さん、最近ずいぶん寡黙になりましたね」とからかわれることもあった。そのたび田中は、曖昧に笑って誤魔化すだけだった。あの事件を通じて自分の中に刻まれたものを、まだうまく言葉にする方法を、田中は見つけられずにいた。
佐藤ひかりからは、一度だけ、短い手紙が届いていた。
「新しい土地で、少しずつですが、前を向いて歩けるようになってきました」
という一文に、田中は、彼女がこれから歩んでいく長い道のりに、心からエールを送らずにはいられなかった。
伊藤とは、事件後も月に一度ほど、近況報告を兼ねて食事をする仲になっていた。先日会った時、伊藤は「審判DAOの監視、もう少し続けさせてほしい」とだけ言い、それ以上多くを語らなかった。田中は、その静かな執念に、かつての取調室で見た少年の面影を、また重ねた。
木村和也と渡辺涼の裁判も、それぞれ別々の法廷で進んでいた。木村は、初公判で終始うつむいたまま、多くを語らなかったという。渡辺は、逆に、自分の技術的な役割について、驚くほど詳細に証言を重ねていた。まるで、その詳細さこそが、彼にとっての贖罪の形であるかのようだった。
自宅の最寄り駅に着いた頃、スマートフォンが小さく震えた。
伊藤からのメッセージだった。
『田中さん、報告です。海外のセキュリティコミュニティで、新たなうわさが出回っています。審判DAOのソースコードをベースにした、新しいプロジェクトが、すでに準備段階に入っているとのことです。名称は――』
田中は、続きを読むために、画面をスクロールした。
『審判DAO v2』
その六文字を、田中は、しばらく、無言で読み返していた。
伊藤のメッセージは、こう続いていた。
『まだ、日本国内をターゲットにしているかは不明です。ただ、こういう仕組みは、一度世界に放たれてしまえば、誰かが必ず、どこかで再現しようとする。僕らにできるのは、その芽を、見つけ次第、一つ一つ摘み取っていくことだけかもしれません』
田中は、スマートフォンをポケットにしまい、夜道を歩き出した。
商店街のアーケードを抜けると、小さな居酒屋の看板の明かりが、暖かく灯っていた。サラリーマン風の男たちが、楽しげに笑いながらのれんをくぐっていく。ごく普通の、何気ない夜の風景だった。この平穏な光景の裏側で、今もどこかで、次の「審判」の種が、すでに芽吹こうとしている。――そう思うと、田中は、平穏な光景を、以前とは違う目で眺めずにはいられなかった。
街灯の下、行き交う人々の多くが、スマートフォンの画面に目を落としたながら歩いていた。彼らのうちの何人が、今もどこかで、誰かの投稿に「いいね」を押し、誰かのうわさを拡散し、誰かの人生に、軽い指先で触れているのだろうか。
ふと、田中の脳裏に、佐藤ひかりの最後の問いがよみがえった。「もし、もう少しだけ立ち止まっていたら」――その問いは、今も答えの出ないまま、田中の中に、重く横たわり続けていた。おそらく、この問いに完全な答えを出すことなど、誰にもできないのだろう。その問いを抱え続けることだけが、せめてもの誠実さだと、田中は思うようになっていた。
田中には、その全てを見通す術はなかった。
ただ、自分にできることは、これからも、その一つ一つの小さな暴力の芽に、目を凝らし続けることだけだと、田中は思った。それは、華々しい勝利でも、劇的な解決でもない。地道に、根気強く、続けていくしかない仕事だった。だが、その地道さこそが、これからのこの国を、少しずつでも、変えていく力になるのかもしれると、田中は信じたかった。
自宅に着き、玄関の鍵を開けようとした、その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが、再び震えた。
新着通知。差出人は不明。件名も、送信元のアプリケーションも、これまで見たことのないものだった。
田中は、画面をタップした。
表示されたのは、たった一行の、短いメッセージだった。
《あなたも、投票しましたか》
その一文には、二つの意味が同時に宿っているように、田中には思えた。
一つは、かつて候補者データベースの片隅に、自分の名前が刻まれていたという事実――七年前の軽率な一投稿が、今もどこかのコードの中で、採点され続けているかもしれないという意味。
もう一つは、もっと広い問いだった。あなたも、誰かのうわさを拡散し、誰かを軽く裁いたことがあるのではないか。あなたも、この社会という名の、名もなき陪審員の一人ではなかったか。
田中は、その一文を、長い間、玄関先に立ち尽くしたまま、動けずにいた。
夜風が、街路樹の葉を揺らしていた。
その通知の送信元を、田中はしばらくの間、突き止めようとした。だが、差出人の情報は、どこまでたどっても、匿名の闇の中に消えていくばかりだった。かつて審判DAOを追いかけた時と、同じ感触だった。
スマートフォンの画面を、田中はゆっくりと閉じた。玄関の鍵を開け、部屋の中に入る。灯りをつけると、いつも通りの、何の変哲もない一人暮らしの部屋が、そこにあった。
だが、その見慣れた風景の中に、田中は今、確かな違和感を覚えていた。この平穏な日常もまた、いつか、誰かの匿名の裁きの対象になり得るのかもしれない。そんな予感が、消えることなく、彼の中に残り続けていた。
田中は、スマートフォンをテーブルの上に置くと、窓の外を眺めた。夜空には、まばらな星が、瞬いていた。この星々のように、遠く、そして数え切れないほど多くの人間の指先が、今この瞬間も、どこかで誰かの運命を、動かし続けているのかもしれる。
その事実と、これからどう向き合っていくべきか、田中には、まだ確かな答えが見えていなかった。一つだけ、確かなことがあった。
この社会に生きる限り、誰もが、裁く側にも、裁かれる側にも、なり得るのだということ。その事実から、目を逸らさずに生きていくことだけが、田中にできる、唯一の誠実さだった。




