第二十八章 しきい値
捜査本部に戻った田中の目に飛び込んできたのは、モニターの前で身じろぎ一つせず、画面を見つめ続ける伊藤の背中だった。フロア中の視線が、その一つのモニターに吸い寄せられていた。誰も声を発さず、ただキーボードのタイピング音と、空調の低いうなりだけが、部屋に響いていた。
「状況は」
「せめぎ合っている」
伊藤は、視線をモニターに固定したまま答えた。
「投票の増減が、ほぼ同じ速度で起きている。増える票と、離脱する票が、せめぎ合っている状態だ」
画面には、進捗を示すバーが表示されていた。しきい値まで、残りわずか数パーセントというところで、バーの先端が、わずかに震えるように前後していた。
「あと、何分だ」
「正確な時間は、もう意味を持たない」
伊藤は言った。
「投票量がしきい値に達した瞬間、コードは即座に実行フェーズへ移行する。時間の問題じゃなく、量の問題だ」
「だが、実行担当者はもう確保した」
田中は言った。
「佐藤さんは、すでに安全な場所にいる。しきい値に達したところで、何ができるというんだ」
「それが分からないから、怖いんです」
伊藤は、画面から目を離さずに言った。
「コードは、対象が保護されたことなど知らない。しきい値に達すれば、システムは登録されている別の実行要員に、新たな指示を送るかもしれない。あるいは、対象を『再指定』する形で、佐藤さん以外の誰かに、その矛先を向け直す可能性すらある。しきい値を越えさせないことには、僕らは、その先に何が起きるかを、永久に知ることができません」
美咲が、緊張した面持ちで、モニターの隣に立った。
「小林さんから、追加の情報が届いています」
美咲が、スマートフォンの画面を差し出した。
「コミュニティ内部で、実行部隊の身柄確保のニュースが拡散したことを受けて、一部の主要な保有者たちが、『これ以上続けても、実行は不可能になった』と判断し、大量にトークンを売却しているとのことです」
「実行できないと分かれば、投票する意味自体が失われる、ということか」
「はい。審判DAOの魅力の一部は、投票が『実際に反映される』という、リアルタイム性にありました。その前提が崩れれば、多くの視聴者にとって、これはもう、ただの無意味な数字遊びに過ぎなくなります」
伊藤が、突然、身を乗り出した。
「動いた」
モニターの中で、進捗バーの伸びが、明確に鈍化し始めていた。増加の速度が、離脱の速度に追い抜かれ始めている。
「このまま行けば……」
田中は、息を詰めて、画面を見つめ続けた。フロア全体が、静まり返っていた。誰もが、瞬きすら惜しむように、その一点を見つめ続けていた。美咲は、両手を胸の前で固く組み、祈るような姿勢を崩さなかった。
バーの先端が、しきい値のわずか手前で、震えながら停止した。そして、ゆっくりと、後退を始めた。
「――止まった」
伊藤が、かすれた声で言った。
「投票量が、減少に転じた。この動きが続けば、少なくとも直近のしきい値到達は、回避できる」
会議室に、誰からともなく、安心の吐息が漏れた。だが、それは、勝利の歓声とは程遠い、疲れ果てた沈黙に近いものだった。誰かが小さく拍手をしようとして、しかしすぐにその手を止めた。喜ぶには、まだあまりにも多くのものが、この事件によって奪われすぎていた。
「終わったのか」
美咲が、震える声で尋ねた。
「今回は」
田中は、静かに言った。
「だが、これで終わりじゃない。システムそのものは、まだ生きている」
田中の視線が、再びモニターに向いた。進捗バーは後退したが、投票のプロセスそのものが停止したわけではない。審判DAOという仕組みは、依然として、ブロックチェーン上に存在し続けている。停止スイッチを持たないまま。
伊藤が、椅子の背にもたれかかりながら、天井を見上げた。
「これで終わり、とは、とても言えない」
伊藤はつぶやいた。
「このコード自体は、これからもずっと、世界のどこかで動き続ける。俺たちにできるのは、それが再び牙を剥く前に、できる限りの対策を講じることだけだ」
「気の長い話だな」
田中は言った。
「ああ」
伊藤はうなずいた。
「でも、それが、俺たちがこれから向き合っていかなきゃいけない、新しい種類の戦いなんだと思う」
そして、佐藤ひかりは、無事に保護された。
田中が、彼女の元に、直接そのことを伝えに行った時、彼女は、しばらく泣き崩れた後、静かにこう言った。
「これで、終わったんでしょうか」
田中は、正直に答えるしかなかった。
「あなたを狙った、今回の動きは、止まりました。でも、審判DAOというシステム自体は、まだ、完全には消えていません」
佐藤は、小さくうなずいた。恐怖と、かすかな安心が入り混じった表情だった。
「刑事さん」
佐藤は、去り際に、田中を呼び止めた。
「もし、これからも、こういうことが起き続けるなら……私は、これからずっと、おびえて生きていかなきゃいけないんでしょうか」
田中は、すぐには答えられなかった。
この問いに対する、確かな答えを、田中はまだ持っていなかった。
だが、田中は、佐藤ひかりの手を、静かに、しかし力強く握った。
「一人では、おびえなくていい」
田中は言った。
「俺たちが、これからも、あなたを見守る。それだけは、約束する」
佐藤は、また新たな涙をこぼした。だが、その涙は、先ほどまでの恐怖の涙とは、少し違う質のものに見えた。
保護先の部屋を出た田中は、廊下で美咲と合流した。二人は、しばらく無言のまま、並んで窓の外を見つめていた。朝日が、ゆっくりと東の空を染め始めていた。長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
「田中さん、お疲れ様でした」
美咲が、静かに言った。
「まだだ」
田中は答えた。
「高橋さんたちの立件、トレンドフォージの追及、そして、この事件全体の後始末。やるべきことは、まだ山積みだ」
「分かってます」
美咲は、小さく笑った。
「でも、少しくらいは、休んでもいいと思います」
田中は、その言葉に、久しぶりに、肩の力が抜けるのを感じた。窓の外に広がる朝焼けの空は、これまでのどんな朝よりも、美しく見えた。
二人が捜査本部のフロアに戻ると、伊藤が疲れきった様子で、椅子に深くもたれかかっていた。
「終わった、のか」
伊藤は、誰に問うでもなくつぶやいた。
「一区切りだ」
田中は答えた。
「だが、これで完全に終わったわけじゃない。まだ、高橋さんたちの処遇も、コントラクトそのものの処理も、残っている」
「分かってます」
伊藤は、力なく笑った。
「でも、今だけは、少し休ませてくれ」
その言葉に、田中も美咲も、小さく笑った。久しぶりに、フロアに、穏やかな空気が流れた。
だが、その安心も長くは続かなかった。捜査本部には、まだ片付けなければならない仕事が、山のように残されていた。高橋、木村、渡辺の正式な取り調べ、トレンドフォージへの継続捜査、専門学校やアルバイト先との調整、そして、佐藤ひかりの今後の生活の保障。事件は終わっても、その後始末は、これからも長く続いていくことになる。




